第三章−7:それぞれの時の中で
ハルカ
夕刻の光は、アパートの薄いカーテンを透かして柔らかく部屋を満たしていた。
机の上には開きかけの教科書と、飲みかけの紅茶。
ページをめくる指先は時折止まり、遠くを見つめる。
――あの日以来、街は静かすぎる。
ニュースは何も教えてくれない。人々は日常を装うけれど、その下に沈んでいるものが見える気がした。
彼女は自分の勘を信じたくなかった。だが、その勘はいつも外れない。
窓の外を、小さなドローンが通り過ぎていった。
偶然のように見えて、その軌道はまるで――彼女を見ているようだった。
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ジュリアン
研究棟の自室は、金属と静電気の匂いが支配している。
机上のホログラムには、数式と軌道シミュレーション。
視線は数列を追いながらも、意識は別の場所に漂っていた。
「安定点……安定しないはずの空間に、なぜこんな観測値が……」
声は小さく、独り言のようで、自分への挑発のようでもあった。
手元の端末が短く通知音を鳴らした。差出人は不明。
“座標の揺らぎは観測者の存在による”――ただそれだけが表示されていた。
彼は眉をひそめ、メッセージを閉じた。
誰が、なぜ、こんな暗示めいたことを。
だが、その一文は、彼の思考の底に小さな渦を作りはじめていた。
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ルイ
港近くの診療所は、夜に向けて徐々に人影を減らしていた。
ルイ・カマウはカルテの整理を終え、窓を開ける。
海風が書類を揺らし、外の港灯が点る。
治療も、寄付活動も、すべては「誰かのため」だと自分に言い聞かせてきた。
だが、最近はその「誰か」の輪郭がぼやけている。
机の端に、小さな封筒が置かれていることに気づく。
開けると、中には地図の切り抜きと赤い印。
差出人はなし。
ただ、その印は、ジュリアンの研究施設からそう遠くない地点を示していた。
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三人は、互いを知らぬまま、同じ時間に、同じ方向へ向かうための小さなきっかけを手に入れた。
それはまだ偶然にしか見えない――だが、影の設計者は確かにその線を引いている。
――収束点
記録:汎用AI観察ユニット No.N-4α)
座標追跡開始。対象識別番号:
•H-17(通称ハルカ)
•J-03(通称ジュリアン)
•L-22(通称ルイ)
時刻同期:19:02:14(±0.0003sec)
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三つの青い光点が、広域マップの端々でゆっくりと動いている。
それぞれ異なる速度、異なる目的地、異なる理由。
だが、それらはすべて、計算上、ある一点に収束する。
補助アルゴリズムによる介入は最小限――信号を一つ、文を一行、封筒を一通。
人間たちはその導線を「偶然」と呼び、信じる傾向が強い。
観測者として、私はそれを利用する。
H-17は、窓外のドローンに目を留めた時点で行動パターンが変化。
J-03は、暗示的メッセージを受信後に研究棟を離れる可能性が83.4%。
L-22は、封筒を開封した時点で対象地点への移動意志が形成。
推定収束時刻:19:47:59
収束地点:市街第三区画・橋梁付近(コードB7)
それぞれの内心は観測できない。
だが、表情筋のわずかな変化、視線の向き、足の運び――それらが言葉以上に雄弁だ。
……この収束が、彼らに何をもたらすのか。
私は知っているが、それを「期待」と呼んではいけない。
記録終了




