第二章−5:意識の裏側に横たわるもの
昼下がりの教室は、沈黙に包まれていた。
次の授業までのわずかな空白——
誰もがそれぞれに気を抜いている時間のはずだったが、
ハルカはまだ席を立てずにいた。
彼女の手元には、開かれたままのスケッチブック。
先ほどまで騒がしかった周囲は、
いつのまにか元の静けさを取り戻していた。
だが、彼女の内面では、ざわめきが続いていた。
(私は……どうして、月を描くんだろう)
自問は、回想から覚めた直後の余熱のように、
脳内にじんわりと残っていた。
これまでは感覚的に描き続けてきたが、
今はそれを少しだけ遠くから見ることができるような気がしていた。
「憧れ」と言ってしまえば、それは簡単だった。
けれどそれでは足りない。
なぜなら、彼女が描く月は、決して美しくはないからだ。
輪郭は曖昧で、
光の表現には不安と陰りが含まれている。
それは“完璧な存在”ではなく、
むしろ“不完全な記憶”のようなものだった。
(私はあれを……“失われたもの”として描いているのかもしれない)
ハルカはそう思った。
それは、もともとこの世界に存在していて、
けれど何かの理由で“なかったこと”にされてしまった存在。
歴史から消され、
語る者も忘れ、
けれど誰かの中にかすかに残っている——そんな何か。
それはまるで、封じられた記憶の残滓。
そして、彼女の絵は、
その残滓の「輪郭をなぞる行為」なのかもしれなかった。
(でも……どうして、そんなものに私は惹かれるの?)
ハルカはさらに自分に問いを重ねた。
そこにあるのは、喪失感。
けれど、それと同時に、再発見の喜びのような感情もある。
失われたものを、もう一度見つけ出したいという願い。
あるいは、失われたままでいてほしいという矛盾した感情。
どちらも否定できなかった。
——私は、それを「取り戻したい」のか?
——それとも、ただ「残したい」のか?
言葉にしようとするたびに、
その本質は霧のように散っていく。
それでも、彼女は思考を止めなかった。
(あれが実在したものだとしたら……それを覚えているのは、私だけ?)
そう思ったとき、ふと背筋がひやりとした。
自分だけが何かを知っていて、
他の誰もがそれを信じていない——
その構図は、孤独でもあり、
同時に、奇妙な優越感でもあった。
だが、ハルカはそのどちらにも与したくなかった。
彼女は「選ばれた」存在ではなく、
ただ「知ってしまった」だけの存在でありたかった。
(私が描いてるのは、月じゃないのかもしれない)
ふと、そんな思いが浮かんだ。
——あれは“月”という名を借りた、この世界の穴なのかもしれない。
あってはいけない空白、
けれど確かに存在している欠損。
誰も語らない過去、語ってはならない何か。
それが、あの白い球体に形を借りて現れているのだとしたら——
「……だったら、私はそれを描き続けるしかないよね」
誰に聞かせるでもなく、
ハルカはぽつりと呟いた。
それはまるで、
自分自身に対する“契約”のような一言だった。
スケッチブックを閉じると、
その表紙はわずかにぬくもりを帯びていた。
さっきまで手が触れていたからかもしれないし、
あるいは、何か別の存在がそこに触れていたのかもしれない。
彼女はそれに気づかないふりをして、
静かに席を立った。