義理堅い女
魁人の働きでどうにか大惨事は避けられたが、犠牲になったものもあった。
Tシャツである。
魁人が着直した白いTシャツは、広範囲がコーヒー色に染まっていた。実は黒のスラックスもそれなりの被害を受けていたが、こちらは色の都合で目立たない。
「魁人、とりあえず着替えてきたらどうだ?無地のTシャツくらいここにも置いてあるぞ」
そう提案する黒田を、魁人は不思議そうに見返した。
「何で?夏だし着てりゃ乾くだろ」
「染みはどーすんだよ」
「柄になっていい感じじゃね?」
どうやら本気で言っているらしい魁人に、黒田は頭痛を堪えるかのように眉間を押さえた。
「……そのビジュアルでそんなにファッションに頓着しないヤツあるか?」
「そもそもどこのブランドなの、そのシャツ」
見るからに安そうだけど、と真弓が問うのに、魁人は何故か嬉しそうにサムズアップしながら答える。
「ふっ。ロシナンテ」
一瞬、場の空気が固まった。
総合ディスカウントストア、ロシナンテ。何でも揃う愉快なお店を標榜するだけあって、衣類も当然のように取り扱っているが――激安の殿堂の二つ名は伊達ではない。ロシナンテ独自アパレルブランドである『A・nag』は、驚異的な安さとダサさ、ほどほどの着心地を兼ね備えた部屋着の王である。都内を練り歩くにはパラメータ不足と言わざるを得ない。
「お前ロシナで服買ってんのか……」
黒田の声は震えていた。
「だって安いじゃん。ウチの近くにあるしめちゃ便利なんだよあそこ。行くとワクワクするし。スーパーいなせやとロシナンテで揃わないモノねぇわ」
「か、魁人さん。その二店舗はね、オシャレだけは取り扱ってないんですよ」
「えっ嘘だろ」
小春の言葉に愕然とする魁人を見て、黒田はため息を吐いた。
「ま、お前がプライベートで何を着ようが好きにすりゃいいんだが……織笠あたりが大激怒しそうだな」
「ん?誰それ」
「あー、衣装部のチーフ、って言っても分からんか。ドラマの中で使われる服とか用意してくれる衣装部ってのが居てな。そこの一番偉い女だ」
魁人の疑問に答えた黒田は、そこで遠い眼をする。
「――着付けとかコーディネートも担当するからオシャレに滅茶苦茶うるさくてな。俺も随分怒られた。オリクロの上下着てただけなのに。俺役者じゃないのに」
「黒田司がファストファッションをチョイスしてるのは、彼女の美学的にNGだったんでしょうね。……でも織笠さんじゃなくてもコーヒーまみれの服着っぱなしのヒトはNGよ。魁人君、着替えてきなさい」
真弓は喫茶室の出入り口をピッと指さし、それには黒田も頷いた。
「だな。南倉庫にあると思うから、スタッフに話してサイズ合うの貰ってこい。場所は――」
「小春ちゃん、案内してあげて」
「はいっ。魁人さん、行きましょう」
実にスムーズな会話の連携であった。魁人が口をはさむ暇もない。
「うぉーん。あれよあれよだぜ」
この場で唯一着替えの必要性を感じていなかった魁人だったが、小春に先導されて流されるままに喫茶室を出ていく。押しに弱い男だった。
ちりんちりんとドアベルが鳴って、テーブルには真弓と黒田が残される。
――この状況は、黒田にとって好機であった。
類まれな女優である真弓に、一つ頼みごとをしなくてはならないからだ。
「……あー、真弓」
そう声をかけながら、黒田は目の前の大女優の様子を伺った。
――相変わらず凄まじい美女だ。今年で二十八になろうというのに、初めて会った九年前から肌艶が変わっていない。むしろ年齢不詳の妖精じみた美しさは、更に迫力を増しているように見えた。
しかし、身にまとった雰囲気だけは明確に違っていた。
かつて、ころころとよく変わった表情は、今は仮面のように動かない。
それが成長による変化でないことを、黒田はよく知っていた。
真弓を変えたのは、諦観だ。
「何?」
表情の無い顔が、短い言葉を返す。
「う、えーと、あれだ」
「?」
もごもごする黒田を見て、真弓は訝しげに眉を寄せる。
「えーとだな……そう、ストーカーの件って片ついたんだっけ?」
「前に言ったでしょう。警察からアレに接近禁止命令が出たけど、そんな命令素直に守る手合いに見えなかったからボディガード付けてるって」
真弓はタチの悪いストーカーに付きまとわれていた。
世界的な大女優ともなれば、その手のトラブルは付き物だ。真弓のボディガードとして身辺警護専門会社から二名が派遣されており、今も撮影所の外で待機している。
「あーそうだったな。ま、今どきは個人的にボディガード雇うなんてのは珍しい話でもないしな。全く日本も物騒になったもんだぜ」
「そうね」
相槌を打った真弓は一口コーヒーを飲み、
「でも黒田さん。貴方そんなこと話したいわけじゃないでしょう」
鋭く切り込んだ。
「ん」
図星を突かれた黒田はガシガシと頭を掻いて――対面の真弓に向かって身を乗り出した。
「真弓。お前に相談がある」
「彼の演技指導?」
「……話早いな。ってことは演技見たのか?」
「ええ。ほんの少しだけど」
「どう思った」
「瞬間的に見れば若手じゃかなり上手いほう、というか『上手く見える』でしょうね」
「……そうだ。だが、あれじゃ早々に破綻する」
黒田は渋い顔をして腕組みをすると少々黙り、それからへの字になっていた口を開いた。
「お前の事情は分かってる。自分の娘があの状況なら、そりゃあプライベートの時間は削られたくねぇだろう。――だが、そこを曲げてアイツの練習に付き合ってくれないか」
頭を下げる黒田を見て、真弓はカップを置いた。
「黒田さん。私はなるべくアヤの傍に居てあげたい。だから今抱えてるのはスカルフェイスだけだし、他の仕事は全部断ってる。今の役だって、貴方への義理を通す為にやっているの。……九年前のね」
九年前。
当時まだ十八歳だった真弓は、とある事情から一刻も早く役者として身を立てる必要があった。
しかし単身渡米していた真弓には映画界にツテもなく、ただただ若くして図抜けていた美貌と演技力を持て余していたのだが――そこに声をかけたのが、既にアメリカで映画監督として名を馳せつつあった黒田であった。
――お前をオスカー女優にしてやる。その代わり、何年先になるかも分らんが、一度だけ俺のオファーを受けろ。
その誘いを、真弓は受けた。
「あんな口約束良く守ってくれたよ、お前は」
「貴方が口約束を守って、本当にあの一本でオスカー女優をとらせてくれたから。私が守らないのは、筋が通らないわ」
「へっ。律儀なヤツだぜ、まったく」
「そうよ。義理堅い女なの、わたし。だからあの時の恩を返せるのなら、どんな役だろうが喜んで、って思っていたけど……」
そこで真弓は、小さくため息を吐いた。
「……テレビシリーズっていうのはちょっとズルじゃないかしら?」
「はっはっは、一度は一度だ。映画とは一言も言ってねぇしな」
黒田はしてやってりとふんぞり返ったが、すぐに真顔になると居住まいを正した。
――映画一本なら大抵撮影期間は三か月程度。だがスカルフェイスは軽く一年以上だ。その長い時間を真弓という一人の母親から奪っていることになると気づいたからだ。
「……なんか俺極悪人か?もしかして」
恐る恐る真弓の顔色を伺う黒田だったが、真弓は小さく首を横に振って否定した。
「そうでもない。仕事をしてる間は、気が紛れるから」
「気が紛れる、か」
「ええ。ずっとアヤの傍に居てあげたいけど――ずっと居たら、どうにかなっちゃう」
「……」
ほんの一瞬、苦悩が真弓の無表情を突き破ったのを見て、黒田はそっと目を逸らしていた。
今年六歳になった娘。その病状があまりよろしくないのは、黒田も知っていた。
「でもね、黒田さん。病気に苦しむアヤの傍に居てあげたい気持ちは本当。今日だってこの後は病院に面会に行くの。だから、これ以上は余計な仕事を増やす気はない」
「……そうか。そうだよな」
視線を逸らしたまま、黒田は相槌を打った。
無理もない話だった。流石の黒田もこの上「そこを何とか頼む」と押す気力は湧いてこない。
しかし、
「……だけど、さっき助けてもらっちゃったからね」
ぽつりと真弓が呟いた。
はっとして黒田が視線を戻す。
真弓は頬杖をついてそっぽを向いていたが、
「商売道具に傷が付かなくて済んだから、空いてる時間に少しだけなら」
やや不満げな声で、自らの義理堅さを証明した。
「助かる!」
「本当に少しだけよ」
真弓は念押しするように補足したが、黒田は喜色を浮かべたまま力強く頷いた。
「ああ。少しだけで十分だ。アイツなら何かを掴むだろう」
確信を感じさせる言葉であった。真弓はわずかに首を傾げる。
「随分と買ってるじゃない。貴方にしては珍しい」
「何せ魁人は俺の運命だからな。あ、そうだ真弓、魁人との馴れ初め聞かせてやるよ」
「貴方ちょっとおかしくなってない?」
「いいから聞けって。俺は今日な――」
主観まみれの長い運命の話が始まった。
うんざり顔が無表情に隠れてしまっていたのは、真弓にとって不運であった。