第二章−2:記憶はいつも、円を描く
教室内の空気が、わずかに変わっていた。
それに気づいたのはハルカ自身よりも、むしろジュリアンだった。
誰に声をかけられたのかはわからない。
けれど、いつの間にか彼女の絵を囲む輪は広がっていた。
誰も騒がない。誰も遮らない。
ただ、静かに、その絵を覗き込み、思い思いに言葉を落としていく。
「これ、なにかの古典に出てくる……月?」
「いや、月ってあったんだっけ? 昔の話?」
「教科書では“存在した可能性がある”とか言ってたよね」
「変なの。ぜんぜん見たことないのに、なんでこんなに懐かしいの?」
その言葉の数々は、どれも淡く、
まるで夢の続きを語り合っているようだった。
現実に触れたことのない記憶——
あるはずのない風景を前にして、人はなぜか“知っている気がする”という錯覚を抱く。
ハルカは、そんな周囲の様子をぼんやりと眺めていた。
誰もが、自分の絵に心を寄せている。
それはありがたいことのはずだった。
でも、なぜだろう。どこか、空白のような違和感が胸の奥に広がる。
(私は……なんで、こんな絵ばかり描いてるんだろう)
その問いは、過去に何度も心に浮かんだはずだった。
けれど今のように、他者の視線にさらされながら問い直したのは初めてかもしれない。
気づけば、思考が遠くへ流れていく。
脳の深部から引き上げられるように、
彼女の意識は、まだ言葉もあやふやだった幼少期へと滑り落ちていった。
◇ ◇ ◇
それは、まだ都市の外に住んでいた頃のこと。
世界は今ほど整っていなかった。
地面には舗装の継ぎ目があり、窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえた。
「自然」という言葉の意味を知る前に、それは彼女の生活に溶け込んでいた。
風のにおい、水たまり、夜の虫の声。
それらは、ハルカの内面にとっての“はじまり”だった。
そして、その世界の片隅に、彼女だけが知っている“影”のような何かがあった。
「おつきさまって、あるの?」
そんなことをぽつりと訊いたのは、たしかまだ五歳になる前。
誰に訊ねたのかはもう思い出せない。
けれどその時、誰かが優しく笑ってこう言った。
「あるよ。目に見えなくてもね」
その言葉が、なぜかずっと心に残っていた。
ハルカが最初に月を描いたのは、それからまもなくのことだった。
図形のように描いた丸い白、周囲を黒く塗りつぶし、
細く引いた線で空の輪郭をなぞった。
それは大人たちにとって、何の意味もない「お絵描き」に過ぎなかったけれど、
彼女にとっては、明確な意志が宿る**最初の“表現”**だった。
そして不思議なことに、彼女の描く月は、いつも微妙に形を変えた。
欠けたり、膨らんだり、滲んだり。
同じ絵はひとつとしてなかった。
誰かに見せるつもりはなかったのに、
描けば描くほど、周囲の人がそれに目を留めるようになった。
そして決まって、こう言った。
「これ、どこで見たの?」
ハルカはいつも、うまく答えられなかった。
なぜなら——本当に、見たことがなかったから。
やがて彼女は都市へと移住し、
“合理性”と“制度”によって形づくられた学園生活に組み込まれていった。
規則と枠組みに守られ、
選び抜かれた頭脳たちと肩を並べる日々。
それでも、絵だけはやめられなかった。
誰にも強制されたことはない。
誰に褒められなくても、描かずにはいられなかった。
それは記憶ではない何かに引き寄せられるような感覚だった。
——何かを“思い出さなければならない”という、理由のない衝動。
◇ ◇ ◇
ふと、目を覚ますようにハルカは息を吸った。
目の前ではまだ数人のクラスメートが、彼女の絵を見つめていた。
だが、そのざわめきはもう、彼女の意識からは遠かった。
(私……ずっと、あのときの“影”を探してたのかもしれない)
それが何なのか、未だにはっきりしない。
けれど、それを知ったとき、今の自分が“何者なのか”を理解できる気がした。
そんな予感だけが、ぼんやりと胸の中でかたちを持ち始めていた。