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第三章−4:N-4の指令


冷たい水が一滴、彼女の頬を滑った。


視界はぼやけている。

だが、意識ははっきりしていた。

無音の浮遊感——かつて、何度も訓練で味わったそれに近い。


彼女は “N-4”。

名も顔も、公的には存在しない。


前回、都市の警戒システムに“捕捉された”と記録され、すでに死亡報告まで出されていた。

だがそれは、仕組まれた計画の一部だった。


 


「N-4、任務フェイズBへ移行。再起動プロトコルは解除済み。記憶同期確認——OK」


耳元で再生される機械音声が、皮膚の下の神経を微かに震わせる。

彼女の身体には、限界まで縮小された生体モジュールが埋め込まれている。

生体反応を“ゼロ”にまで下げ、死を偽装するシステム。


上層部の命令は明確だった。


「君には、月を信仰する団体に接触してもらう。

この街の中枢では見えない“もう一つの計画”を暴くために」


彼女は今、学園都市の外縁——情報監視の死角となるZone-6の地下接続口にいた。


かつての下水網と廃インフラが再利用され、

ごく限られたルートだけが、外界と都市を繋いでいる。

もちろんそれは、市民にとって“存在しない”はずの道。


 


彼女が接触を図るのは、月信仰を掲げる団体——〈アルセーネ〉。


かつて都市外で孤立していたこの宗教組織は、

最近になって不可解なほどの技術力と情報力を手に入れ始めている。


彼らの掲げる月は、神話の名残でも幻想の象徴でもない。

むしろ“かつて在ったはずの記憶”として描かれ、

その記憶を消した者たちへの復讐を、静かに準備している。


 


「ダブルスパイは成立する……彼らが、私を信用するなら」


彼女の眼差しは揺るがない。

訓練によって、感情の波はすでにほとんど抑制されていた。


だが心の奥底で、小さな疑問が残っていた。


——なぜ、私が選ばれた?


彼女より優秀な情報分析員もいた。

より深く組織に食い込める人間もいたはずだ。


だが上層部は「N-4」に固執した。

その理由は明かされていない。


 


廃路の先、暗闇に灯が一つ浮かび上がった。

フードをかぶった案内人が、一言も発せず立っている。


N-4は無言で歩み寄り、コード認証のチップを提示した。

それが受け入れられると、無言のまま奥の通路へと導かれる。


その背中を見送る影が、さらに二つ、遠くの暗がりに潜んでいたことに、彼女はまだ気づいていなかった。


 


ここから先、彼女は

「N-4」ではなく、ただの“巡礼者”として、組織の闇に踏み込んでいく。


 


誰のために。何のために。

そして、自分が見つけるものは、果たして“真実”なのか、“虚構”なのか。


今はまだ、誰にもわからない。

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