第三章:秩序のほころび
冷たい光が、天井から無音で落ちていた。
図書館棟の地下——研究区画の最奥にある気密室。
そこにジュリアンは、何時間も前から座り続けていた。
手元のホログラフには、複雑な座標計算と潮汐モデル、
その周囲を取り囲むように、さまざまな数値の変動グラフが滝のように流れていた。
「……やっぱり、合わない」
小さく呟いた声が、音を吸う壁面にさえぎられて、くぐもった反響を返した。
数時間前から、ジュリアンは一つの“誤差”を追いかけていた。
それは、世界潮汐運動の重力補正モデルに生じた、0.0002%の周期ズレ。
計測誤差、機材の限界、想定される太陽風の影響……
ありとあらゆる可能性を潰してなお、その“わずかすぎる揺らぎ”は消えなかった。
それは、誰も気づかない。
いや、気づいても「ノイズ」として無視されるはずの微細な差異。
だが、ジュリアンにはそう思えなかった。
むしろ、それが——あまりにも“意図されたように”歪んでいるように思えたのだ。
「計算上は……地球の重力均衡は、この誤差を内包したまま安定している。
いや、逆だ……この誤差がなければ、均衡そのものが成り立たない……?」
彼の目が端末の光を反射して鋭くなる。
“欠けた月”のないこの世界は、
現在では未知の天体的重力場がそれを代替しているという前提で物理が成り立っている。
多くの学者はそれを“遠距離重力源”として仮定し、
そこに一切の証拠を求めない。
だがジュリアンには、
この微細な“狂い”が、何かを隠しているための歪曲にしか見えなかった。
彼は椅子から身を乗り出し、
別の演算ウィンドウを呼び出すと、
“仮想重力源”の位置計算を複数同時に実行しはじめた。
「……どこだ。どこに、ある?」
声はほとんど呟きではなく、祈りに近かった。
演算が進む。
ウィンドウ上に点がいくつも生まれ、消えていく。
だがその中に、一つ——まるで“太陽の向こう側”に沿うような位置で、
ごく薄く、重力波の干渉に似た振る舞いをする“重心点”が浮かび上がった。
「……バカな……そんな場所に、物体なんて……」
ジュリアンはそこで言葉を切った。
それは理論上、ありえない場所だった。
太陽を挟んだ“反対側”。地球とほぼ同じ軌道を描く、
けれど決して観測できない、もうひとつの対称点。
そう、まるで——
“カウンターアース”。
その言葉が、どこからともなく思考の中に浮かぶ。
誰かから聞いた記憶はない。
だが、それは確かに存在を感じさせる響きだった。
ジュリアンは震える指で演算データを保存し、
何かに気づいたように天井を見上げた。
その瞳に浮かぶのは、疑問ではなく確信だった。
「世界は、なにかを隠してる。
そして……俺はその裏側に手をかけてしまったのかもしれない」
まるで、見えない月の裏側に触れようとするかのように。