【37:襲撃対応訓練】
目の前の扉が閉まるや否や、レフノールは踵を返した。
中佐の副官、サルヴィーノ中尉と視線を交わす。切迫した表情で、中尉が頷いた。さすがにまずい、と思っているということだろう。
中尉に頷き返し、部屋を出る。
――クソ野郎が……!
執務室を出て、できる限りの早足で歩きながら、レフノールは心の中で中佐を罵る。
心の中の『いつか殺すリスト』の筆頭は、某大佐からあっさりと入れ替わっていた。レフノール自身に理不尽なことを押し付けたり、あるいは小馬鹿にしたような態度を取るだけならまだしも、リディアを巻き込んだことを許してやる気などなかった。
機会があれば今すぐにでも殺してやりたい、というのが正直なところだ。無論、そんな機会など願ってもそうそう得られるものではない。
ともあれまずは、リディアを救う必要がある。それ以外の全てはそのあと。
己の優先順位をそのように整理して、レフノールは己にあてがわれた部屋へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※
部屋の鍵を開けると、扉を開け放したままで、レフノールは己の個室に入った。
灯りのついていない室内は薄暗い。それでも、廊下から漏れてくる明かりがあれば、目的のものを見つけるのに苦労することはない。見つけたそれを掴み、扉を閉めて鍵をかけ、レフノールは自室を後にした。
向かったのは、駐留部隊――ノールブルムの守備部隊の隊長の執務室。ノックがいささか乱暴なものになったのは、やむを得ないところだった。
「レフノール大尉です」
「ああ、待ってくれ、今開ける」
がたがたと椅子を動かす音と足音がして、程なく鍵が回り、扉が開いた。
「こんな時間に一体……?」
訝しげに言いながら顔を見せたのは、エルメルスという名の大尉。レフノールとは同格だが、年齢的には相手が上、加えて相手の方が先任――つまり先に大尉に上がっている。
「――まあいい、入ってくれ」
説明しようとしたレフノールの表情に、なにかただならぬものを察したのだろう。エルメルス大尉はレフノールを執務室に招き入れた。
「立ち話もなんだ、座ってくれ。一体何の用だ?」
執務机を回って椅子に腰かけながら、エルメルス大尉が言う。
――これが普通なんだよな。
レフノールの中のどこか醒めた部分がそう思う。『軍務に関する聴聞』とやらが事実なのであれば、執務室でやればよいし、副官に記録を取らせればよい。わざわざ居室に連れ込んだ上に誰も入れるなと念を押すこと自体が異常なのだ。
レフノールは答えずに、持ってきたものを執務机の上に置いた。
コルクの上から蝋で封をされた陶製のボトル。カリデンモアの18年。
「今から野郎ふたりで飲みたい、って話……じゃないな? その面だと」
目の前の机に置かれたボトルと、そしてそれを置いたレフノールの顔を見比べて、エルメルス大尉は言った。自分はどれだけの目つきをしているのだろう、とちらりと考えて、レフノールは口を開いた。
「襲撃の対応訓練の予定がありましたね、今日。今回は夜襲の対応訓練で」
「……どうだったかな。あったかもしれない。わけを聞こう」
「うちの少尉が、摂政殿下のご子息の部屋に連れ込まれました」
「少尉……あぁ、あの美人の? うわ……あの中佐そういうタイプのクズか」
「そういうタイプのクズのようです。残念ながら」
もう一度机に置かれたボトルに視線をやって、エルメルス大尉が太い息をつく。
「念のため訊くけど、当人のご希望って話じゃ」
「だったらここへは来てませんよ。で、まあ、考えついた中で一番穏当な解決策がこれです」
「2番目以降は?」
「2番目がうちの連中と口裏を合わせて夜襲騒ぎ。まあ、後々誤認だったということになるでしょうが。その次が上官殺し」
「物騒だな」
エルメルス大尉が肩をすくめた。机の上のボトルを指さしながら尋ねる。
「で、俺にそいつで恨みを買えってか?」
「それは手付です。同じものならもう3本、12年ならダースで」
「……俺、カリデンモアよりグレンエレディアの方が好みなんだけど」
出てきた蒸留酒の銘柄を記憶から引き出し、レフノールは頷いた。値段はそう変わらないが、希少価値はカリデンモアほどではない。手に入れられるはず、と判断する。
「18年?」
「せっかくだからそれで」
「王都で手に入れて送らせます」
「よし乗った!」
言うや否や、エルメルス大尉は紙とペンを取り出し、命令書をさらさらと書き上げてゆく。訓練の予定日はもちろん今日、命令書自体の日付は2月ほど前だった。
「前々から予定していた訓練だからなあ、今更中止や延期はできんのだよなあ」
なぜか愉しげにそう言うと、エルメルス大尉は隣室との間の壁を叩き、大声を上げた。
「副長! フェルデン中尉! すぐ来てくれ!」
すぐに現れた中尉に、エルメルス大尉が命令書を示して訓練の件を伝える。
「そのようなわけだから、先任を呼んで実施してくれ」
「――今からですか? もう兵たちも休める者から休んでいる筈ですが」
「だからだよ。襲撃はこっちの都合なんぞ考慮しちゃくれない」
「近衛の派遣部隊もいるのに?」
「せっかくだから殿下のご子息にもご覧いただこう」
「……実際は?」
フェルデンと呼ばれた中尉が、執務机の上のボトルに目をやりながら、低い声で尋ねた。
「第一に、階級の高いクズ野郎が今ちょっと見過ごせないことをやらかそうとしてる。第二に、俺たちが訓練をやらないともっと酷いことになる。第三に、俺はそいつを手付に買収された」
「小官と先任にも分け前を要求します、大尉殿」
「追加、できる?」
エルメルス大尉がレフノールに視線を向けて尋ねる。
「大尉と同じものを1本ずつでよければ」
「大尉は何を?」
フェルデン中尉が尋ね、グレンエレディアの18年、とエルメルス大尉が応じた。
「――先任を呼んできます」
言うが早いか、中尉は執務室を退出した。レフノールもエルメルス大尉に一礼して部屋を出る。これ以上ここにいる理由もないからだった。
レフノールが自室に戻る途中に、けたたましい半鐘の音が鳴り響く。無数の足音と叫び交わす声が連鎖し、砦が喧騒に包まれる。始まったか、と思いながら自室へ戻って装具を整え、外套を羽織って、レフノールは営庭へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※
営庭では、カミルとベイラムが兵たちを整列させ、叱咤していた。ベイラムに言わせればまだまだのようだが、短時間で集合し、整列までしているのだから上出来だ、とレフノールは思っている。加えて、カミルが場の指揮を執れている、ということもレフノールにとっては重要だった。カミルもベイラムも訓練のことは聞かされておらず、だから状況としては緊急事態と変わるところがない。にもかかわらず兵を統率できているのだから、実戦であっても一定の働きは望める、と考えてよい。
かがり火に照らされた囲壁の上では、いくつかずつ固まった人影があちらこちらへと動いている。砦の駐留部隊に違いなかった。
近衛の兵たちの動きは明らかに鈍い。慣れない場所で、行軍の疲労もあって、ということを差し引いて、どうにか水準に達している、というところのようだった。
混乱しつつもどうにか集合し、部隊としての態を整えようとしている近衛の兵たちを眺めていると、リディアが現れた。
「少尉、遅いぞ! 貴官が遅れたら兵たちはどうする!」
「申し訳ありません!」
レフノールの言葉に、リディアが直立不動の姿勢で答える。
「先任、遅れた者への罰則は」
「腕立て伏せですな」
「少尉、始めろ」
「はい!」
応じたリディアが腕立て伏せを始める。
「隊長殿は?」
ベイラムがにやりと笑って尋ねる。
「え?」
「直属上官の監督責任」
「あ」
同じ班の兵、そうでなければ直属の上官。軍には何かとついて回る連帯責任や監督責任。くそ、と迂闊な己を呪いながら、レフノールも苦手な腕立て伏せを始めた。
※ ※ ※ ※ ※
息を切らせながら罰則の腕立て伏せを終える頃、ようやく整列した近衛の兵たちを後目に、ひと悶着が生じていた。
「訓練だと? どういうことだ!?」
「は、夜襲の対応訓練でありますが」
怒鳴っているのはジラール中佐。飄々と受け流すのがエルメルス大尉。
「このような日に……明日は前線へ出るのだぞ!?」
「は、しかし、訓練自体は2月ほど前に決定されたものでして」
「兵たちも休もうというときに!」
「襲撃はいついかなるときに発生するかわかりませんからなあ、訓練も朝昼晩と時間を散らしてやっております。近衛ではそのようにはされておらんのでしょうか?」
「何も我々がいるときでなくとも良かろうが、と言っておるのだ!」
「は、我々としても考えないでもなかったのですが。今は我々も、閣下をお守りする立場でありますので、兵どもの練度をご覧いただくのもよいかと」
ああ言えばこう言う、でのらりくらりとかわす大尉に、ついに中佐もそれ以上の追及を諦めた。捨て台詞のように、このことは第二軍団にも報告する、と言い放って営庭を後にする。
――まあ、経緯まで口に出すわけにはいかんだろうしな。
手についた営庭の土をはたき落としながら、レフノールはその有様を眺めている。
「あの、隊長」
まだ営庭を満たすざわめきに紛れるように、リディアが小声で話しかける。
「申し訳ありません。――ありがとうございます」
「間に合ったか?」
いいよ、と軽く手を振りながら、レフノールが尋ね返す。
「はい。肩と腰を触られたくらいで」
リディアの返答に、レフノールは大きく息を吐いた。
「あとでよく拭いておけ」
「はい!」
保存が利く嗜好品って、代替通貨として流通しがち、というイメージがあります。




