第一章:空の記憶はどこへ行った
かつて、世界は月を見上げていた。
だが今は、誰もその存在を確かめようとはしない。
必要のない記憶は、まるで最初からなかったように、静かに沈んでいく。
◇ 学園都市「イデア・セクター」
都市の輪郭は正確で、静かで、恐ろしく整っていた。
北緯28度付近、かつては海岸線だった丘陵地帯に築かれた学園都市「イデア・セクター」。
周囲数キロにわたって柵や壁は存在しないが、入域管理は徹底されており、無関係の大人が足を踏み入れることは許されていない。
この都市には、学校関係者、治安維持機関の職員、インフラ技術者、そして生徒たち——それ以外の者は存在しない。
都市の中心に位置する学園は、外観こそ開かれたガラスと緑に包まれているが、その機能は軍事施設にも匹敵する高精度を誇っている。
高度なAI制御システムとアンドロイドが巡回する街路は、完璧に管理され、わずかな異変も即座に検知される。
だが、管理の密度に反して、街は異様に静かだった。
子どもの叫び声も、雑多な騒音もなく、まるで全体がゆるやかな呼吸をしているような、調和に満ちた静謐が漂っている。
見かけ上、それは「理想都市」だった。
◇ ユン・ハルカの午後
午後五時過ぎ。日差しはまだ白く、風はビルの隙間を迷いなく抜けていく。
ハルカは校舎の裏にある中庭のベンチに腰を下ろしていた。周囲は、手入れの行き届いた植栽と人工池。
彼女の足元では、ロボットが水質調整を行っている音がわずかに響く。
膝の上にはスケッチブック。今日の授業の記憶が、まだ輪郭を保ったまま、彼女の中で揺れていた。
(なんであの先生、“月”をあんなに淡々と話せるんだろう……)
彼女にとって月は、夢の中の風景ではなく、体の奥にしみ込んだ“既知”だった。
誰も見たことがないはずのものを、なぜ自分は見たことがあるように思うのか。
それを描けば描くほど、遠ざかっていくような感覚。
ページをめくるたびに、その思いは濃くなっていた。
ベンチの傍ら、白い小型ドローンが一台、彼女の周囲を漂っている。
個人データを収集しているらしいが、ハルカは気に留めない。都市の中ではすべてが監視下にあり、それは当然のことだった。
(でも……誰かに見張られてることと、“誰も見ていない空”は、なんでこんなに違うんだろう)
空は雲一つなく、そして、何も浮かんでいなかった。
◇ ジュリアン・モローの分析室
ジュリアンは、図書棟地下にある生徒用データ解析室にこもっていた。
彼の前には立体ホログラムのシミュレーションが展開されており、月という天体が持つとされる「仮説上の重力分布図」が回転している。
正式な天体資料では、月という名の天体は「存在未確認」とされている。
しかし、古文書や中世のデータ記録には確かに“それ”が存在した痕跡がある。詩、絵画、民間伝承、さらには農業暦まで。
(なかったものとして処理するには、あまりに痕跡が多すぎる)
彼の手元にある複数の国際アーカイブデータは、本来生徒には許可されないレベルのアクセス権を含んでいた。
だが彼の家系は、世界的な科学機関の中枢に繋がっており、その立場を使えば不可能ではなかった。
(“ない”という主張の背後には、“あった”ことへの恐れがある)
そう仮定してみると、すべてが不自然に思えた。
彼は、明確な証拠を求めていた。科学の言葉で世界を語る以上、曖昧な記憶や象徴では納得できない。
ただひとつ気がかりなのは——
スケッチブックに描かれた、あの少女の「月」が、自分の理論モデルと形状的に一致していることだった。
◇ ルイ・カマウの散策
ルイは、人工の丘の上にいた。そこは都市全体を一望できる展望スペースで、いつも人が少ない。
彼はバッグも持たず、ただその場所に立っていた。
足元に咲く花の名前を調べることも、風速の変化を気にすることもない。
ただ、今この都市が“完全に整っている”ことを、彼は皮膚感覚で理解していた。
(完璧な構造は、内側から壊れる)
それは生まれたときから彼に与えられた直感だった。
計算された社会、制御された自由、割り振られた倫理——そこに欠けているのは、予測できないものの存在だった。
ルイにとって、“月”という言葉はその象徴だった。
制御できない幻想。数式に落とし込めない詩。
——世界がそれを拒むなら、なぜ未だに「感じる者」が存在するのか。
彼は静かに空を仰ぐ。
そこには、ただ広がる青空と、風に揺れる雲があるだけだった。
だがその奥に、“何か”が隠れているような気がしてならなかった。
―――
夕刻、学園都市の空に、灯りがともる。
AIが判断した気温と湿度の変化に応じて、街路樹の間に柔らかな光が満ちていく。
誰もが秩序の中で安心し、疑うことなく帰路につくその風景の中で、3人の思考だけが、どこか遠くを向いていた。
やがてその思考は、やがて確かな軌道を持って、ひとつの答えに近づいていくことになる。
世界が、長いあいだ背を向けてきた“記憶の裏側”へと——。




