【31:嵐の前の】
長い長いやるべきことのリストに視線を投げて、レフノールはため息をついた。リストの半分ほどはまだ処理されないままだ。部下たちの手前、強がってはみたものの、それで己の事務処理能力が上がるわけではなかった。
カミルもリディアも、執務のうえでわからないところがあれば尋ねには来るし、レフノールはそれを拒まないと決めている。判断しづらいことを無理に判断させて何かあれば、と思うとどうしても慎重にならざるを得ない。お互いにとって幸いなことに、カミルもリディアも物覚えは良かった。一度教えれば基本的に忘れることはない。加えて、ふたりとも気遣いのできる部下だった。その場で判断が必要なことはすぐに、そうでなければいくつかまとめて、ふたり揃って尋ねに来て、要点を蝋板に書き留めて戻ってゆく。つまるところ、多くの上官が望んでもなかなか得ることのできない、よくできた部下なのだった。
付け加えるならば、彼らは軍団から出した兵たちの教練も輪番でこなしている。荷を積んで前線の砦――ノールブルムへと出向き、荷を受け渡して身軽になったあと、空いた荷台に砦から預かった荷を積んでラーゼンへと戻る。1日2日休んだあと、教練で身体を動かして、そのあとはまたノールブルムへ。
適度に休みを与えながら日々の課業をこなし、その上で練度を上げていくためには、地道ではあるがそういった方法を採るしかない。そして、教練を行うのならば将校の少なくとも片方はそこについていなければいけない。書類仕事に加えて教練までこなしてくれる貴重で優秀な部下たちに、それ以上の何かを求めることなどできなかった。
下士官の中で兵の扱いが最も得手なのは無論ベイラムだった。ベイラムはレフノールに付いて、近衛の輜重兵たちを『引き締めて』いる。
窓や壁を貫くようにして、宿屋が面する広場から、ベイラムの叱声が聞こえてきた。今日も到着した近衛の輜重兵たちを、ベイラムが『丁寧に指導』している。レフノールはその最初にだけ同席して輜重兵を『諭し』、点検や指導と罰則はベイラムに一任していた。それらの全てに付き合えるほどレフノールは暇ではなかったし、ベイラムの行動が彼の一存ではなく、上官の命令によるものと理解させればそれでレフノールの役目の8割方は終わっている。
ともかくそのようにしてレフノールとベイラムは近衛の輜重兵たちに恨まれていて、リディアとカミルはそれとは別のところで部下の兵たちを鍛えていた。
指揮を執り始めてから1週間ほどで、近衛の輜重兵たちの態度は、目に見えて従順になった。輜重兵同士の情報交換というのがあるのだろう、とレフノールは思っている。いずれにしても、今の状況で、多少なりと手間を減らせるのであればそれはそれで歓迎すべきことだった。何しろ仕事はたっぷりと残されているのだ。
――この先どうなるのだろうか。
レフノールは考える。
前任者の署名入りの書面があるとはいえ、近衛の職務にたっぷりと口を挟んでしまった。おそらく自分は恨まれることだろう――直接『指導』された兵や下士官はもちろん、彼らの上官、そしておそらく、彼らの指揮官に。
王室の係累、摂政殿下の御子息。恨まれれば厄介な話になることは間違いなかった。
あくまでも正規の軍務の範疇から出ていない話ではあるから、表立って罰されることはない。その上、レフノールと当のご子息との間に、直接の上下関係はない。何しろあちらは近衛軍、こちらは陸軍。軍の組織からして違うのだ。
とはいえ、王室の権威が陸軍に届かないわけではけっしてない。直接の命令ができずとも、たとえばちょっとした不興を示す言葉が陸軍なり軍団の上の耳に入るだけで、自分はどこかへ――例えば王国の辺境へ、飛ばされることになるだろう。
そこまで考えて、レフノールはひとり小さく笑った。もともと勤務していた兵站総監部から異動して、アンバレスからも数日かかる小さな村で、他人の仕事まで抱えさせられている。どこの辺境へ行くにせよ、現状からさしたる変化がない、と気付いたのだった。
※ ※ ※ ※ ※
ばたばたとした慌ただしい日々にも、一応の区切りがつくときはある。
「こちらが、分遣隊の行動予定です」
アゼラインと名乗った中尉が、レフノールに書面を手渡した。予定に目を通したレフノールは、心中ひそかに安堵している。分遣隊の規模も動きも、事前に聞かされていた予定から、大筋で変化がなかったからだった。
「ありがとう、中尉。分遣隊の行動に支障が出ないよう、こちらの予定も調整しておく。ひとまず了解した旨はアンバレスに伝えておこう」
レフノールの反応に、アゼライン中尉は、ありがとうございます、と丁寧に応じた。
「貴官は? アンバレスへ戻るのか、それともこの先へ?」
「自分は一旦ノールブルムまで出ます。あちらの状況を確認した上で、更に少々偵察を」
丁寧な態度を崩さずに、中尉が応じた。
「ご苦労なことだが、偵察は作戦計画を立てる上では肝だからな。何か必要なことがあれば言ってくれ、遠慮なく。こちらで可能な限りは対応する」
「ありがとうございます、大尉殿。そちらの予定に記載のとおり、10日ほどで指揮官会同です。ご報告はその折に。無論、危急の案件はすぐにも伝令を出しますが」
そうしてくれ、と答えたレフノールは、敬礼して立ち去る中尉の背中を見送った。
「同じ近衛とは思えんよなあ」
中尉が去ったあとで、ぼそりと呟く。輜重兵たちの態度が念頭にあった。
「連中、少々タガが緩みすぎておりましたからな。まあ、今はしっかりと締めておりますが」
レフノールの背後から、ベイラムの声が応じる。
「貴官のおかげでやりやすくなった。最初からああならばもっと良かったが。にしても、指揮官会同か」
「ご懸念でも?」
「懸念というかなんというか、直近の指揮官会同がろくでもなさすぎてな。思い出すだけで嫌になる」
背後から、かすかに笑う気配があった。
「隊長殿は、なにか聞いてはおられないので?」
「噂もな、さすがに軍が違うとなかなか伝わってはこない」
振り返ったレフノールが肩をすくめた。
「まあ、あの押しの強い摂政殿下のご子息だ。何がないとも限らないし、あったらあったで対応しなければならん。不本意ではあるが」
レフノールの言葉を聞いたベイラムがにやりと笑う。
「また手柄を立てられる、よい機会になるのでは?」
「曹長、俺は何事もなく任務を終えて無事に戻りたいんだ。手柄を立てる機会なんぞ、なくて済むならその方がいい」
「ですが、隊長殿、ままならんのが戦場です」
ベイラムの言葉はまったくの真実だった。レフノール自身もそれをよく知っている。そして既に、何事もなく、という状況ではなくなっている。
絶望的な気分で首を振ったレフノールは、大きなため息をついたのだった。
前回の指揮官会同はパワハラクソ上司主催のパワハラ無茶振り会議でした。レフノール君は思い出すだけで曇るレベルです。




