第二章:重ねられた輪郭
昼休みの終わりを告げるチャイムは、都市内の信号網と連動して音程が微妙に変化するよう設計されていた。
その調律は季節ごとに見直されており、今は低く柔らかな響きで空間に溶け込むように鳴る。
それでも、生徒たちは慣れたように席へと戻っていく。流れるように、何の混乱もなく。
その教室の片隅で、ジュリアン・モローは黙って一枚のスケッチを眺めていた。
ユン・ハルカのスケッチブックから切り離された紙。
そこに描かれていたのは、明らかに存在しない風景だった。
暗い空、雲間に覗く巨大な天体。
その輪郭は明らかに月——
けれど、現実には誰も見たことのない、質感も光の捉え方も異質な“それ”が、画面いっぱいに広がっていた。
「この……“天体”は、何を見て描いたんだ?」
ジュリアンの問いは、探るようでいて、直線的だった。
語尾には、少しだけ抑えきれない驚きがにじんでいた。
「うーん……なんとなく?」
ハルカは答えながら、肩をすくめた。
彼女の表情には悪びれた様子も、照れもない。
ただ、本当に“なんとなく”としか言いようがないというような、純粋な答え方だった。
「でも……なんでそれが“天体”だってわかったの?」
「……形と、位置と、陰影の比率。それと……空間の構成からして、衛星軌道を想定した構図だった。
反射光の描写も、星間散乱を踏まえてるように見えた。君……」
「えっと……もしかして、褒めてる?」
ハルカが小さく笑うと、ジュリアンは一瞬言葉に詰まった。
彼女の反応は、期待していたものとは違っていた。
だが、それは悪い意味ではなかった。
むしろ彼女が、彼の専門用語をまったく怖れずに受け入れていることに、
どこか居心地の悪さと、それを超える安心感があった。
「……普通、それを描くには高次元重力場の基礎理解が要るはずだ。少なくとも僕は、これを“なんとなく”で描ける人間を知らない」
「へぇ、そうなんだ。私、習ったことないよ?」
「信じられない……」
ジュリアンは目を細め、スケッチを再び見つめた。
この絵には記憶がある——それも、個人のではなく、
集合的無意識としか言えないような“過去に存在した風景”が刻まれている。
だとすれば——
そんな二人を、遠くから静かに見つめている視線があった。
ルイ・カマウは、教室の斜め後方、壁際の席からそのやりとりを眺めていた。
話しかけるべきか否か、彼の中で何かが一瞬揺れた。
けれど、今はまだその時ではない。
それを彼の中の何かが強く警告していた。
「逸れる」
小さく、口の中だけで呟いた言葉は誰にも聞かれていない。
その“逸れ”とは、単にタイミングを逃すという意味ではない。
ルイには見えるのだ——
言葉の重ね方ひとつで、未来がほんのわずかに歪み、
本来の道筋から逸れてしまう微細な因果の変位が。
だから彼は、何も言わなかった。
ただ、ユン・ハルカの横顔を、そしてジュリアンの指先を、
都市の静けさのなかで観察し続けることにした。
教室の窓の外では、学園都市の午後が静かに流れていた。
温度調整された人工の風が、校舎を囲む木々の葉を軽く揺らす。
巡回ドローンがひとつ、滑るように空を横切る。
遠くでは、水面に反射した光が、建物の壁を淡く照らしていた。
すべてが整えられている。
だからこそ、その中に生まれたほんのわずかな揺らぎが、
とても際立って見える。
それは、物語が動き出す直前の、静かな振動だった。