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第四章−10:影の行軍(シャドウ・マーチ)


 夜の帳が、街の輪郭をゆっくりと飲み込んでいく。

 理事長宅の外壁を這うように、わずかな電子ノイズが走った。空気中の湿度を反射して微かに光を散らすその揺らめきは、肉眼では捉えられない。だが、それは確かに“存在”していた。


 理事長の密命を受けたN−4は、屋敷の奥深くで監視網を再構築していた。

 赤外線、電磁波、神経パターンの反応――すべてを統合することで「侵入の兆候」を瞬時に察知できる体制を敷いている。

 外界の動きは微弱な波紋として、まるで湖面に落ちた塵のように彼女の意識へ伝わった。


 「……予想より早い」

 彼女は端末に指を走らせ、複数のサブプロトコルを起動した。

 静寂の中、人工知能補助ユニットたちが応答する。

 〈識別不能の影、北側境界線を通過。非武装パターンの生体反応、四〉


 それは、アルセーネの斥候部隊だった。

 理事長邸に直接攻撃を仕掛けるほど愚かではない。彼らはあくまで「探る」。

 敵意を最小限に抑え、監視の目をかいくぐる――まるで煙のように滑らかな侵入。


 同時刻、屋敷から数キロ離れた暗渠の奥。

 アルセーネの現地司令が低く呟いた。

 「センサーは予想より密集している。あの女、完全に防衛を想定しているな」

 「どうします? 別ルートを――」

 「いや、続行だ。目的は“確認”だ。奪うのは次の機会でいい」


 彼らの目標は三人の位置情報の特定、そして護送経路の解析。

 それさえ掴めば、後の行動は容易い。


 彼らの動きは無音に近かった。

 小型ドローンが水面を滑るように進み、屋敷の外壁をスキャンする。

 だが、その通信波を、N−4のセンサーが拾うのに時間はかからなかった。


 〈不審な信号、帯域C−29にて検出〉

 〈局所追跡を開始しますか〉


 N−4は一瞬だけ迷った。

 ――この動きは“彼女”にとっても計画の一部ではないのか?

 理事長の指令は“保護”だ。だが、その裏に“誘い込む”意図があったとしたら。


 「追跡は不要。監視だけを継続」

 彼女はそう指示を出した。

 内部に潜む別の思惑を探るように、冷たい瞳がホログラムを見つめる。


 外では、アルセーネの一行が静かに包囲網を形成しつつあった。

 彼らの通信には断続的に暗号が混じり、まるで祈りのような抑揚を帯びていた。

 それは信念の表れではなく、行動を整えるための“呪文”に近い。


 「――もうすぐだ。あの女の手から取り戻す」


 月の光が雲の切れ間からわずかに漏れ、理事長邸の屋根を照らした。

 しかしその輝きは儚く、すぐに闇が飲み込んでいく。


 屋内では、N−4が監視データを眺めながら小さく息を吐いた。

 「……始まったわね、沈黙の戦争が」


 その声音には、わずかに震えがあった。

 彼女自身もまた、理事長の“密命”という檻の中にいるのだ。

 自由を装いながら、逃れられない運命の軌道上で――。


ーーーー


夜が深まるにつれ、理事長邸の内部はさらに静まり返っていた。

 外では、アルセーネの潜入班が息を潜め、風の音と同化するように動きを止めている。

 それをN−4は全て把握していながら、なぜか「報告」を止めていた。

 まるでその行動を――見逃すように。


 理事長室の奥、分厚いカーテンで外界を遮断した空間。

 部屋の中央に置かれた通信端末の前で、理事長は一人、静かに姿勢を正していた。

 端末が小さく震え、空間に歪みが生じる。

 やがて、その中心に淡い青の立体映像が浮かび上がった。

 映し出されたのは、世界政府執行部の象徴的存在――評議会議長の紋章。


 『……聞こえているな、理事長。』

 重厚な声が空間に響く。

 それは威圧というよりも、すでに「支配」を前提とした口調だった。


 「ええ。予定通りです。彼らは到着し、休息を取っています」

 『アルセーネの動きは?』

 「想定の範囲内。接触を許しました」

 『許した、だと?』

 「はい。完全な排除は逆効果です。あの連中が“何を信じて”動いているかを知る必要がある。

 我々にとっての脅威は彼らの行動ではなく、“理想”そのものです」


 理事長の声音には揺るぎがなかった。

 だがその瞳の奥には、微かな疲労と、誰にも見せない焦燥が滲んでいた。


 『――ならば、失敗は許されん。君の都市は世界で最も安全と謳われている。

 その均衡が崩れた瞬間、君自身が問われることを忘れるな』


 通信が一瞬、ノイズを挟んで切断される。

 残響だけが室内に漂い、理事長はゆっくりと椅子に沈み込んだ。


 「……“均衡”ね」

 彼女は目を閉じ、小さく笑う。

 「均衡なんて、最初から幻想だというのに」


 机の上の小型ホログラム端末が点滅した。

 画面には、理事長の個人暗号にしか届かない極秘通信が表示されている。

 差出人――N−4。


 《外部の侵入を感知。排除命令は不要との認識でよろしいですか》

 理事長は指先で返信を打ち込む。

 《そのまま観察を続けなさい。彼らの動きは、むしろ“道標”になる》


 数秒の間を置いて、短い返答が返る。

 《了解しました。ですが――》

 その文の途中で通信が途切れた。


 理事長は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。

 厚いカーテンの隙間から外の闇を見やると、遠くの街灯の光が淡く瞬いていた。

 学園都市の中心区、そしてその外縁――すべてが静謀の網の中にある。


 「彼らが“月”に触れた瞬間、世界は動く」

 「それまでは……観察者でいましょう」


 理事長の声は、誰にも届かぬ独白のように夜気に溶けていく。


 その頃、屋敷の地下通路を通じて移動していたN−4の視界には、

 警告灯の赤い点滅が連続して映っていた。

 「……彼女は本当に“知っている”のね」

 囁くように呟き、端末を閉じる。


 そして――その足音の先には、

 まるで待ち構えていたかのように、

 黒衣の影がひとつ、現れた。


 静かな夜の底で、策と策が交わり始める。

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