第四章−5:違和感の正体
重厚な扉が開かれると、外の冷たい空気から一転、柔らかな光と静謐さに包まれた館の内部が広がった。
広間の壁には絵画や書棚が整然と並び、調度品ひとつひとつが歴史の重みを湛えている。
理事長は三人を案内しながら、まるで学園の一室に迎え入れるかのように自然な微笑を浮かべていた。
「長い一日でしたね。まずは安心してください。ここは安全です。少なくとも、あなた方を危険に晒すことはありません」
ジュリアンは椅子に腰を下ろすと、緊張の糸が切れたように大きく息を吐いた。
彼は理事長の口調に穏やかさを感じつつも、その背後にある“何かを隠している気配”を敏感に察知していた。
だが、今はそれを追及する気力が湧かない。
「……ありがとうございます。正直、どうなっているのか分からなくて」
彼の声には安堵と戸惑いが入り混じっていた。
ルイは少し遅れて口を開いた。
「理事長、あの……さっきまで追われていたんですよね? どうして急に……」
問いかけは途中で途切れた。
理事長が優しく微笑み返したからだ。
「運が良かったのです。偶然が重なって、争わずに済んだ。そう解釈して構いません」
その言葉に、ルイは喉の奥に違和感を覚えた。
本当に“偶然”で済むのだろうか。
だが、理事長の静謐な眼差しの前で、その疑念はすぐに押し込められた。
ハルカは三人の中で最も素直に安堵を示していた。
「よかった……。正直、もうどうなるかって……」
彼女の声には涙の気配が混じっていた。
理事長はハルカの肩に手を添え、慈母のように頷いた。
「あなたたちは守られるべき存在です。心配はいりません」
ジュリアンはその光景を横目で見つめながら、再び胸中で問いを繰り返していた。
――なぜここまで自分たちを気にかけるのか。
――理事長は、何を知っているのか。
だが、彼はその問いを飲み込んだ。
今は、救われた事実の方が重かった。
理事長は三人を見渡し、柔らかな声で締めくくった。
「今日は休みなさい。明日になれば、状況も少しずつ整理できるでしょう」
その言葉に導かれるように、三人は頷いた。
不安と安堵が入り混じる心情のまま。
違和感を抱えながらも、その核心へは手を伸ばさずに。
夜の帳は静かに邸宅を包み込み、三人は初めての安息を錯覚のように感じていた。
三人はそれぞれに与えられた部屋へ案内されると、ようやく緊張の糸を解いた。
ハルカはベッドに身を投げ、息を吐きながら天井を見つめた。
「……夢みたい。本当に助かったんだよね」
その声にはまだ不安が混じっていたが、確かに安堵が勝っていた。
ルイは机に腰掛け、窓の外を見やった。街灯に照らされる庭は静謐で、先ほどまでの追跡劇が幻だったかのようだ。
「偶然、か……。いや……考えるのはやめよう」
彼はわずかに眉を寄せつつも、深く息を吸い込んで思考を閉ざした。
ジュリアンは与えられたノートを開いて何かを書きつけていたが、やがてペンが止まった。
――核心には届かない。
頭の片隅で警鐘が鳴り続けていたが、疲労がその声をかき消していく。
「……今日は眠ろう」
独りごちて灯りを落とした。
それぞれの部屋に静寂が訪れる。
◇
廊下に足音が響いた。理事長が一人、奥の応接室へと進む。
そこには既に数名の組織員が待機していた。無駄のない黒衣に身を包み、姿勢は軍人のように整っている。
理事長は一瞥し、低い声で言葉を投げた。
「三人は落ち着かせました。今は休ませています」
組織員の一人が前へ出る。
「ご苦労様です。引き渡しは予定通り、明後日でよろしいのですか?」
理事長は首を横に振った。
「いいえ。焦りは禁物です。彼らは未だ“状況を理解していない”……その無知こそが今の安全を保っているのです。下手に急げば不信を招き、均衡が崩れる」
言葉に従うように、組織員は姿勢を正した。
「……承知しました。では、我々は外周の警戒を続けます」
理事長は視線を窓の外へと向けた。
暗闇の向こうには、まだアルセーネの影が潜んでいることを彼女も感じ取っていた。
「ええ。彼らは必ず動く。ですが、ここでの主導権は私たちにある。
――“世界政府”の意志を背にしている限りは」
その声は先ほどまで三人に見せていた温和な調子とは異なり、冷徹で硬質だった。
組織員は深く一礼し、静かに部屋を後にした。
残された理事長は短く息をつき、独り言のように呟いた。
「さて……あなたたちを、どこまで信じさせられるかしら」
応接室の灯りが落とされ、館は再び夜の静寂に沈んでいった。




