第二章−4:見えないものが、見えていた
それは、都市に移って二年目のある夜のことだった。
その日も眠れず、ベッドの中で天井を見つめていたハルカは、
ふと、窓の外の光がいつもと違うことに気づいた。
都市の夜は、人工照明によって常に一定の明るさが保たれている。
青白い光、静かな温度、揺らぎのない景観。
けれどその晩は、何かが違っていた。
光が、やわらかかったのだ。
まるで布を通したランプのように、微かに金色を含んでいて、
見慣れた白光とは異なる温度を持っていた。
(なんだろう……)
引き寄せられるようにハルカはベッドを抜け出し、
静かにカーテンを開けた。
そこには、空があった。
——見慣れた、整えられた、変化のないはずの都市の空。
だがその中央に、
彼女はたしかに**“それ”を見た。**
白く、やや滲んだ球体。
それはまるで、雲の裏側から光る水滴のように、
ほんのりと輪郭を放って浮かんでいた。
完璧ではなかった。輪郭は曖昧で、光も不均等だった。
だがそれは、紛れもなく月だった。
ハルカは声も出せず、ただその光を見つめ続けた。
時間が止まったようだった。
心臓の鼓動さえ、聞こえなくなるほどに。
どれほどの間、そうしていたのかはわからない。
しかし突然、
その光は——消えた。
まるで、もともと何もなかったかのように。
雲も動かず、空の色も戻っていた。
それは錯覚だったのか? 夢だったのか?
ただの光の反射だったのか?
けれど——そのときのハルカには、
「それが在った」という感覚だけが確かだった。
翌朝、彼女はそれを誰にも話さなかった。
話そうと思えばできた。
けれど、その出来事が言葉にした瞬間に失われてしまう気がした。
だから代わりに、絵を描いた。
その夜に見た光、その滲み、その儚い存在感を、
できるかぎり正確にスケッチした。
それが、現在に至るまで彼女が描き続けている“月の原型”となった。
◇ ◇ ◇
今思えば、あれは最初の“揺らぎ”だったのだと思う。
整備された世界において、
わずかに現れた、整っていない何か。
他人が否定する記憶でも、
書物のなかでしか触れられない存在でもない。
——たしかに“私”が見たもの。
それが存在するという事実を、
証明したくて彼女は絵を描き続けているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
回想が終わるとき、ハルカは一つ、大きな呼吸を吐いた。
目を開けると、教室の窓の外には薄い雲が流れていた。
それが人工のものか、本物の気象なのかはわからない。
けれど、今の彼女にはそれすら愛おしかった。
遠くの席で、ジュリアンがまだ何かをノートに書いていた。
ルイ・カマウは、いつの間にかいなくなっていた。
ふと、ハルカは自分の指先を見つめた。
スケッチブックに残る、ほんの少しのグラファイトの粉が、
白い紙の上に小さく踊っていた。
それはまるで——
どこか遠くの重力が、彼女の世界に小さく干渉しているようだった。