第二章−7:名前のない声
再び静まり返った空間に、電子音が一つ、低く鳴った。
それを合図に、暗がりの壁際に並んだ端末が、
それぞれ異なるグリッドで解析データを表示し始める。
赤、青、緑のインジケーターが幾何学的に点滅し、
その中の一画にだけ、**“EXTERNAL ACCESS:AUTHORIZED”**の文字が浮かんだ。
それを見た瞬間、円卓の全員が同時に立ち上がった。
整然とした所作だった。誰も声を発しない。
彼らは誰に命じられるでもなく、無言の敬意を払っていた。
「お出ましだな」
先ほどまで司令を伝達していた壇上の男が、低く呟いた。
その声音には、わずかな緊張が混ざっていた。
「直接音声か?」
「いいや、いつもの代理だ。だが……“署名”はある」
その言葉に、空気がわずかに重たくなる。
名は出されない。が、その“署名”だけで全員が正体を理解している。
誰もが「知っている」のだ。この作戦の背後にいる、
あの人物の名も、肩書きも、そして——本性も。
「……にしても、よくこの作戦に首を突っ込んだものだな。
本来なら、こういう事に関わる必要のない立場だろう?」
「立場など関係ない。あの方は——“自分の理想”に従って動く」
別の声が返す。若く聞こえるが、口調は冷静だった。
「だとしても、我々を使う理由は……興味深いよな」
「“正規のルート”では届かないものを回収したい、という意志は読み取れる。
この街には、上層の規範が干渉できない空白領域が多すぎる」
「そう。制度も法も、彼女には通用しない」
彼女。
あえて性別だけを切り取った呼称が、さらに情報をぼかす。
だがそれでも、誰一人として混乱しない。
それだけ**“彼女”という存在は、組織の中で揺るぎない輪郭を持っている**ということだ。
「それでも俺たちがこうして動いてるってことは……つまり」
「——“彼女自身にも予測できない未来”が存在する、ということだろうな」
「あるいは、彼女がそれを望んでいる」
空気がわずかに凍る。
静かに、しかし確実に。
「……“変化”を?」
「いや、“確信”を得るための“揺らぎ”かもな。
ほら、彼女はいつも、確証がないものを徹底的に排除するくせに、
それでも……なぜか、“曖昧なもの”にだけ執着する」
「……まるで、月のように、か」
その一言が落ちた瞬間、
場の誰かが、小さく笑った。
「ふさわしい皮肉だな。あの方の理想にしては、ずいぶん情緒的な執着だ」
「理想とは情緒の果てにある。
それを否定してきた彼女が、今さら月に囚われるとは……皮肉どころか宿命かもしれない」
壁の端末が、再び音を鳴らした。
【OPERATIONAL TIMETABLE UPDATED】の表示と共に、
一つの座標データが上書きされる。
——それは、都市中央にある研究施設の地下階層を示していた。
「動くのか?」
「もう“兆し”が始まっている。
今動かなければ、他の勢力が先に“揺らぎ”を掌握する」
その声には、はっきりとした危機感と共に、
なにかを押し殺すような決意があった。
その誰もが知っている。
この命令がどれだけ危うく、
どれだけ本来の“秩序”から逸脱しているかを。
だが、それでも——命令は絶対だった。
「……計画、前倒しだ」
「承知」
「全ユニット、再配置を開始。目標は変わらず三名。
優先順位は第一対象から順に従う。
捕獲後の引き渡し地点は……“彼女”の指定通りだ」
ざっ……という衣擦れの音。
数人が立ち上がり、背後の暗闇へと姿を消していく。
一瞬だけ、壇上の男が小さく振り返り、
パネルの奥にいる“誰か”を見上げる。
だがそこに映るのは、何もない空間だった。
ただ、“そこにいる”という気配だけが、
異様な存在感で部屋全体に満ちていた。
——“彼女”の名は語られない。
だがその意志は、ここにいる全員の動きを支配していた。
次に月が昇る夜、
静かな歯車が、ひとつ音を立てて回り始める。