【8:兵站将校の休日(中)】
翌日の夜。
街の小さな酒場で、レフノールは進退窮まっていた。
「だからあ」
呂律が怪しくなった口調。赤い顔。
明らかに泥酔したリディアが目の前にいる。
「わかりましゅよ? わらしらって、わかるんれしゅ」
「はい」
機械的に頷きながら、レフノールは、なぜ酒など勧めてしまったのだろう、と後悔している。
そもそも、勧めたのは身体を暖める程度の酒精しかないホットワインだった。酒に慣れておらずとも、そのくらいならばさしたる問題はないだろうと踏んでいた。
お酒は初めてなんです、と言ったリディアが、暖まりますね、と笑顔でタンブラーを空け、もう1杯くらいなら大丈夫でしょうか、と訊かれたときに、止めておくべきだったのだ。
「らいじに、していたらけれ……あ」
かん、と勢いよく置いたタンブラーから、残ったワインが跳ねた。もう何杯目かは数えていない。リディアが始末に負えなくなってから、いっそ潰れるまで飲ませるしかない、と判断した半刻ほど前の自分を、レフノールは心の中で罵っている。
酔った人間の通例としてリディアの声には抑制がかかっていない。もともと通る質の声は酒場に響き渡り、周りの席の客がこれは奢りだと悪乗りを始め、飲ませては反応を楽しんでいる。レフノールも数回止めはしたが、今は何もかもを諦めていた。
無論、抑制がかからないのは声だけではない。
「あははははは! ごめんらさい、かかっちゃ……あはははは!」
「いや、料理は気にしなくていいから――お姉さん、なにか拭くものを」
跳ねたワインはテーブルの料理と、そしてリディアの手にかかっている。何がおかしいのかけらけらと笑うリディアの手を押さえ、レフノールは通りがかった店員に声をかけた。はいただ今、と応じた店員の目が笑っている。居心地が悪いことこの上なかった。
――酔ってから潰れるまでが長いとは。
自分まで酔うわけにいかない、と舐めるように飲むレフノールとは対照的に、リディアは恐るべきペースで杯を空けていた。そうであるのに、一向に酔い潰れる気配がない。
戻ってきた店員に礼を言って布巾を受け取ろうと、空いている手を伸ばしたとき。
リディアの手首のあたりを押さえていたレフノールの手に、ひた、と暖かいものが触れ、撫でた。
「手ぇ、おっきいんれすよねぇ……」
ふにゃりと笑顔を浮かべたリディアが、慈しむような手つきでレフノールの手に触れている。
「これねえ、さわりたかったんれす、ずっと」
周囲の席がどっと盛り上がる。それはそうだろう、とレフノールは顔を引き攣らせた。
これほど美味な酒の肴もそうそうあるものではない。同じ場面に遭遇したら俺だってそうする、と頭では納得しながら、今この場で盛り上がる周囲は呪いの対象でしかなかった。
「うん、ちょっと手を拭くから」
「あのときにぎってくれた手がねえ、おっきくてあったかくて」
いつの話だよ、と混乱しながら記憶を探ったレフノールは、すぐに思い当たった。
「わらしねぇ、泣きそうになっちゃったんれすよぉ」
初陣のあと。強張って剣を離せなくなった細い指。同じ指が、いまレフノールの手を撫でている。
剣を振り続けて、固く厚くなった皮膚。そうであっても――否、そうであればこそ、レフノールはその手を、指を、美しいと思っている。
「でもねえ、がまんしました! ほめてくらさい!」
あのとき俺はよくやった、と褒めたのではなかったか。そう思い返しながら、レフノールは笑み崩れるリディアを見る。子供に返ったような態度だった。だがきっと子供の頃も、誰に甘えるでもなく、褒めてとねだることもなかったのだろう。
だからレフノールは、リディアが触れた手をするりと離し、そっと頭を撫でた。
「うん、リディアはよく頑張った。偉かったな」
呼ばれた名に、リディアの藍色の目が一瞬だけ大きく見開かれる。
ふわりと持ち上げられた手が、レフノールの手を包み、頬に押し当てた。
「えへ」
すり、と滑らかな肌を、手の甲に感じた。
「ほめ、られ、ちゃ……」
ずるずると姿勢を崩したリディアの頭がテーブルにぶつからないように、レフノールはそっと手に力を込める。どうにかテーブルの上に頭を下ろし、寝息を立て始めたリディアを見下ろして、レフノールは大きくため息をついた。
「……上に部屋が空いてるけど」
「泊まるわけねえだろ」
好奇心を隠そうともせずに声をかけてきた店主を睨んで、ぼそりと応じる。
不満のざわめきが拡がった。
「あのな、『そういうことはしない』って信頼されてるからここまで酔えるんだよ。潰して寝込みをどうこうなんて、できるわけねえだろそんな真似」
言いながら、銀貨を2枚取り出してテーブルに置く。
「足りるはずだ。釣りはいい。余った分は周りで飲んじまってくれ。君らどうせ夜通しだろ」
御馳走になります、と誰かが言い、まばらに拍手が起きた。見世物としては不満が残る結末なのだろう。俺にそこまで付き合う義理はない、とレフノールは思っている。
骨が抜けたようになっているリディアを背負って店の外へ出ると、街はまだ明るいままだった。冬至は明日だ。夜通し宴を張る者も多いことだろう。連れ立って歩く男女の姿も数多い。
まだ店を開けていた屋台のひとつで柑橘をいくつか買い、ついでにそれを入れる袋も買って、レフノールは軍団の本部へ向かう。
途中、中途半端に意識が戻ったのか、背中でリディアがもぞもぞと動いた。
「せなか、おっきい……」
「そうだな」
白い息を吐きながら、半ば寝言のようなリディアの言葉に、レフノールが答える。
――父の背中の夢でも見ているのだろうか。
祖国の子がいつからなぜ祖国の子になったのか、レフノールは知らない。レフノールは訊いたことがなく、リディアも語ったことはなかった。
「レフノールしゃん」
「うん」
酒精に浸された舌足らずな口調で、思いのほか甘い発音だった。
肩口から身体の前に回された手に抱きつくような力が込められ、耳のあたりにリディアの頬が擦りつけられる。猫かなにかのようだ、と考えながら、レフノールはそれを厭わしいとは思わなかった。
「だいしゅきれふ」
「知ってた」
こんな形でぶちまけたくはなかっただろうな、と想像して、レフノールはリディアが気の毒になった。
「返事は――君が素面のときにな」
背中でもう一度身じろぎしたリディアの腕に力が入る。泥酔して何もかも抑えが利かなくなって出てしまった言葉をどうこう言おうとは、レフノールは思わなかった。
リディアはそれきり静かになった。また眠ったのだろう、と思いながら、本部までの道を歩く。
門衛と、そして官舎の舎監の生温かい視線に耐えながら、グライスナー少佐を呼び出した。
「――なんだ貴官それは」
「メイオール少尉です。部屋まで運びたいので、申し訳ありませんが少々お付き合い願えますか」
「そういうことを訊いたわけじゃない。……だから私はしっかりやれと――まあいい」
舎監から合鍵と燭台を受け取った少佐がひとつため息をつき、先に立ってすたすたと歩きだす。リディアを背負ったレフノールが後を追った。ほどなく着いた部屋の扉の鍵を開け、そのまま中へ入る。
「そこへ寝かせてやってくれ」
1本だけの蝋燭が照らす薄暗い室内は、綺麗に片付けられていた。レフノールは、少佐が示したベッドにリディアを横たえる。
「ああ待て、靴は脱がせてやらんと」
サイドテーブルに燭台を置いた少佐がベッドに腰かけ、ブーツの紐を解いて足から引き抜く。ほら、と言いながら腰のあたりを軽く叩くと、小さく呻いたリディアがごろりと転がって壁の方を向いた。
綺麗に畳まれて足元に置かれていた毛布を少佐が取り上げ、頭からばさりと被せる。もぞもぞと動いたリディアは、すぐにおとなしくなった。
レフノールは部屋の棚から紙とペンを取り上げた。インクを付けて2行だけ書き、屋台で手に入れた柑橘を重石替わりにしてサイドテーブルに置く。
ちらりと見た少佐が、小さく笑った。
『朝は食べられないだろうから、これを代わりに。
夕食はまた士官食堂で』
「いつもこうなのか」
ベッドの端に腰を下ろしたままで、少佐が尋ねる。
「まさか。飲めないと知っていたら飲ませませんでした」
「そうじゃない。いつもこういう扱いをしているのか、と訊いている」
「――自分を慕ってくれる部下です。こういう扱いをしたくもなる」
「よく連れて帰ったな」
「ひとりで放り出すわけにいかないでしょう」
レフノールの返答に、少佐がふっと笑う。
「一緒に泊まる気はなかったのか」
レフノールは大きくため息をついた。
「できるわけがない。彼女の気持ちだけを考えればそれで良かったのかもしれませんが」
「それが解っていてお前も憎からず思っていて、他に何が必要なんだ?」
レフノールの顔が歪む。視線を逸らして、恨み言のような口調で応じた。
「彼女にはね、あなたもご存知でしょう、俺じゃ及びもつかないような才能がある。まともな軍人としての才能です」
グライスナー少佐が黙って頷く。
「お互いの気持ちなんてあやふやなものに頼るような必要が、そもそもないんですよ。出自もなにも関係なく、その気になればひとりでどこまででも歩いていける。その背中が祖国の子たちの規範になる。そういう素質です。あとはきちんとそれを磨きさえすればいい」
「――そうだな」
「俺は上官です。彼女に命令して、評価する役回りだ。いまその俺が手を出してしまったら、俺の存在が彼女の枷になる」
「枷?」
「『上官の情婦として評価を買った女性士官』。ただでさえ偏見が多いのに、そんな評判が出来上がったらどうなるか。俺は――それだけは許せない。絶対に」
「それでわざわざ連れて帰ったか。彼女は彼女で別の恥をかくだろうし、お前はお前で妙な評判が立つかもしれんが」
「そこはもう、やむを得ません。最悪の事態よりはだいぶマシなはずです」
妙な噂を――たとえば、色仕掛けで落としきれなかったとか、あるいは女に興味がないとか、そういう噂を立てられるとして、それよりも事実としての朝帰りのほうがより悪い。
「そもそも、心配のしすぎかもしれんぞ」
ふたたび小さく笑った少佐が応じる。面白がっている風ではなかった。
「そうかもしれません。まあ、つまるところ、俺の度量の問題です」
「そう拗ねるな。
――なあ大尉、兵站は軍の枷だと思うかね?」
「いいえ、少佐、兵站は軍の足場です」
半ば反射的に応じたレフノールの言葉に、そうだろう、と少佐が頷く。
「枷になるような相手ならリディアも好意は抱くまい。お前が支えようとするなら、それは枷でなくて足場だ。そうあればいい」
「俺の意思ひとつでそうなるのなら、そうしたくはありますが」
気の持ちようでどうにかなる話ではなく、実際に支えられるかどうかが問題だった。そしてレフノールにとって、現状はそうあるに及ばない。
「まずは意思がなければどうにもなるまい。あとはひとついい方法がある」
「――どのような?」
尋ねたレフノールに、にやりとわらった少佐が告げた。
「お前とリディアのどちらかが、あるいは両方が、誰にも文句のつけられないような軍功を上げればいい。生半な悪評など吹き飛ばせるような」
「悪くありませんね。実現が途轍もなく難しいことを除けば、ですが」
乾いた笑いとともに吐き出したレフノールの言葉を、少佐は笑わなかった。
「そもそも第2軍団の中ではそれなりの評判だぞ。あとは機会さえあれば、と私は踏んでいる」
「兵站としてはね、そんな機会などない方がいいんですよ。何事もなく戦を終えられるように準備して、そのとおりにことが済めばいい。俺はいつもそう思っています」
だろうな、と応じた少佐に、レフノールは一礼した。
「夜分お休みのところ、申し訳ありませんでした。失礼いたします」
それ以上、グライスナー少佐は引き留めようとしなかった。部屋を出て扉を閉めたレフノールは、ため息とともに独語する。
「柄じゃあねえんだよなあ、こういう瘦せ我慢も英雄とやらも」
それでも、そうなってしまったうえは仕方がない。そう自分を納得させて、レフノールは歩き去った。
※ ※ ※ ※ ※
「――ああいう男だったとはね。リディアはいい相手を選んだな」
1本だけの蝋燭が照らす薄暗い部屋で、腰かけていたベッドから立ち上がったグライスナー少佐が、毛布に向かって声をかける。
返事はない。だが、毛布はもぞりと動いて丸くなった。
「私のお節介はここまでだ。あとは思うようにやれ」
丸まった毛布からは、やはり返事がない。小さく鼻をすする音だけが聞こえた。
泥酔系女子、他人事として書く分には可愛らしくてよいですね。他人事なら。
お酒は飲んでも飲まれるな!




