【44:崩壊(下)】
「な」
命令を受けたレフノールよりも先に、サルヴィーノ中尉が声を上げた。中佐のもとまで馬を進め、部隊の方を手で示しながら、抑えた声で何事かを話しかけている。進言の形で命令に反対しているであろうことは明らかだった。
「黙れ!」
怒声が響き、サルヴィーノ中尉の上体が大きく揺れる。中佐が己の副官を殴りつけたのだった。
太矢を装填済みのクロスボウと中佐との間で視線を往復させたヴェロニカが、ちらりとレフノールを見る。視線を合わせたレフノールが、首を横に振った。
「駄目だ」
視線を戻したヴェロニカに、言い訳のような言葉をかける。
「やっちまったら君らしか生き残れない。君らもお尋ね者だぞ」
戦闘中のどさくさに紛れて、ひとりになったところを、ということであればともかく、混乱しているとはいえ大隊本部の将校も周囲には幾人もいる。撤退を始めた部隊は次々とやってくる。白昼堂々の上官殺しを見過ごされる状況とも思えない。うまくこの場を切り抜けられたとしても、間違いなく部隊長であるレフノールやリディア、先任のベイラム、そして冒険者たちは厳しく詮議されるに違いなかった。
「大尉さん、やっぱりなんだかんだ育ちがいいよね」
「いやあ、軍隊やばいわ」
揶揄か賞賛か判然としない口調でヴェロニカが言い、アーデライドが呆れたように笑う。
「軍の上の方ってあんな人しかいないんですか?」
「そのあたりを大尉みたいな人が補って成り立つわけでしょう」
部隊の長が振る舞いひとつで厄介事を持ち込むところを2度続けて見せられたリオンが傍らのコンラートに尋ね、コンラートが肩をすくめて応じた。
「大尉、復唱はどうした!」
中佐の大声がまた響く。
「――君も落ち着け」
背を向けたまま、顔を見ずともわかるほどの怒気を漲らせるリディアの肩に、レフノールがそっと手を触れる。放っておけばそのまま中佐の額を射抜きかねないと思われるほど、リディアは腹を立てていた。
「中佐殿、第2軍団輜重部隊は現位置で退路を確保し、近衛歩兵の退却を援護いたします!」
姿勢を正してレフノールは敬礼し、復唱した。
退路の確保は可能、と見てはいた。この場所の妖魔どもは数を減らしている。
とはいえ、退却の援護とやらがいつまでできるのかはよくわからない。そもそも、いつまでそれをやらねばならないのかが曖昧なままなのが引っ掛かる部分ではあった。とは言え、迂闊に尋ねれば死守命令が――文字通り、最後の一兵までここで戦えという命令が出てきかねない。曖昧な方がいくらかまし、と考えるほかなかった。
復唱を聞いた中佐が馬首を返して駆け去る。大隊本部の将校たちが後に続いた。
「――申し訳ありません」
後悔の念に堪えない、という表情で、兵の流れに逆らうように、サルヴィーノ中尉が近寄ってくる。殴られた頬が赤くなっていた。
「貴官の責任じゃあるまい。だが、責任を感じてるならひとつ教えてくれ」
「何なりと、大尉殿」
「個別の――小隊単位の指揮官で、こういうとき頼れそうな奴はいるか?」
束の間考えたサルヴィーノ中尉が、います、と頷く。
「アゼライン中尉。昨日は索敵を担当していました。今日は隊列の中ほどよりもやや前方です」
挙げられた名前には聞き覚えがあった。会話をしたときの印象も、サルヴィーノ中尉の評価と矛盾しない。隊列の先頭に立って索敵をこなすだけの手堅さと、そして状況に応じて態度の硬軟を使い分けられるだけの器用さがある。
そのような資質があれば、危機的な状況の中でも生き延びてくれている可能性は高い。自発的に殿を引き受けて戦死などされていては困るところだが、そうであれば一定の足止めはしてくれている、という期待が持てる。
そこまで考えて、レフノールは、俺も卑しくなったものだな、と自己嫌悪に陥った。
自分が命じられて相手を殺したくなった足止めを、誰かが自発的にやってくれるかも、などと期待してしまうのは、あまりに都合のいい話ではある。とは言え、そのような自己嫌悪に浸っていられるような状況ではない。
「わかった。彼――アゼライン中尉が生きていることをまず祈ろう。生きていたならば、協力を依頼する。うまくタイミングを合わせられれば、どうにかなるだろう」
一瞬の間のあとでそう言いながら、行けよ、と手を振る。
「あいつは小官の同期です。こんな場所でくたばるほどの可愛げはない。そこは信頼してよいかと」
くだけた口調でそこまで言ったサルヴィーノ中尉が言葉を切り、背筋を伸ばして敬礼した。
「ご武運を、大尉殿」
「中佐と近衛の皆に、よろしく伝えてくれ」
いい加減な答礼を見せて、レフノールが答える。
中尉ひとりにどれだけのことができるのかはわからない。あの中佐のことだから、緘口令くらいは布くだろう。第2軍団の中まで干渉してくる可能性もある。だが、レフノールに、黙って事実を握りつぶされるに任せてやる気などなかった。
「王都に戻ったならば、同期を集めてちょっとした酒の席でも設けようと思います」
中尉に意図が伝わったことを理解して、レフノールが行けよ、と後方を手で示す。
はい、と応じたサルヴィーノ中尉が馬首を返した。それを確かめて、レフノールは部下たちに向き直る。
「聞け! 耳だけでいい!」
「傾注!! 警戒は緩めるな!」
レフノールの言葉を、ベイラムが補う。
「我々は――輜重隊は、近衛歩兵の殿を仰せつかった! ここで退路を確保し、近衛の退却を援護した上で、我々自身も撤退する!」
本隊とは言わず、意図的に近衛と言い、その『近衛』の単語を殊更に強調する。
「勲章を取れるような戦い方がどういうものか、僭越ながら摂政殿下のご子息にも御進講させていただこう。――残念ながら、じかにご覧いただくことはできないが」
兵たちの間から失笑が漏れた。
「そんなわけで俺は、ひとつやりたいことがある。真っ先に逃げた奴の前に諸君を整列させて、『輜重は立派に殿の御役目を果たしました』と報告を言上することだ」
また失笑。大きく息を吸い込んだレフノールが、大音声を発する。
「ちょっと撫でられただけで負けた気になって逃げ出したクズ野郎にも! もう勝った気になって追いかけてくるアホウ共にも! 目にモノを見せてやれ!!」
兵士たちがどっと沸く。ひとまずはこれでいい、と思いながら、レフノールは抑えた声で先任下士官を呼んだ。
「曹長」
「はい」
「当面、街道の南側を警戒。出てくる奴は射て。逃げる奴は追うな。隊形変換が迅速にできるよう、障害物に使う荷の位置を把握しておけ」
この場での退路の確保自体はさほどの問題ではない。問題は、とレフノールは考える。
前方で隊列を食い破った妖魔どもは、いずれ退却する味方を追撃してくる。それをどう食い止めるかを考えなければならない。
「追撃してくる連中は?」
練達の先任下士官も同じことを考えているようだった。
「あちらの練度によるな。ただの妖魔の群れになってるなら、バラけて追ってくるし、こっちの兵が落ちるたびに隊列が乱れる。ある程度の練度があれば一枚岩だろうが、そうなら追撃の速度はそこまで出ない。どちらにしても」
馬上から混乱する街道を見やって、レフノールは肩をすくめる。
「ろくでもない話なんだよな」
悪い冗談のような任務が、始まろうとしていた。
命令されちゃったからね、仕方ないですね。




