第二章−8:想定外の音
最初に異常を察知したのは、アジト内部の“パターン解析担当”と呼ばれる男だった。
彼は円卓の一員ではない。
外郭で情報網の揺れを感知し、必要があれば中枢に報告する役割の技術者。
だが、今この瞬間——彼の手はわずかに震えていた。
「アクセスログに不審な回線確認。ブロック13から侵入。
追跡対象はユニット・N-4、最終位置は市政区との接続階層。
——そのまま応答、断絶」
沈黙が落ちた。
報告を受けた指令室では、瞬時に複数の端末が連動して作動する。
ログの再検証、行動履歴のトレース、都市側のAI監視網との動作比較……
数秒間にして、彼の“消失”が事実であることが確定する。
「……確保されたな」
最初に言ったのは、以前から冷静だった中年の女の声。
「応答の断絶と回線の沈黙。まだ脳波妨害はかかってないだろうが、
すぐに“干渉処理”に入る。彼が自発的に情報を吐く可能性は?」
「ゼロに近い。N-4は“調整済み”だ。
だが問題はそこじゃない。問題は——“気づかれた”ことそのものだ」
集まった構成員たちが、わずかに顔を見合わせる。
彼らの仮面は冷静だが、言葉の裏には確実に焦りがあった。
「どうする。場所を変えるか?」
「否。移動は逆にリスクが大きい。このアジトは“彼女”が選定した。
完全な偽装構造に加え、都市側のセキュリティ・レイヤーの“盲点”に存在している」
「それでも接触ルートが一つ潰れた」
「代替案はある。今のうちに外回りのルートを再設計する」
「……しかし、彼をどうする?」
若い声がひとつ割って入った。
声の主は構成員のなかでも比較的“感情”を持つと見なされている青年だった。
「N-4は都市の生まれだ。構造を知ってるからリクルートされた。
あいつが“戻される”ようなことがあれば、記憶消去だけじゃ済まない可能性がある。
政府側の情報操作が入る。事実の改ざんと記録の書き換えが始まる」
「それをさせないように“干渉”を加えるべきか?」
「否」
また別の声が静かに制した。
「今の都市は、思っているより“見ている”。
外部からの強制的な妨害は逆に網にかかる。
むしろ……奴が処理されるのを“見届ける”必要がある」
誰かが息を飲む音がした。
処理される——
それが何を意味するのか、ここにいる全員が知っていた。
都市の保安機構にとって、
異常者、異分子、不審者の定義は必要以上に曖昧で、必要以上に完璧だった。
“情報を持ち帰らせない”のではなく、
“情報そのものを存在させない”ことこそが正義となる空間で、
N-4のような存在は、“最初からいなかった”ものにされる。
「……奴を“記録”として残せるか?」
「やってみるが……都市内でその痕跡を持つこと自体がリスクになる。
監視AIは“記録の意図”すら嗅ぎつける」
沈黙が落ちた。
長く、重たい、沈黙。
やがて、かすかに誰かが言った。
「……あいつは、わかってて踏んだんだと思う」
「……どういうことだ?」
「意図的にセンサーを踏んだ。あるいは“引っかかるふり”をした。
誰かにメッセージを送るために。
それが内部に向けてか、外部に向けてかはわからない。
だが……あいつが鈍かったことは一度もない」
その言葉に、数人が微かに動きを止めた。
情報は危険だ。
記録は武器にもなり、刃にもなる。
——だが、真に恐ろしいのは、
「意図」だけが独立して生き残るときだ。
都市のセキュリティは記録を消せる。だが、意図は消せない。
そしてその意図が、
“彼女”に届くことを望んでいたのなら——
それは、想定外の揺らぎになる。
「……監視網が反応した時間帯、学園都市側に動きは?」
「わずかなエネルギー変動あり。AI警戒レベルが1.2から1.5へ上昇。
だが全体告知はまだされていない」
「ならば……“彼ら”にはまだ気づかれていない」
“彼ら”。
それは、学園都市の生徒たちを指していた。
この都市で、唯一“定義不能”な存在たち。
規律の中にありながら、想定を超えて行動する余地を持つ者たち。
そして、彼らの中には——
すでに“兆し”を宿している者がいる。
「計画は継続。だが、“彼女”の指示は待て」
「了解。N-4の件は報告に含めるのか?」
「……当然だ。彼女はすべてを見ている。見せなければ、それもまた逆鱗に触れる」
その言葉を最後に、アジトの空気は再び沈黙へと包まれた。
だが、誰もが感じていた。
確実に“何か”が動き始めたことを。
それはひとりの消失によって始まった、
小さな揺らぎの拡大。
そしてこの都市において、
小さな揺らぎこそが——最も恐ろしい崩壊の始まりだった。