【43:崩壊(上)】
「ばッ……!」
馬鹿な、という言葉を、レフノールはどうにか飲み込んだ。
退却の判断それ自体はよい。良くはないがやむを得ない。混乱している現状から、一旦退いて態勢を立て直す、という判断そのものは定跡のひとつでもある。問題は、総指揮官が真っ先に逃げている――事実どうなのかは措くとして、そのようにしか見えない行動を取っていることと、おそらく後方に残してきた部隊が孤立しつつある、ということだった。
戦いながらの退却は難しい。
周囲が逃げ出せば、前衛は踏みとどまることができない。真面目に戦おうとすればするほど孤立し、囲まれて殺される未来が見えてしまう。そうなることがわかっていてなお踏みとどまれる人間は少数派だ。つまり、皆が無秩序に逃げ出すことになる。それは退却ではなく、潰走と言うべきものだ。
退却をしなければならないということは、少なくともその場では不利な状況が生じている、あるいは今後不利な状況が想定される、ということで、ただでさえ士気に問題がある、ということでもある。そのような状態で、総指揮官が慌てて逃げるような様子を見せたならばどうなるか。簡単に想像のつく話ではあった。
現に、隊列のすぐ前方にいた部隊は、我先にと退却を始めようとしている。
森の中へ押し戻した敵も、こちらの混乱を見て取れば再び出てくる可能性さえあった。その言動だけで味方に混乱をもたらし、敵に勢いを与えようとしているのだから、レフノールにとっては利敵行為と言い切ってしまって差し支えないような振る舞いだった。
隊列の先頭を駈けてくるのは、中佐の副官、サルヴィーノ中尉。苦虫を噛み潰したような表情になっている。
「中尉!」
邪魔にならないよう、どうにか進路を開けながら、レフノールは声をかけた。行き脚を止めた中尉の脇を、なお幾騎かの騎兵に守られた中佐が通り抜け、少々先まで行ってようやく止まる。
「退却を?」
「――お留めしたのですが」
低い声で尋ねたレフノールに、サルヴィーノ中尉が歯噛みするような態度で応じた。
「隊列の前方は?」
「最前部は不明です。ですが、おそらく相当の損害が出ている。隊列の中ほども2か所で攻撃を受けました」
長く伸びた行軍隊形。挟撃からの分断。それも複数箇所。
「ここも襲撃されている。今のところ、損害は出ていないが。退くなら退路を確保しなければ」
誰が退路を確保するのか。それを援護するのは誰か。彼ら自身はどうやって退却するのか。追撃をどうやって食い止めるのか。
損害を減らしつつ退却したいのであれば、考えなければならないことや決めなければならないことは山ほどある。叫びながら駈け抜けてそれで良し、という話ではけっしてない。
「襲撃――ここもですか?」
尋ね返すサルヴィーノ中尉に、そこ、と転がったままの妖魔の死体を手で示す。
「今のところ出端を挫き続けている。しかし、退くならここをどうにか固めておかなければ――」
言いかけたレフノールの耳に、大きくなりつつある喧騒が飛び込む。視界の端で、本隊の兵たちが、崩れるように退却してくるのが見えた。
くそ、と呟いて剣を抜き、掲げて頭上で円を描くように振る。
「こっちだ! 左側を抜けろ! 列を乱すな!!」
本当ならば、退くな、留まれ、と叫びたいところだった。だが、戦う意思を失い、我先にと退却する兵はもはや兵として当てにできない。それはただ武器を持っている人の群れでしかない。そんな人の群れを命令ひとつで兵に戻すことができると考えるほどの楽天家では、レフノールはなかった。
そうであればせめて、己の部隊に突っ込まれて戦闘不能になるというような、そしてその状態で襲撃を受けるというような事態だけは避けなければならない。退いてきた兵たちは、どうにか脇を抜けて離脱してゆく。
レフノールがもう一度視線を転じると、己の部下が幾人か、自分に視線を向けていた。自分たちはどうするのか、とその目が問うている。
――それもこれも、あの中佐が真っ先に……!
「曹長!」
八つ当たりのように、腹心の部下を呼ぶ。強面の先任下士官は、上官の意図を誤解しなかった。
「はっ! ――貴様ら、腰抜けどもに気を取られるな! そのような許可は出ておらん!!」
喧騒の中でもよく通る太い声が、動揺しかけた兵たちを叱咤する。
その甲斐あってか、兵たちはどうにか内心の動揺を抑え、隙あらば襲撃をかけようと構える妖魔どもに向き合うことができていた。
話していたサルヴィーノ中尉に視線を転じると、中尉は恥辱と怒りを相半ばさせた表情で中佐を見やっていた。
意気揚々と出てきた近衛は、奇襲を受けて動揺し、崩壊を始めている。
数合わせのように呼ばれた現地の輜重は、踏みとどまって退路の確保に努めている。
近衛の将校としては、心穏やかでいられる状態ではないのだろう。ほんのちょっとした優越感と、俺も性格が悪いなという自己嫌悪を抱きながら、レフノールは自分自身と部下たちの安全をどう確保すべきか、という方向へ思考を向けた。
――ここが崩れたら終わりだ。
レフノールは考える。指揮官が真っ先に逃げ出して士気を崩壊させた。崩れ始めた部隊をもう一度立て直して戦わせることができる指揮官など、そうそういるものではない。そうであれば、本隊はもはや当てにならない。そして、レフノールは自分自身も、そんな稀な指揮官だなどと評価してはいなかった。
だから、逃げることを考えるのならば、選択肢はあるようでいてほとんどない。
輜重隊の士気が崩壊する前に、やるべきことをやって撤収しなければならない、ということだった。
ある程度安全に退却できそうなタイミングまで粘って、あとはどうにか距離を離す。射撃で援護しながら、冒険者に殿を任せて逃げ出す、というあたりが妥当な解と思えた。あの4人が妖魔の相手をするならば、完全に囲まれでもしない限り、どうにかすることはできるはず。
「大尉!」
あとはどのタイミングで逃げ出すか、と考えていたレフノールに、後方から声がかかった。聞きたくもない声だった。
「中佐殿!」
レフノールは騎乗のまま、向きを変えて敬礼した。中佐が馬上で、その整った顔を引き攣らせている。
「ご無事だったようで何よりです」
死んでいればよかったのに、とは、心で思ってはいてもさすがに口に出せない。ちらりと視線をやると、リディアが表情を消してクロスボウを構え、森の中へ向けていた。戦闘中だから反応できない、という態でやり過ごすことにしたらしい。
「退却と伺いましたが」
「そうだ、我々は退却する」
「どこまで退かれるのですか?」
「あの砦――ノールブルムまでだ!」
直近の拠点までの撤退。作戦は完全に失敗したことになる。損害を考えれば妥当な判断と言えるかもしれないが、それならそれでなるべく多くの兵を無事に退却させる手だてを考えなければならない。
そのあたりは誰がどう算段するんだよ、と考えながら、レフノールは黙って中佐を見返す。答えはすぐに出た。
「貴官の部隊はここで退路を確保、本隊の退却を援護しろ!」
終わりです(本隊が)。
つまり始まりです(今回のメインイベントが)。




