【6:アンバレスにて(下)】
翌朝、というよりももう昼に近い時間。頭と背中が痛くなり、もうこれ以上寝られない、という状態になるまで寝て、レフノールは官舎のベッドから起き上がった。詰め物が少々へたってはいるものの、砦の硬い寝台よりははるかに寝心地がいい。
起きた途端、昨日の少佐との会話を思い出してしまい、レフノールはベッドの上で頭を抱えた。たしかに選択肢はなかったが、それでもなぜ少佐に尋ねてしまったのだろう、と思っている。
少尉のことだから、多分、レフノール自身の言葉をそのままに受け止めたのだろう。そしておそらく、声をかけたのは自分の方だから、と、彼女自身にできることをしておこうとしたのだろう。生真面目な彼女らしい行動で、それ自体は好ましくも微笑ましい、といったところではある。
問題は、自分もおおよそ同じことを考えて、同じ行動を取ってしまい、何もかもを少佐に把握されてしまった上に少尉が何をしたかを聞いてしまった、という点にあった。
それにしても、とレフノールは思う。
――少尉のことまで俺に話さなくても良さそうなものなのに。
だが、もし仮に、ともレフノールは考えた。
普段そういうところを見せない部下ふたりが、揃って相手のことを考えながら、自分を頼ってきたとしたら。少佐と同じ行動を取らない自信は、レフノールにはなかった。
それにだいたい、他者から見れば、自分は明らかに果報者なのだから、もう少し喜んでよい筈なのだ。今ひとつそういう気分になれないのは、彼女を嫌っているから、というわけではない。
レフノールはまず第一にリディアの上官で、優秀で頼りになる部下としてリディアを見ている。だからこそ、リディアの軍歴にとって躓きの石になりかねないような関係を、リディアとの間に持つわけにいかない、と考えているのだった。
それならそれできっぱりと断りを入れればよいはずなのに、心の中で言い訳をしながら流されてしまう、その自分の手前勝手さと心の弱さが、レフノールは嫌だった。
「君が尊敬する上官はなあ、一皮剥けばこんなもんなんだよ」
ろくなもんじゃないよな、とため息をついて独語する。同時に、そういえば、とふと思った。
――彼女も俺に見せていないだけで、なにか抱えているものがあるのだろうか?
自分が有能で生真面目な部下と見ているように、彼女は自分のことを好ましい上官と見ているのだろう。自分は自分だから、その内実がどのようなものかを知っていて、彼女が見ているだろう己の虚像と、そして自分が知る己の実像との間の落差に嫌気が差している。
それでも、虚像を見て好意を抱かれてしまって、それを壊したくないのなら、やるべきことはひとつしかない。
彼女の虚像を壊さぬように演じること。それだけだ。
――結局何もかも同じことか。
心ならずも前線に立たされて、御立派な指揮官を演じざるを得なくなったことを、レフノールは思い出した。男女の間柄を考えるのに戦場を連想してしまうのは、己のことながらどうかと思ったが、そこはもう気にしないことに決めた。結局自分ができるようにやるしかないのだ、とレフノールは思っている。
不思議なもので、なんとなくであれどうすべきかが決まってしまうと、案外心が落ち着いた。
のろのろとベッドから起き出して、身支度を整える。
しばらくして、身支度を整えたレフノールは、官舎の自室を出て行った。
※ ※ ※ ※ ※
身支度を整えたレフノールが顔を出したのは、軍団本部の経理部だった。前線ではどのみち使う当てのない俸給を、本部で預かって貰っている。金額を確認すると、規定の俸給よりも多かった。何故だろう、と考えて思い至る。前線勤務の手当や戦傷の見舞金、勲章授与に伴う一時金といったものが支給されているのだった。王都の兵站総監部に勤務していたときは縁のないものだったから、ここ数年のレフノールはそれらを意識したことがない。
確認のためにと差し出された帳簿を見るに、加給された手当や一時金の類だけでも、冬至祭の市を冷やかして回るには十二分の金額だった。
当面十分と思えるだけの金額を銀貨と銅貨で受け取って、経理部を後にする。
士官食堂に寄ると、ちょうど昼食の支度をしているところのようだった。入口の近くに立っている従卒に、レフノールはちょっと、と声をかける。
「済まないが、ひとつ頼みがある」
「はい、どのようなことでしょうか、大尉殿?」
「夕食のときに、メイオールという少尉が来ると思う。銀髪の女性だ。
どこか静かに話ができる席に案内してやってくれないか。あと、その席には俺――アルバロフ大尉以外は案内しないように頼みたい」
申し送りを頼めるかな、と言いながら、銅貨を幾枚か、従卒に握らせる。
「些少で悪いが、半分は君、もう半分は申し送りをされる相方の分だ」
約束があるから指定した相手以外は案内しないでほしい、ということはできるのだが、あの少尉にそこまで気を回せというのは難しいだろう、とレフノールは思っている。気の利いた店のひとつも知っていればそこへ誘うくらいは上官としての甲斐性のうちだが、生憎アンバレスでそういう店を見つけ出すだけの余裕などなかった。
従卒はお任せくださいと請け合った。心なしかにやにやと笑っているところを見ると、なにか誤解されたのだろうとは思う。誤解を解くのも面倒になり、じゃあ頼む、と言い置いて、レフノールはそのまま士官食堂を出た。
※ ※ ※ ※ ※
本部を出ると、弱い冬の日差しが街路や広場を照らしていた。正午頃だというのに、薄い雲に阻まれた日差しはさして気温を高めてくれてはいない。時折吹き過ぎる冷たい風に、道を行く者は外套の襟を立て、あるいはフードを被って身体を縮めている。
それでも、冬至祭の市は活況だった。あちこちから威勢よく客を呼び込む声がして、注文する客とそれに応じる店主の言葉が飛び交っている。食材を売る店、出来合いの食べ物を売る店、酒を飲ませる店、装身具や小物を商う店。様々な店が様々なものを扱い、様々な客がそれらを眺めては買ってゆく。
王都の市では、ときに異国語まで交えたやり取りがあり、どこの産だかよくわからない品々を売る店もあって、そうした一種の猥雑さもまた賑わいに花を添えていた。海に面した港のないアンバレスではそういったことはなく、華やかではあってもどこかおとなしい。
なるほどこれが文化の違いというやつか、と思いながら、広場の片隅に腰かけて、レフノールは行き来する人の群れを眺めている。手には先ほど果物を扱う屋台で買った、昼食がわりの林檎があった。起きた時間が時間なので朝は抜いていたが、ほぼ寝て過ごしただけだからさほどの空腹感はない。いい加減に済ませてしまっても問題はなさそうだった。
林檎を齧りながら眺めると、どう見ても非番の兵にしか見えないような集団が昼間から騒いでいた。鍛えた身体、大きな声、酒を飲んででもいるのか、肩を組んで騒いでいる。がなるような歌の中身には聞き覚えがあった。陸軍の、それも戦列歩兵がよく歌う戯れ歌のひとつだ。
『可愛いあの娘のためならば たとえ我が槍折れるとも――』
本来は陛下への忠誠と、死ぬまで持ち場を守って戦うことを誓うところ、戯れ歌は戯れ歌らしく歌詞を変え、品など投げ捨てて盛り上がるようにできている。誰かが突撃、と叫び、酔漢の集団はげらげらと笑いながら通りの辻を曲がって消えていった。
あっちには歓楽街があったな、と思いながら、レフノールは彼らを見送った。たまの休みに、しかも祭りの時期に、少々羽目を外すくらいのことはあれこれ言われるようなものではない。レフノール自身も、派手な遊び方でもなければ通い詰めるというわけでもなかったが、そういった店を使ったことは一度ならずあった。
――まあ今は、そしてしばらくは、無理だろうな。
部下の顔を思い浮かべながらでは楽しむことなどできそうになかったし、後腐れのない関係だからとそのときだけその顔を忘れることができるほど、レフノールは器用ではなかった。自分を慕う部下と、そして相手をしてくれるであろう女性の、両方に対して失礼だ、と思っている。正直なところ、レフノールは、自分にそのような部分があるのだとは思っていなかった――気付いたところで、それを特に不満とも厭わしいとも思わなかったが。
更にしばらくの間ぼんやりと街や行き交う人波を眺めて、日が傾き始めた頃、レフノールは立ち上がった。芯だけになった林檎をつまみ、果物の屋台の主に声をかける。主人は黙って、果物の皮や芯がまとめられている屑入れを指さした。ありがとう、と頷いてレフノールは林檎の芯を放り込み、ハンカチで手を拭きながら、広場を後にした。
ラッキー☆ とか言って食っちゃう野郎なら悩むこともなかったんでしょうけど、たぶんそういうタイプだと部下に好意を持たれることもなさそうです。つまり詰んでました。




