第二章−3:夜に語られなかったもの
都市に移ったばかりの頃、
ハルカは夜が苦手だった。
整った住宅区の自室。
温度も湿度も最適化された空調。
静かな照明、柔らかな寝具、人工的にデザインされた安らぎの香り。
すべてが「快適」だった。
それでも、彼女は眠れなかった。
それまで過ごしていた家には、夜の音があった。
虫の声、遠くの犬の吠え声、風に揺れる葉のささやき、
時折聞こえる、誰かの笑い声や車の通過音——
それらはすべて、夜という時間の“生命”だった。
都市の夜には、それがなかった。
あるのは、完璧な無音と、監視ドローンのわずかな飛行音だけ。
ハルカはその無音に、言いようのない孤独を感じていた。
そして、なにより不思議だったのは——空のことだった。
地方にいた頃、夜に空を見上げることは特別な行為ではなかった。
暗闇に紛れた星のひとつやふたつを見つけることもあったし、
雲が風に流れていく様子を見て、時間の流れを感じることもできた。
だが、都市では空が静止していた。
まるで、誰かがデザインした“背景”のようだった。
星は動かず、雲は常に同じ形で留まり、
月は、どこにもなかった。
最初はただの“仕様”だと思った。
この都市では空すら制御されているのだと、そう納得しようとした。
けれど、ある夜——
彼女は、ふとしたことで気づいてしまった。
その空のどこにも、「変化の痕跡」がなかったのだ。
雲が流れた跡も、風が通った感触も、
光のわずかな偏差さえ存在しない。
それは空ではなく、“空の模倣”だった。
「おかあさん……月って、どうして無くなっちゃったの?」
何気なく発したその問いに、母は一瞬、言葉を詰まらせた。
そして笑って、こう言った。
「……昔から、なかったのよ。最初から、ずっと」
その返答を聞いた瞬間、
ハルカの中で何かがひどく冷たくなった。
「昔から、なかった」
その言い方が——あまりにも、整いすぎていた。
ほんの数秒の間に、いくつもの反論が頭を巡った。
昔の本には月の話が出てきた。
古い歌にも、物語にも、絵画にも、月の描写は存在していたはず。
自分が幼い頃に描いたスケッチにも、たしかにあった。
なのに。
どうして、そのすべてが“なかったこと”になっているの?
母はもう何も言わなかった。
それ以上の問いは、許されない空気だった。
ハルカはその夜、眠れずに、空の絵を描いた。
星も雲も描かず、ただ空の中央に、白い球体だけを浮かべた。
それは月かどうか、彼女自身にもわからなかった。
けれど——「何かがそこにあった」という証拠のようなつもりだった。
それ以来、彼女はときどき、
誰にも見せずに月を描いた。
スケッチブックの隅、ノートの余白、空想の断片。
そこにだけ、月が“存在した”。
誰も信じてくれなくてもいい。
けれど彼女は、自分の中の記憶と感覚を裏切ることだけはできなかった。
それは反抗ではなかった。
ただの、静かな確信だった。
「私は、見たことがある」——たとえ夢だったとしても、
その感覚は現実の記憶よりも鮮明で、いまなお胸に残っている。
◇ ◇ ◇
回想の底から意識が戻ってきたとき、
教室の空気は、先ほどとはわずかに異なっていた。
輪になっていたクラスメートたちはもう散っていて、
スケッチはハルカの手元に戻されていた。
誰かがそっと閉じたスケッチブックの表紙には、
一本の白い毛糸が絡みついていた。
どこから来たものかはわからない。
けれど、ハルカはその毛糸をほどかずに、指先でそっと包み込んだ。
まるで、それが過去から今へ続く、たったひとつの細い道標であるかのように。