第四章−11:〈静寂の裂け目〉
夜の理事長宅には、本来ならば眠りに沈むはずの静寂が満ちていた。しかしその静けさは、どこか薄い皮膜のように頼りなく、触れれば破れ、軋むような“緊張”を孕んでいた。
ルイ・カマウは、その緊張に最初に反応した。
寝具の柔らかい沈みと深い眠りの気配が続く部屋の中で、彼だけが唐突に瞼を開いた。目覚めた理由を問われても答えようがなかった。ただ、生まれつき備わっている“勘”が、内蔵された警報装置のように静かに震えたのだ。
――空気が変わった。
そう、感じた。
理事長宅全体に漂っているはずの安らぎと温度が、ごく僅かに、しかし確実に“偏り”を見せていた。言葉にすると曖昧だが、ルイの感覚は曖昧ではない。
彼はこの違和感を、幼少期から何度も経験してきた――危険の前触れとして、あるいは事態が急変する直前の予兆として。
隣の簡易ベッドにはユン・ハルカが穏やかな寝息を立てていた。その向こう側ではジュリアンが、神経質な性格からは想像のつかないほど深い眠り込んでいる。
彼らの呼吸は規則的で、少なくとも“意識して眠っている”様子はない。これは本物の眠りだ。
(……俺だけが、起きている)
無性に胸の奥がざわついた。
ルイは、音を立てぬようゆっくりと身を起こす。
足元は冷たかった。理事長宅は暖房こそ行き届いているが、今の彼には床の温度よりも、空気の“冷ややかな波動”の方が気にかかった。
――これは、外の気配だ。
窓から侵入する風ではない。誰かの視線なのか、あるいは家の外壁を流れる情報のざわめきか、それとも……
もっと“人為的な何か”か。
ルイは小さく息をつき、そっと立ち上がった。
トイレへ行く――それが自然な動線であり、疑われない理由だ。
足音を吸うような絨毯を選んで歩き、部屋のドアに手をかける。
――カチリ。
ごく小さな音。
だが、それだけで“何かが反応した”気配がした。
ドアの向こうは暗い。
理事長宅の廊下は、夜間は最低限の間接照明しか点いていないため、影が深く落ちている。
ルイは深呼吸もしないまま、ゆっくりと一歩を踏み出した。
廊下に出た瞬間、空気の“密度”が変わった。
湿度でも温度でもない。
“情報の流れ”と言えばいいのか、彼の直感が反応しているのだ。
(……やっぱり、おかしい)
理事長宅は保安レベルが非常に高い。外部からの侵入などほぼ不可能。
それでも、今、感じる――
誰かが、外で“動いている”。
その“誰か”は、ただの人間ではない。
アルセーネか、組織の残党か、それとも……。
曲がり角を一度見て、ルイは歩く方向を変える。トイレには行かない。
まずは家の外周の動きを確かめるべきだと思った。
彼の足取りは迷いがない。その一方で、胸の奥に微かな恐怖が芽生えていた。
――理事長の家だから安全、という保証はどこにもない。
足を進めるごとに、外気の微振動が強まっていく。
それはルイの“勘”を刺激し、警鐘のように鳴り響く。
(これは……外に、誰かいる。いや、“複数”だ)
家の外壁越しに、足音の気配――いや、足音ではない。
“位置情報の揺らぎ”のようなものを感じた。
人影が移動する際に生じる空気の偏り、監視ドローンの低周波、アンドロイドの動作音。
そのどれでもあり、どれでもない。
ルイは直感的に悟った。
――この家、包囲されている。
と。
心臓が跳ねた。
だが恐怖よりも先に研ぎ澄まされた集中力が湧き上がる。
幼い頃から彼が持ち続けた“観察者の才能”が、今この瞬間に目を覚ましたのだ。
(今、起こっているのは……外部勢力の接近? それとも、内部の動き?)
どちらにせよ、このまま寝ていてよい状況ではない。
ただ――
(ハルカとジュリアンは、起こすべきか……?)
ルイは小さく首を振った。
起こせば混乱を招く。
それに、3人が“目覚めた状態で”外部勢力に遭遇すれば、何が起こるかわからない。
むしろルイ一人で動いた方が、情報を集めて状況判断が先にできる。
(大丈夫だ……俺の方がこういうのは得意だ)
自分に言い聞かせ、小さな息を吐く。
そしてルイは、廊下の奥へと、影の中へ歩みを進めた。
静寂を切り裂くように、遠くでわずかな金属音が響いた。
――外で、確実に何かが動いている。
ルイの勘は、警告を続けていた。
(これは……“もうすぐ何かが起こる”前触れだ)
そう理解した瞬間、
彼は、確かに聞いたのだ。
外から――
かすかに聞こえる、人間の小さな囁き声を。
その方向に視線を向けたルイの目は、静かに鋭く光っていた。




