【26:後始末、あるいは(下)】
子爵家の家宰との話を切り上げて、レフノールは宿屋へ戻った。食堂に入ると、冒険者たちが隅のテーブルについている。別の一隅では、近衛の兵や下士官たちがテーブルを囲んでいた。冒険者たちは言葉少なで、近衛のテーブルに至っては完全に静まり返っている。
レフノールはひとつため息をついた。これからやらなければならないことを考えると気が滅入る。得手とするところではなく、敢えてやりたいことでもなかった。だがそれは、将校の仕事でもある。
「食事は済んだか」
腹を括って近衛の輜重兵たちがいるテーブルに近付き、レフノールはそう声をかけた。がたがたと椅子を鳴らして全員が立ち上がり、敬礼する。
「座ったままでいい」
おざなりに答礼しながら付け加える。戸惑ったような間のあとで、全員がまた椅子に腰を落ち着けた。
「事故の一件は聞いた。死んだ戦友にはもう詫びたか?」
全員が俯いたまま黙っている。視線を合わせる者はいない。
「あとで行っておけ。神殿に安置されているはずだ――雨の夜に葬儀でもなかろうし」
言葉を切って、レフノールはもう一度全員を見回す。
「貴官らに話しておくことがある。誰が責めを負うべきか、という話だ。俺にも責任の一端はある。ラインシュタール大尉にも相応の責任はあるだろう。貴官らの上官でもあるわけだから」
平静であろうとするあまり、レフノールの口調は平板なものになっている。けっして大声ではなかったが、淡々とした表情と口調が、その言葉に奇妙な迫力を与えていた。
「貴官らはどうだ。大尉から警告も指示もあったはずだな。安全に、かつ効率的に荷を運ぶために、時程は守れと言われていたはずだ。何が目的だったかは知らんが、貴官らはそれを敢えて無視して、結果として事故を起こした。わかるな?」
課せられた役割を、全員が十全にこなせるわけではない。やるべきことを全てやれる者は、だからこそ有能と言われる。軍は、全ての人間に有能であることを求めるわけではない。だが。
「貴官らが――貴官らの軽率な行動が、戦友を傷付け、殺した。……わかるな?」
見回しても、顔を上げる者はいない。
「俺は貴官らを罰しない。その資格もない。だがここにいる軍の最上位者として、起きたことと、そして俺が知る限りの貴官らの行動は、すべて軍団司令部を通じて近衛軍に報告する。貴官らは次の便の戻りで後送する。起こしたことに応分の責任を取れ」
言うだけのことを言って、レフノールはテーブルに背を向けた。冒険者たちと何かを話す気にもなれず、そのまま階段を上る。
――あれは何度やっても慣れない。
普段レフノールは下士官や兵を叱ることがない。有能な下士官がいればおおよそ彼に任せてしまえるし、そうでなくとも下士官を呼んで諧謔を交えた一言二言を口にすればそれで事足りてしまうからだった。
だが稀に、見過ごせない事態が出来したならば、将校は部下を叱責しなければならない。大喝する者もいれば、容赦なく下士官や兵を殴りつける者もいる。レフノールはそのどちらも苦手で、そして好みではなかった。だから務めて感情を抑え、平静な口調で部下を叱る。
そのあとに来るのは大概、猛烈な自己嫌悪と後悔だ。柄でもないのに部下を叱責したあとは、そのような事態に至る前に何かできたことがあったはずだ、と考えてしまう。
今日も眠る前にたっぷりと後悔に浸る時間があるだろう。明日は明日で別の何かがあるに違いない。
自室の扉を開けようとして、レフノールはふと、欠けているものに思い至った。
隣の部屋の扉の前に立ち、ほんのわずか逡巡してノックする。
「少尉、俺だ。まだ――起きているか?」
しばしの沈黙のあと。
「開いています」
普段のリディアからは考えられないほど、弱々しい声が応じた。
扉を開けると、部屋の中には明かりがなかった。廊下から漏れる明かりだけが室内をほの暗く照らしている。ベッドに腰かけるリディアの長い髪の、その輪郭だけがぼんやりと光を反射していた。
ゆっくりと後ろ手に扉を閉める。目が慣れると、ドアの下の隙間から入るほんのわずかな光だけで、どうにか室内のあれこれの場所だけは掴めた。
「その様子じゃ食事もまだか」
言いながら、椅子のひとつをベッドの傍へ動かして腰を下ろす。
「きついと思うが、なにか食べた方が――」
「助けられたんです」
レフノールの言葉を遮るように、リディアが言った。その声が震えている。
「助けられたと思ってました。ひとりではどうしようもないと思ったから、戻ってコンラートさんを馬で連れてきて、一緒に来たゴーレムで馬車の幌を剥がして、崩れないように荷をどかして」
「うん」
「わたしが――わたしが、荷の下から引き出したんです。命に別条がありそうには見えなかった。あの人もまわりの皆も喜んでて。事故は起きたし、怪我人は出たけど、それでもそのときは助かって良かったって、みんなが」
「うん」
時折震える声を、無理に押し出すような口調だった。
「それ以上濡れないように馬車に乗せて、怪我をした場所に当て木をして、リオンさんに傷を塞いでもらって。できることは全部、全部やれたはずなんです。それなのに――それなのに。なんで」
「うん」
誰にも答えが出せない問いを、自分にぶつけ続けたのだろう。最善を尽くしてなお救えない者はいる。本当は、だから、忘れて進むのが一番ましなのだ。だがレフノールには、それを口にすることなどできそうになかった。
「馬車が走り出して、あまり時間も経っていなかったと思います。それまで普通に話せていたのに、急に受け答えがおぼつかなくなって、顔色も悪くなって。気がついたら息が止まってました。脈も。助けられたんです。助けられたのに――!」
自分が救い出せたと思った命が、目の前でこぼれ落ちていった。それを目の当たりにしてしまった。
――救う者と救えない者を自分で区別せねばならなかったあの神官と同じかもしれない。
あのとき小柄な冒険者仲間は言っていた。
『支える方にもさ、支えって必要だと思わない?』
まったくそのとおりだ、とレフノールは思っている。彼女ほど自分がうまくやれるとは思わない。それでも。
手を伸ばしてリディアの頭を引き寄せる。びくりと身じろぎしたリディアは、だが、抗わなかった。レフノールは、肩口に収まった小さな頭の、長い髪をあやすように撫でる。
「リディア」
「はい」
低い呼びかけに、涙まじりの声が応える。
「君はよくやった。できることを全て」
「はい」
「及ばなかったと思っているかもしれないが、君が助け出したからこそ、彼は皆に看取られることができた。転がった馬車の中で、荷に挟まれて苦しみながら死ぬのではなく」
「――はい」
「今日はもう休んで、明日、彼を見送りにいこう」
肩に埋めた頭が、小さく頷く。離そうとした手のその上から、リディアの手が重ねられた。
「もう少し。もう少しだけ」
かすれた声がねだる。
「――そうだな」
しばらく続いた『もう少し』のあとで、リディアは自分からそっと身を離した。
「――すみませんでした」
小さく詫びたリディアの頭を、レフノールは乱暴に撫でた。
「食事はここで摂るといい。俺が運んでくるから」
言い置いて、レフノールは部屋を出た。階下へ降り、宿の主人にひとり分の食事を頼む。主人はレフノールの姿をじっと見つめたあとで頷いた。なにか解せないものを感じながら、出された食事をトレイに乗せて、リディアの部屋へと戻る。つま先で軽くドアを蹴ると、リディアが中から扉を開けてくれた。
「あまり見ないでください。いま、ひどい顔だから」
瞼が腫れ、目と鼻が赤くなった顔で、リディアは言った。
「食べ終わったら壁を叩いてくれれば、食器は俺が下げるから」
直接は答えずに、レフノールはそう応じた。部屋を出てひとつ息をつき、そういえば宿の主人のあの反応は何だったのか、と考えてふと視線を動かし、レフノールは頭を抱えたい気分になった。
肩口のあたりが――そこだけが、見てそれとわかるほどに濡れて、色が変わっている。なにかを察されてしまったに違いなかった。
圧倒的に健全です。圧倒的に。




