第三章−2:閾(しきい)値の外側
演算がすべて停止した部屋には、
ただ冷却ファンの微かな風切り音だけが残った。
ジュリアンは、椅子の背もたれに深く体を預けると、
ゆっくりと目を閉じた。
頭の奥が、じんじんと痛む。
数時間に渡って連続した集中の副作用だ。
それでも彼は、痛みをそのまま抱えていた。
その痛みが、**「まだ自分は現実にいる」**という唯一の感覚だからだ。
画面に表示された“もう一つの座標”は、
重力場の変動と周期性に基づく理論上の一点。
それが本当に“物体”なのか、はたまた誰かが意図的に作り上げた重力の幻影なのか、
今の彼にはまだ断言できない。
だがそれでも、ジュリアンの中にはある確信が芽生え始めていた。
「これを公開すれば、間違いなく“彼ら”が動く」
“彼ら”——それが具体的に誰なのか、ジュリアン自身もはっきりとは知らない。
だが直感だけは確実だった。
この世界には、「科学的に認められる真理」と「政治的に黙殺される真実」が存在する。
そして後者を踏み込んだ者は、無音のうちに風景から消えていく。
彼の父親も、数年前に忽然と姿を消した。
高位の理論研究者であり、政府研究機関に籍を置いていた。
“失踪”という形で処理された事実はある。
だが、残されたメモには不自然な消し跡があり、
研究成果のサーバーにはログの改ざんとデータの欠損があった。
——思えば、あの時からだった。
ジュリアンが「数値を信じきれなくなった」のは。
彼は端末を閉じた。
データは、すべてローカルの隔離領域に保存し、同期を切った状態で封じ込めた。
「これは、まだ閾値の外にある」
自分の直感は正しいかもしれない。
だがそれは、現時点ではただの仮説だ。
証拠にはならない。
論文にもできない。
それどころか、公にすれば“消される”可能性すらある。
その夜、ジュリアンは誰にも会わなかった。
報告もしない。共有もしない。
ただ、自分の中で思考を反すうしながら、
仮想空間上で幾度となく、座標と数値とを回転させ続けた。
どこかに“穴”があるはずだった。
そうでなければ、この世界が「整いすぎている」理由が説明できない。
それは、地面に落ちた水滴が一点にだけ集まっていくような、
不自然な“整合性”。
それは、何かが手を加えて“整わせている”からこそ、起こり得る奇跡。
「俺が見ているのは……偶然じゃない。
これは、**“演出された世界”**の数値だ」
そう結論づけるには、まだ証拠が足りない。
だが——心はすでに、そちら側に傾いていた。
ホログラフに残された一点の仮想座標が、
まるで向こう側からこちらを見返してくるように、
薄く光を放っていた。




