【12:情報収集(下)】
その翌日、レフノールは事務官たちのところへ出向いた。
「いや、まだ発令されていない人事ですから」
配属される予定の中尉について書類を見せてほしい、と切り出したレフノールに、事務官は困ったような顔で応じた。それは確かにそのとおりではあるのだが、受け入れる側としては事前にいくらかでも情報がほしい。レフノールはひとつ息をついて、用意してきた酒瓶をちらりと見せた。
「君は職務に忠実だな。頼もしいことだ。無論、君は見せてくれなくていい。そこらの机に出したまましばらく忘れていてくれるだけで。たまたま通りがかった将校がたまたま目にするだけだ。どうかな」
「大尉殿、それは」
「グレングラスの12年。君が書類のことを少々忘れてくれたら、俺はこれを置き忘れていくかもしれない。俺は最近物忘れがひどくてね、今日はなにか置き忘れそうな気がするな」
事務官は同僚と目配せを交わして頷いた。
「――大尉殿、こちらへ。ただいまご用事を伺いますから、こちらの席でお待ちを。少々散らかっておりますが、どうかお気になさらず」
「どのくらい待てばいいのかね」
案内されたやや大きな机――会議というほどでもない打合せに使うのだろう机につきながら、レフノールは尋ねた。
「四半刻というところかと」
答えながら、事務官が綴じた書類の束を机の上に置く。四半刻で読め、ということなのだろう。分厚い束の中に、目印として紙を挟んである親切ぶりだった。12年はなかなか効く、と思いながら、レフノールは書類の束を手に取った。
樽で熟成させる蒸留酒は、熟成が8年を超えたあたりから高価になる。グレングラスの12年は、事務官たちの俸給で買えなくはないが少々思い切りが必要、というあたりなのだった。
レフノールは早速書類をめくる。付け届けに見合う情報を、四半刻で頭に入れなければならない。
――カミル・ローレンツ、中尉。歳はひとつ下。王都出身、ラコヴィニーク男爵家の次男、庶子。
庶子ということであれば基本的に家督の継承権はない。兵学院に、そして軍に入ったのは必然だったのだろう。ラコヴィニーク男爵家の経済的な状況は、レフノールの知るところではない。だが、下級貴族の家は大概どこもかつかつで、災害や不作が続けば家自体が立ち行かなくなることも往々にしてある、というのはよく知られた事実だった。男爵家でありながら商売に軸足を置き、経済的には大きな余裕があるアルバロフ家はむしろ例外と言ってよい。だからこそ、僻みややっかみ混じりの視線を受けることも多くはあるのだが。
長男に家督を、次男に家業を継がせ、三男は好きにしてよいと自由を与えながら生活に困らぬだけの送金は絶やさない。アルバロフ家にはそれだけの余裕がある。祖父と父とが作り上げた経済的な基盤の強さに感謝しながら、レフノールは書類を読み進めた。
――兵学院での成績は上の下、というあたり。
けっして悪い成績ではなかった。有り体に言えばレフノールよりもよほどよい。身体を動かすこと全般が得手ではなく、ぎりぎりで及第点に達するような有様だった己と比べるのはどうか、とも思いはするが、取り立てて欠点になりそうな分野も見当たらない。
リディアと比べてしまえば見劣りは否めないが、そもそもリディア自身が同期で五指に入るという評判だった。基準にして比べること自体が間違っている、とレフノールは考えている。
ある程度の慣れと知識が必要な兵站部門ではあるが、知識の吸収が早いか遅いかで教える側の負荷は大きく変わる。そこに問題がなさそう、というのは明るい展望ではあった。
――歩兵将校として第2軍団に配属。戦列歩兵中隊附、その後小隊長。
ある意味でお定まりのコースと言える。数の比率から言っても、軍の主流は歩兵だ。騎兵も兵站も数はけっして多くない。最初に中隊長の下に付けて将校としてのあれこれを学ばせ、小隊長として下士官や兵を率いさせる、というのは、将校の初期の人事として順当なところと言える。
レフノール自身も同じ道を歩んでいた。ただしレフノールは、最初に異動の希望を訊かれた際に、兵站への転属を希望して受け入れられている。レフノールは己の考課を見たことがないが、自分は歩兵将校としてどうしても部隊に置いておきたいという類の人材ではなかった、ということなのだろう。
――実戦経験あり。
軍団に配属された歩兵将校、それも小隊長であれば、さほど不思議なことではなかった。レフノールも幾度かの実戦を経験し、将校としての振る舞いや下士官や兵との付き合い方を学んだ。
ローレンツ中尉は、目立つような戦績を残したわけではない。ただ、大きな失敗もしてはいない、と見えた。妖魔討伐に数回、与えらえれた任務はすべて完遂している。死傷者は都度出してはいるが、取り立てて大きな損害を受けているわけでもない。記録を読む限り、無難にこなしている、というところだ。
ではその中尉の評価は、と書類を繰り、レフノールの手が止まった。
――『統率力に難。下士官兵からの訴え相次ぐ』
ラセル大尉は、自信が持てていないのではないか、と言っていた。将校の弱気は下士官や兵に、容易に伝染する。己が死ぬ、殺されるかもしれない状況下で、自信なさげに命令する将校に信頼を置いてくれるほど、兵や下士官はお人好しではない。
下士官や兵からの信頼を得られなかった将校は辛い。ほどよく無神経であれば、己に向けられる視線に耐えられるかもしれない。だが、そうでなければ、下士官や兵の視線は将校の自信を更に削る。悪循環が始まってしまうのだ。
上官の手助けを得られれば、そのような状況に陥っても、立ち直ることはできるだろう。この中尉はどうだったのだろう、とレフノールは考えた。考課の記述から考えて、小隊長になってから最初の上官は、手助けするというよりもローレンツ中尉を見放している。
レフノールはため息をついて書類の束を机に置いた。上官に早々と見限られた新品将校。あとは不遇の道を歩むしかない。早晩戦死するか、不貞腐れて不正に手を染めるか――いずれにしても行く末はろくなものではないはずだ。だが当の将校は生きていて、無難と言ってよい戦歴を残し、遅くなったとはいえ昇進している。
小さな違和感が生まれた。ふたたび書類の束を手に取り、綴られた書類を一枚二枚と遡る。無難な戦歴。大きな手柄を挙げるわけではなく、都度死傷者を出してはいる。だが、将校としての能力を否定されるほどの大損害を受けたことはない。与えられた任務はすべて完遂している。
見限られた将校が残せる戦歴ではない。よほどいい下士官に――と考えて、レフノールは首を振る。統率力に難がある、とされるような将校なのだ。よい下士官がいたとして、積極的に手助けするとは思えなかった。
戦歴に嘘はないだろうから、だとすれば考課の方が辛い、と考えるしかない。よほど最初の上官との折り合いが悪かったか、何か考課には出てこないような悪癖があるのか、いずれにしても実際に顔を見てみなければわからないところではある。
レフノールはもう一度ため息をついた。当人ほか幾人かの名を書き取り、書類の束を机に伏せて立ち上がる。
「ああすまん、君」
先ほどの事務官に声をかけた。
「悪いが、急な所用を忘れていた。小官はこれで失礼する」
ああ、はい、と頷いた事務官に会釈して、レフノールは書類の置かれた机を離れる。当然、持ってきた酒瓶を忘れていくことは忘れない。レフノールはそのまま、事務官たちの執務室を後にした。
※ ※ ※ ※ ※
その日の正午過ぎ、レフノールは官舎の自室でリンクストーンを取り出していた。兄とは――イグネルトとは、何もなくとも週に一度は連絡を取っている。週に一度の会話は、それこそ二言三言で済んでしまうようなものではあるのだが、リンクストーンを貸したままにしておいてくれているのは「それでも定期的に連絡を寄越せ」という兄の意思だと、レフノールは思っている。
断る理由もないがしろにする理由もなかった。離れていてもなお弟を気にかけてくれる兄より有難いものはそうそうない。今週の定時連絡は一昨日済ませている。だが、翌週まで待たないほうがいい、とレフノールは思っていた。
「急なことで申し訳ありません、兄上」
『2日でまた連絡を入れてくるとは珍しいな。何があった、レフノール?』
「何が、というわけではないのですが、兄上にお願いが」
聞こう、と応じたイグネルトに、レフノールは端的に頼み事を告げた。
「ラコヴィニーク男爵家について、大まかなところを知りたいのです。新たに下に付くことになる部下がそこの出らしく」
『大まかなところ、でいいのだな。調べるが、丸一日はかかる。明後日、もう一度連絡してくれ』
ほんの少しの間、考えるような間があって、イグネルトはひとつ問いを付け加えた。
『その部下の名は?』
「カミル・ローレンツ、男爵家の次男で庶子だ、と」
『わかった、調べよう。また明後日に』
※ ※ ※ ※ ※
翌々日の同じ時間。レフノールは同じように、兄とささやかな会話をしている。
『さほど多くのことはわからない。もう少し時間をかけられればいろいろと出てくるかもしれないが。良くも悪くも、あそこは普通の――ごく普通の男爵家だ。さほど広い領地があるわけでもなく、うちのように商売に軸足を置くでもない』
レフノールは相槌を打ちながら兄の話を聞いている。
『蓄えまでは知らないが、そこも普通の男爵家、と考えていいだろう。ここから先は兄上――ヴィクトル兄上から聞いた話だが、ラコヴィニーク男爵家は、男爵家としては先代からだ。新しい家、ということだな』
「なるほど。新興の家、ということですか?」
『いや、もともとフリードラント伯爵――レザック家の下に付く陪臣だった。それが取り立てられて男爵家、ということだそうだ』
レザック、という名には覚えがあった。先日閲覧した書類の中にあった名だ――たしか、ローレンツ中尉の最初の上官。当時のローレンツ少尉が配属された中隊の長だった。
『それから、ローレンツ家の現当主、ラコヴィニーク男爵だがな』
「はい」
『たいそう女癖が悪い、と聞いた』
――それで庶子か。
おそらく、手を出すべきでない相手に手を出している。その結果としての庶子。苦労をしたに違いない――リディアとは違った種類の苦労を。
「わかりました。ありがとうございます、兄上」
『礼はいい。まあ、また面白い話があれば聞かせてくれ――無論、なにがなくとも歓迎するが』
レフノールがもう一度礼を述べると、リンクストーンの繋がりが切れた。光を失ったリンクストーンを眺めながら、レフノールは腕を組む。決定的な情報が掴めたわけではなかった。
あとは実際に会ってみなければわからない。
――出たとこ勝負、というやつか。
小さく息をついて、レフノールは苦笑した。今までとさほど変わらない、ということに気付いたのだった。
引き続き情報収集のターンです。たまに「忘れ物」をする人、いますよね。




