ゼロ歳児と電卓の親玉
西暦2024年。
国際的テロ組織『LOE(Legion of Equality)』は拡大の一途を辿っていた。
およそ40年前に結成されたとされるこのLOEは出所不明の巨大な資金を背景に、『真に平等な社会を』のスローガンの下、兵器を用いた無差別な略奪を続けていた。
指導者は正体不明。40年の間に一度代替わりしたと噂されているが、それすらも定かではない。
疫病のように急速に広がったLOEは無数の下部組織を持ち、それは今やあらゆる国家に根を張っているとも噂されている。
無論、国際社会はこの無法者集団の台頭を黙って見ているばかりではなかった。国際カウンターテロリズムセンター、対テロタスクフォースなど様々な対抗組織が発足し、ほとんどの国家の警察組織もLOE対策の部門を設立している。
――そして、そのいずれにも属さない対抗組織もまた、密かに存在していた。
◆
マンションの一室で、魁人は手元の携帯端末を眺めていた。
画面に表示されているのは数日前のメッセージ履歴だ。
Dr:さて、君がケースの取っ手だけをもって帰還してから一週間が経った。
カイト:ドクターの嫌味もこの一週間で聞き飽きたな。
Dr:その部屋の居心地はどうだ。さして広い部屋でもないが、休暇を満喫しているか?
カイト:マンションっていうんだっけ?新鮮でいい感じだ。用意してあった映画もドラマも本も随分楽しませてもらったよ。
Dr:まぁマンションと言ってもただのワンルームマンションだが、満足しているのならば結構。
Dr:だがそろそろ休暇も終わりだ。あらかた肉体の修復は済んだのだろう?
カイト:九割方な。バディが頑張ってくれたよ。修復ついでに顔もちょいとかわったけどな。
Dr:ほう。写真を送ってくれたまえ。
カイト:ほら。
Dr:ふむ。少々彫りが深くなったな。まったくその能力は潜入工作員としては最高だ。
Dr:しかし一週間前のミッションで敵に面が割れたわけでもない。半年前に君をLOEから救い出した時は顔を変えてもらうしかなかったが、今回わざわざその必要があったのか?
カイト:バディが提案してきたんだよ。どうせ顔も大怪我したんだから、この機会により性能を上げようとか言ってな。
Dr:性能?
カイト:なにかにつけ性能にこだわるからな、こいつ。ほんでバディ曰く、『顔が良い』というのは『顔面の性能が高い』ということらしいぜ。映画を見て学習したそうだ。
Dr:まぁ真理かもしれんな。昨今はルッキズムがどうのとうるさいから、外で言わんほうが良いが。
Dr:君としては半年で二回顔が変わったことに文句はないのか?
カイト:別にツラの皮一枚に興味ねーよ。カッコ良さってのは生き様だからな。これでツラの皮は三枚目だけど、俺は相変わらず二枚目だ。
Dr:だが面の皮一枚で人生が変わることもある。大事にしたまえ。
Dr:さて、ここらで状況を説明しておく。
Dr:一週間前の君の初ミッションは、まぁ半分成功といったところだ。あのヴィーライトの奪取には失敗したものの、LOEからも失われた。
カイト:あいつらにとっても大事なモンなんだろ?フツー撃つか、ミサイルを。
Dr:他者の手に渡るぐらいなら紛失したほうがマシだと判断したのだろう。超人的なエージェントを一人始末できる、という点も魅力的だったのかもしれないが。
カイト:生憎ピンピンしてるけどな。
Dr:その点はLOEとしても予想外のはずだ。公安と協力し『東京湾で死体が上がった』という情報もでっち上げておいた。
Dr:故にこのタイミングであろうと『単身上京してきたフリーター』である君に疑いの目を向ける者は皆無だろう。
カイト:え?上京してきたフリーター?
Dr:そう。それが次のミッションにおける君のカバーストーリーだ。
Dr:次のミッション。君には転ばぬ先の杖になってもらいたい。
Dr:知っての通り、ヴィーライトはほとんどの人間とって何の意味もない石ころに過ぎないが、ごく少数の人間にとっては極めて危険な代物だ。
カイト:ああ。遺伝子とか脳波だっけ?幾つかの要素がある程度適合する人間が触っちゃうと、俺みたいに融合しちまうんだろ?
Dr:ああ。だが君は身体もバディも特別製だ。君ほど理想的に適合する人間は恐らく存在しない。普通の人間であれば大半がショック死し、それを免れても不完全な融合を起こす。結果としてその人間は心身に異常をきたし、発狂して常識を超えた力で暴れまわった挙句拒絶反応とショック症状で死ぬことになる。
カイト:あー……その危険な石ころが港湾区域にバラまかれちまった、ってことになんのか。
Dr:低い可能性だがな。ヘリの残骸の分布から推測するにほとんどは東京湾に沈んだだろうし、海流に乗って大海原に運ばれている可能性もある。加えてヴィーライトは適合する人間に接触しない限りシグナルも発しない。一つも見つからない可能性は極めて高い。
Dr:しかし、万が一適合する人間が拾ってしまえば大惨事に繋がりかねん。我々は単にLOEの敵であり、正義の味方ではないが……公安と協力状態にある以上、こちらの不手際で民間人の犠牲者を出すのは望ましくない。
Dr:故に君には東京で生活してもらい、シグナルをキャッチしたら現場に急行、事態の収束を図ってもらいたいわけだ。
Dr:ヴィーライトがもたらす力は基本的に質量に依存するからな。報告にあった程度の結晶であれば、どれほど暴れたとしても君なら取り押さえられるし、バディならばその場でヴィーライトを人体から摘出することも可能だ。
カイト:なるほど。理にかなってるな。
Dr:――と、ここまで説明しておいてなんだが、このミッションの主目的は別にある。
カイト:え?
Dr:それは君に常識を身に着けてもらう、ということだ。
Dr:半年前に君をLOEの研究所から救い出した時、君は奇妙な記憶障害に陥っていた。
Dr:研究所から盗み出した資料によれば君は拷問紛いの実験を繰り返されていたらしいから、そのPTSDによって解離性健忘を発症した、というのは分かる。だが、それに加えて脳への『焼き付け』。これが問題になったのだろう。
カイト:兵器の運用法や戦闘の知識を、直接脳へ書き込んだ、だったよな?
Dr:概ねその通りで、存在しない記憶を造り上げる技術ともいえる。まだ動物実験の段階にある技術だ。資料によれば、LOEはそれを君に用いた。
Dr:その結果が今の君だ。特定の分野では専門家並みの知識を有しているが、常識ごと過去が抜け落ちてしまった。この半年で何一つ記憶を取り戻せていないことを鑑みても、最早『その内記憶が戻る』という楽観論に頼っていはいられない。
カイト:LOEからかっぱらったデータにも俺の個人情報は無かったんだっけ。
Dr:ああ。本名も年齢も不明だ。肉体的には20歳前後と思われるが。
カイト:未だにになーんも思い出せないからなぁ。ドクターに付けてもらった魁人って名前は気にいってるけど。
Dr:なにせ救出した当初はトイレの使い方すらわからなかったぐらいだから、不可逆的な記憶の破壊を受けている可能性は高いのだろう。
カイト:その辺の話は止めてくれよ……カッコ悪ぃじゃん……
Dr:ああ、すまない。
Dr:とにかく君に『普通の人間』と同じ生活を送れるようになってもらう、というのがこのミッションの目的だ。
Dr:ヘリの操縦が出来ても電車の乗り方が分からないとかギャグでしかない。今後我々アンチレギオンのエージェントとしてやっていくにしても、一般常識を身に着けなくては。日常に溶け込めなくてはエージェントは務まらない。脳にまで及んだ実験の成果と言うべきか、君の学習能力や記憶力は極めて高いから、最低限の常識はすぐに身につく。
Dr:と思われる。きっと。
カイト:なるほどな。了解だ。
Dr:当座の資金として百万円ほど振り込んでおく。そのマンションには最低限の日用品が備え付けられているが、不足しているものは随時購入してくれ。
Dr:資金に関しては毎月同額を振り込むつもりだ。
カイト:毎月百万円?!それって結構スゴイ額なんじゃねえの?
Dr:半分失敗した初ミッションの報酬も込みだ。成功してれば倍額を考えていた。
カイト:くぅーん……
Dr:ゆくゆくはアルバイトなどをして、カバーストーリーを確固たるものにしてもらいたいが、まぁ最初から高望みはすまい。常識を身に着ける方を優先してくれたまえ。
カイト:オッケー了解。
カイト:それにしても『次のミッション』なんて言うから身構えたけどよー。
カイト:休暇が伸びたようなもんじゃねーか、へへ。あ、期間ってどれくらい?
Dr:現段階では一年を目安としている。
カイト:おお、一年も!
カイト:夢の一人暮らしを満喫できそうだ!
Dr:
Dr:カイト。
カイト:?
Dr:君を救い出してから半年が経つが、以来半年間君は殆どを私のラボで過ごしてきた。
カイト:おう。あそこで治療してもらいながら、おべんきょしたり訓練したり映画見たりドラマ見たりしてたよなー。
Dr:つまり、君の行動範囲は猫より狭かったわけだ。おまけに記憶は半年分しかない。
Dr:その君を、私は単身東京に解き放とうとしている。
カイト:ま、バディも一緒だけどな。
Dr:バディか。
Dr:ヴィーライトにモータータンパク質とDNAで構成されたナノマシンくっつけたらなんか知性らしきものが生まれたのがバディだ。人間と同じ精神を有しているわけではない。
カイト:?えーと
カイト:つまり何が言いたいんだ?
Dr:うん。
Dr:ハッキリ言おう。今になって私はすごく不安だ。
Dr:ゼロ歳児に電卓の親玉を持たせて一人暮らしをさせようとしているのではないか?これって狂気の沙汰では?
Dr:そう思っている。
カイト:言うに事欠いてゼロ歳児と来たかよ。
カイト:それと電卓の親玉呼ばわりされたバディの怒りっぷりをドクターに見せてやりてえ。
カイト:すごいんだから。体内で。やめてくれバディ。
Dr:君の知性とバディの性能を信じたうえで今回の判断を下したわけだが
Dr:さしあたって一か月後。もし君の口座の残高が底をついていた場合
Dr:君にはラボに戻ってもらい、絵本の読み聞かせから順を追って教育し直そうと思っている。
Dr:サービスでオムツも履かせてやろう。
カイト:はは、面白いジョークだぜ。
カイト:ジョークだよな?
Dr:くれぐれも無駄遣いは避けるように。では。
「ふっ、無駄遣いは避けるように、か」
履歴を一通り読み終えた魁人は、室内へと目を向けた。
テーブルには今日の朝食が乗っている。
総合ディスカウントストア『ロシナンテ』で購入したシリアルと、近所のスーパー『いなせや』で特売品だった乳飲料。食器は全て百均で揃えた安物。
これらの非常にコストパフォーマンスに優れた物品は、昨日購入したものだった。
だから室内にあるその他の物はそれ以前に購入したものだ。
具体的にはゲーミングパソコンと高級メッシュチェアとアコースティックギターとレコーダー一体型大型テレビとスカルフェイスのブルーレイボックスはそれ以前に購入したものだ。
錚々たるメンツだった。
「ええと」
デジタル腕時計を装備している手で、魁人は携帯端末を操作。自らの口座の残高を表示した。
残金。
63円。
「やってしまったのでは?」
冷や汗を流しながら、衝動買いの王と化した男は呟く。
バディは何も言わなかった。