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第四章−6:それぞれの夜


 夜の帳が街を覆い、理事長宅の庭に植えられた樹木の影は、風に揺れるたびに濃淡を変えていた。人目には平穏な住宅に過ぎないその屋敷を、遠巻きに監視する影があった。


 アルセーネの諜報部隊。黒衣の衣擦れの音すら殺し、月明かりをも避けるようにして周囲を巡る。

 彼らは単なる潜入者ではない。都市の監視網を巧妙に欺く手段を持ち、標準化されたセンサーに「ありふれたノイズ」を混ぜ込むことで、存在を隠す術を心得ていた。


 その中の一人が携行端末を操作し、低い声で報告する。

 「……外周の防御ライン、予想以上に厚い。監視カメラは表向き旧式だが、内部回線は最新型に置き換えられている」


 別の声が続く。

 「つまり――外見は脆弱に見せかけた偽装か」


 統括する指揮官が頷いた。

 「そうだろうな。理事長個人の力でできる範囲を超えている。背後には“組織”が関与しているのは確実だ」


 沈黙が落ちた。全員が暗黙のうちに理解している。すなわち、この場所に三人が保護されているということを。


 「目標の所在を断定できる証拠は?」

 問いかけに、偵察班が一瞬の間を置き、記録映像を送信する。


 屋敷の窓辺に、柔らかな光が揺れた。カーテンの隙間から、シルエットが一瞬浮かび上がる。

 ――人影、三つ。


 「確認した……間違いないな」

 指揮官は低く呟き、わずかに唇の端を上げた。


 しかし、その場の空気は決して楽観的ではなかった。

 「問題は、彼らがただ“保護”されているのか、それとも既に“監禁”下に置かれているのか……」

 「理事長という存在がどこまで関与しているのかも不明だ。表の顔と裏の顔、その境界線が見えない」


 議論は短く打ち切られた。

 指揮官が端末を閉じ、夜気に溶けるような声で命じる。

 「深入りはしない。今は所在の確定で十分だ。だが忘れるな……“組織”は我々のように自由ではない。背後にあるのは世界政府そのものだ。正面衝突は愚策に過ぎん」


 その言葉に、一同は静かに頷いた。

 そして、影たちは次々と夜の闇に溶け、屋敷を包む防御網の外へと退いていった。


 残されたのは、窓辺に灯る淡い光と、その下で眠りに落ちた三人の安らかな寝息だけだった。


─────


 理事長宅の奥、書斎と応接間を兼ねた部屋には、わずかな灯りだけがともっていた。分厚いカーテンは外界を遮断し、そこに集まった数名の「組織」員の表情は半ば影に覆われている。


 中央に座る理事長は、手元の茶を静かに口に運んだ後、低く口を開いた。

 「――さて、三人の処遇について、今一度整理しましょう」


 即座に一人の男が前のめりになる。

 「理事長、彼らは単なる学生にすぎません。だが同時に、都市の監視網を掻い潜り“あの場所”に居合わせた。これは偶然ではない。放置すれば、外部の勢力に利用される危険性が高い」


 別の組織員が反論した。

 「利用する危険があるのは我々も同じです。過剰に接触すれば、彼らの周囲に無用な疑念を呼び起こす。いまは“保護”の名目で監視下に置くだけで十分では?」


 空気が張り詰める。

 「保護」か「利用」か――。その二択に揺れる議論は、実際には三人の未来そのものを左右する岐路にあった。


 理事長は両者の意見を黙って聞いていたが、やがて視線を上げる。

 「……あなた方の懸念は理解します。だが忘れてはなりません。彼らは無垢な存在に見えて、その内面には“我々の知らぬ鍵”を抱えている可能性があるのです」


 「鍵……?」と誰かが呟く。


 理事長は頷いた。

 「ジュリアンの研究が示した数値の歪み。ハルカが描き続ける“存在しないはずの月”。そしてルイ・カマウ――あの直感の鋭さは偶然とは言い難い。彼らは互いに共鳴するように引き寄せられ、今ここに集った。これは単なる偶然の連鎖でしょうか?」


 沈黙が支配する。

 その沈黙の中で、理事長だけが柔らかに笑みを浮かべた。

 「だからこそ、しばらくは“保護”を装いつつ、真に必要な瞬間まで“利用”する。……それが最善と考えます」


 組織員たちは顔を見合わせた。反論を試みようとした者も、理事長の視線に射抜かれ、言葉を飲み込む。


 やがて、一人が静かに答えた。

 「……承知しました。理事長のご意向に従います」


 その言葉に、他の者たちも次々と頷いた。議論は終わった。

 しかし誰もが、理事長の言葉の裏に潜む“別の意図”を感じ取っていた。


 廊下の奥、別室で眠る三人はまだ何も知らない。

 自分たちが「保護」と「利用」の狭間に置かれていることを――。

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