第一章−2:ユン・ハルカの夕刻
中庭を離れたハルカは、校舎裏手の通用門を抜け、小径へと出た。
この道は、寮までの最短ルートではない。時間にすればほんの五分程度の遠回り。だが彼女はいつも、この道を選ぶ。理由は自分でも分からない。
ただ、ここを歩いていると「忘れそうなこと」が少しだけ、思い出せる気がするのだ。
両脇には背の高い木々が並び、その葉はきっちりと手入れされた枝ぶりで、人工林であることを隠そうともしない。
地面は乾いた砂利敷き。靴の裏で軽く音が立つたびに、風が葉の間をくぐり、静かに何かを囁くようだった。
陽が落ちかけていた。
学園都市の西端、都市全体を見下ろす方向に、鈍いオレンジ色のグラデーションが空を染めている。
その空には、やはり何も浮かんでいなかった。
ハルカは立ち止まり、空を見上げた。
──空白。
それは物理的な「ない」ではなく、感じるはずのものが欠けているという質の喪失だった。
誰も語らない。誰も騒がない。なのに彼女の内側には、確かにその不在が「痛み」としてあった。
(ここに、何かが、あるべきだった)
風が揺れた。頬に触れる空気が、すっと冷たくなる。季節はゆるやかに秋へ向かっている。
彼女はカバンからスケッチブックを取り出すと、近くのベンチに腰を下ろした。
ページを開くと、先ほど描いた「丸いもの」がある。背景の水面。逆さに映った光。——月。それ以外に表現のしようがない図だった。
それを、誰に見せようとも思わなかった。
これは夢の記録ではなく、記憶の写しに近かった。けれど、その「記憶」はどこから来たのか、自分にも分からない。
遠くから、足音が聞こえた。
音の方向を見やると、小型のアンドロイドが歩いてきた。白くて、のっぺらぼうで、人間の形をしているのに感情のない目。
そのくせ、異常に丁寧な動作と、定型句のような会話を忘れない。
「ユン・ハルカ様。午後六時十五分です。ご帰宅推奨時刻を三分過ぎています」
「……うん、今戻るとこ」
「了解しました。監視対象項目はありません。ご安全にお戻りください」
それだけ言うと、アンドロイドは踵を返し、また無音の足取りで道を戻っていった。
ああいう存在を、ハルカは“生きていない”とは思わなかった。けれど、自分たちと同じ世界にいるとも思えなかった。
彼女は再び空を見上げる。
完全に日が沈むまで、あと数分。都市の自動照明が順に点灯を始めていた。
彼女はスケッチブックを閉じ、立ち上がる。
その瞬間、風がぴたりと止まった。
(……?)
いや、止まったのではない。何かが「風の通り道」を遮ったような、奇妙な静けさ。
ハルカは振り返ったが、誰もいない。ただ、ほんの一瞬、空気の密度が変わったように感じたのだ。
なにも起きていない。そう思って歩き出す。
けれど、その背中には、どこか「見られている」感覚が残っていた。誰にも見られていないのに。
その夜、寮の自室で、彼女は再び月を描いた。
今度は背景を濃紺に、光を白で。
輪郭はぼやけて、周囲にうっすらと雲のような影をたたえたその絵は、まるで心の奥にある夜そのものだった。
それが、初めて描いた「満月」だった。




