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プロローグ

「——では、生徒諸君。なぜ“月”という概念が長く詩や物語に登場し続けたのか、考えてみよう」


教壇に立つハリマ教師が、黒板の一角にチョークで滑らかな円を描いた。

丸いその形は、太陽とは異なる冷ややかさを湛えていて、にもかかわらずどこか親しみを感じさせる。


「実在はしないが、存在しなかったとも言い切れない。そうした想像上の天体が、なぜ人の心を掴んだのか——」


 


ユン・ハルカは、その言葉を聞きながら机の端に置いたスケッチブックを指先でなぞっていた。

ページの端には、昨夜の夢の断片——淡い光に照らされた水面と、そこに映る白い丸が描かれている。


(また……描いちゃってる)


夢で見た情景。いつも決まってその“丸いもの”が、空の上に浮かんでいる。誰も教えてくれなかったはずなのに、彼女の中には確かにそれが「知っていた」ような感覚があった。


「月なんて、本当は誰かが作ったメタファーか、物語の装飾でしょう? 想像の産物にしては、やけに多すぎるとは思うけど」


隣の席のジュリアン・モローは、そんな声を抑えるように心の中でつぶやいた。彼にとって“月”は不完全なデータの集合体だった。

曖昧で、証明できず、実在しないくせに、文化と歴史の中に濃く根付いている。

それが彼を苛立たせると同時に、奇妙に惹きつけてもいた。


(存在しないなら、なぜこんなにも“それらしい”形で語り継がれている?)


一方、教室の隅、窓際の席で静かに目を閉じているのはルイ・カマウだった。

ノートもペンも使わない。講義を「そのまま受け入れる」のが彼のスタイルだ。

月について語る教師の声を聞きながら、彼はふと詩を思い浮かべていた。


あるはずのない天体が

心に影を落とすなら

それは記憶か、それとも予兆か


ルイにとって、月は「失われたもの」ではなく、「存在しうるもの」だった。

世界が否定しても、自分が感じているなら、それで十分。

その輪郭の曖昧ささえ、月を特別なものにしていた。


「……ちなみにこれは“空想史”ではなく、“科学と文化の交差”という正当なカリキュラムの一部だ。試験範囲だからな、忘れるなよ」


教師の言葉に、教室中から乾いた笑いが漏れる。誰もがどこか半信半疑で、“月”というテーマを心の片隅に追いやっていた。


しかし——。


この日、黒板に描かれた円が、3人それぞれの心に、微かなさざ波を残したことを、

彼らはまだ知らない。


講義が続く中で、生徒たちは筆記、対話、沈思とそれぞれ異なる形で“月”と向き合っていた。

だがその中でも、際立って異なる反応を見せていた3人は、周囲からも一目置かれている存在だった。


 


ユン・ハルカ。


東アジア出身の彼女は、どこか浮遊感のある存在だ。

いつも夢を見ているような瞳で、絵を描く手だけは確かに現実に根ざしている。

成績は上位に入るが、本人はそれにこだわる様子を見せない。むしろ関心は「世界の輪郭がどこで歪んでいるか」にあるようだ。

教師たちには「不思議系」と評されることも多いが、彼女の言葉には時折、説明できない説得力が宿る。

彼女の部屋の壁には、まだ誰も見たことのない「月の絵」がいくつも並んでいた。


 


ジュリアン・モロー。


ヨーロッパ圏の科学一家に生まれたこの少年は、常に理性と論理を武器にしていた。

完璧な分析、厳密な言葉選び、教師すらたじろぐ理論展開。

彼にとってこの学校は挑戦ではなく「実験室」だ。あらゆる矛盾を暴き、すべてを整合性で塗り替えることを信条としている。

だが唯一、“月”という主題の前では、彼の言葉が滑る。理屈ではない「何か」が、彼の内部をかすめていく。

それがなんなのか、彼自身まだ解明できずにいた。


 


ルイ・カマウ。


アフリカの優れた遺伝子から選抜され、科学技術によって生み出された存在。

生物学的には人間だが、その誕生には意志が介在していない。

彼は誰よりも静かで、誰よりも観察している。

芸術と詩を愛し、言葉を慎重に扱う。時折語る詩句は、聞く者の胸にゆっくりと沈んでいく。

彼の存在そのものが「倫理と存在」の問いをはらんでおり、その目は、まるで世界の構造そのものを映し出す鏡のようだった。

そして彼もまた、“月”という言葉に、理由のない懐かしさを感じていた。


 

この3人は、互いに無理に交わろうとはしなかった。

けれど、なぜか講義のあとにはいつも同じ方角を見ている——

その目線の先に、“ないはずのもの”が、彼らの想像の中で静かに浮かんでいた。


そしてそれは、いずれ世界の「裏側」を暴き出す旅の始まりでもあった。

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