【1:新たな厄介事】
「レフノール、お前痩せた?」
執務室に通され、型通りの挨拶を済ませ、案内してきた兵と茶を淹れてくれた当番兵が立ち去って将校だけになった場で、ライナス・ローウェン中尉は言った。
「痩せもする」
応じた執務室の主、レフノール・アルバロフ大尉にとっては兵学院の同期。気の置けない間柄で、下士官や兵がいないから言葉遣いを正す必要もない。
「誰かが積んでくれた仕事のおかげでな」
言いながらレフノールはじろりとライナスを睨んだ。
ライナスが、誰だろうな、と空とぼけて応じ、同席していたリディア・メイオール少尉がくすくすと笑った。
「まあ冗談は措くとして、仕事は落ち着いたもんだよ。あれ以来妖魔の襲撃もないし、工兵たちはよく働いてくれた。建物だの防壁だののあれこれは専門の将校に任せたしな。問題らしい問題は今のところない。痩せたのは――」
レフノールが言葉を切って、ちらりとリディアに視線を送る。
「副長の毎朝の鍛錬に付き合わせて貰ってるからだろう、たぶん」
視線を合わせたリディアが、にこりと笑って頷いた。
さきの戦いで痛めた左の肩と肘がどうにか完治した頃、レフノールの腰回りは常よりも太くなってしまっていたし、長いこと動かせなかった腕からはなけなしの筋肉が落ちていた。さすがにまずい、と思ったレフノールは、毎朝の鍛錬を欠かさないリディアに、一緒にやらせてもらっていいか、と尋ねたのだった。
「そんなことやってるのかお前」
「いざというとき動けないじゃ困るんだよ。肥えるのは体質だろうが限度はある」
「それで、ついていけてるわけ?」
「うちの副長はほら、誰かと違って優しいんだよ。手加減しながら付き合ってくれる」
からかうように話を振ったライナスに、レフノールが混ぜ返した。
基礎動作のおさらいから始めて1月ほど、兵学院で覚えさせられた動きをどうやらなぞれるようになった、というのがレフノールの現状だ。無論、流麗なリディアの剣筋には程遠い。
どうにか人並みくらいになれればよい、というレフノールと、そのずっと上にいながらさらに技術を突き詰めようとしているリディアでは、そもそも目指すところが違いすぎるのだった。それでもリディアはどこか嬉しそうにレフノールの動作を直してくれている。ここ半月ばかりは、鍛錬の終わりに、木剣を使って立ち合いの真似事ができるようになっていた。
「相手がいた方が張り合いがありますから」
リディアの返答に、ふーん、とライナスが頷く。
「それでライナス、お前、アンバレスからここまでわざわざ無駄話をしに来たのか?」
世間話だけで一向に用件らしきものが出てこず、しかもその世間話の話題が自分、という居心地の悪さを打破しようと、レフノールが強引に話題を変える。
「いいや、それなりに重要な話と、話だけで済まないこともあってね。それで来た」
勿体ぶらずに話せよ、とレフノールが促す。
「いい話と悪い話がある」
言葉を切ってにやりと笑ったライナスが、レフノールに視線を向けた。
「どっちから聞きたい?」
レフノールは隣に座ったリディアと顔を見合わせる。
ここへ――王国の北の辺境へ配属されてからもう幾月かが経つが、もたらされる報せはだいたいろくでもないものばかりだった。こんなことに慣れたくはない、と思いながら慣れてしまっている己が恨めしくもある。いい話とやらがどの程度いい話なのかはわからないが、それがくっついてくる分だけまだマシであるのかもしれなかった。
「――悪い方からで頼む」
わかった、と頷いたライナスが切り出した。
「お前の出征が決まった」
「――は?」
頓狂な声がレフノールの口から洩れた。理解できるか、とリディアに視線を送るが、リディアも黙って首を振るのみだ。
「ちょ……ちょっと待て。順を追って説明してくれ。俺がどうしたって?」
「話せば長くなるんだが――まあそうだよな。俺にもいまひとつ理解しきれない部分はあるが、できる限りは説明するよ。
前の、カウニッツ大佐の一件がな、摂政殿下のお耳に入った、らしいんだよ」
聞きたくもない名を聞き、思い出したくもないあれこれを思い出してしまったレフノールの表情が歪む。隣ではリディアまで眉間に皺を寄せていた。
「――話が見えんが」
「軍功を挙げた指揮官は、陛下への報告の栄誉を賜る。陛下が成人されるまでは奏上のお相手は摂政殿下だろ」
それ自体は理解できなくもない、という話ではあった。
レフノールは死ぬような思いをして、自身は重傷を負い、部下を幾人か死なせもした。
だが客観的に、そして巨視的に見るならば、最小限の犠牲で妖魔を掃討し、周辺の村落からその脅威を遠ざけた、とも言える。矢面に立ったのはレフノールでありリディアであり、そして兵站部門の下士官兵だったが、全体の指揮を執っていたのがあの大佐であることも事実だった。
「それで?」
「殿下が執務されるのは陛下の成人の儀まで。それももうあと半年かそこらだろ。
陛下は聡明なお方だと評判だから、実際に国務を総覧あそばされるようになったら、殿下の御助言を必要とされるのもそう長い間じゃあるまい」
レフノールは黙って頷いた。
若い国王の顔を、レフノールは知らない。だが確かに王都の兵站総監部に在勤していた頃に、一度ならずそのような評判を耳にしている。王国軍の兵站を取り仕切る兵站総監が王城に招かれて進講した、という話も聞いたし、学術院から様々な分野の泰斗を呼んでは話を聞いている、という噂もあった。
進取の気性に富み、学識に裏打ちされた専門家の話に興味を持つ、年若い君主。
自分自身で知識を身に付けながら、政務を執る際の助言者を選んでいるのかもしれない、とレフノールは思っていた。
レフノールには、おぼろげに話の輪郭が見えてきている。
「一度握った実権をだよ、レフノール、そう簡単に――」
「手放せるわけがない、か」
ため息とともにレフノールは吐き出した。最悪の気分だった。
摂政殿下は先王陛下の弟君。玉座を継承した王陛下からは叔父に当たる。押し出しの強い人物という噂で、だが、度量の大きいところもあり、関わった者には面倒見がいいという評判もあった。
「そう。あくまでも陛下が成人されるまでの中継ぎ。だが摂政として国の実権を握ってしまった。これで陛下が暗愚なら、重臣や大貴族だってなんのかんのと理由をつけて実権を握ったままにさせるだろうが」
「聡明であらせられるからには摂政としてのお役目は無事完遂、と。制度面では独立混成大隊構想が取っ掛かりなんだろうな。あのくらいで満足してくれりゃ良かったんだがなあ」
部隊を指揮できる役職が増え、人事を動かす余地が増える。摂政の「引き」で昇進することになる者もいるだろう。摂政の立場を離れたとしても、軍の中に影響力を残すことができる、という話でもある。
「制度は制度で作っておいて、あとは摂政退任の前にひとつ、わかりやすくて派手な功績を、ってことなんだろ」
いささか投げやりな口調でライナスが言った。
「事情はなんとなくわかった。それはいいとして、俺が出されるってことは第2軍団が動かされるって話でいいんだよな? 第2軍団にそこまでの余裕はないだろ? そういう命令なのか?」
「動くのは近衛だよ。近衛歩兵」
「――王都からわざわざ?」
「王都からわざわざ、らしい。さすがに第2軍団を立て続けには動かせない、ってことなんだろう」
さきの妖魔掃討作戦は第2軍団から大隊規模の部隊を抽出して実施された。そうたびたび動かしては、何かあったときに対応できないほど兵を疲弊させてしまう。
俺は計算の外かよ、と思いながら、レフノールはもうひとつため息をついた。
「近衛なら財布は違うし、今なら摂政殿下の一存で動かせる」
ライナスが付け加えた。建前上「国のもの」である王国の陸軍と異なり、近衛軍は制度上「王の私兵」だ。将校の人事やら何やらの交流はありつつ、予算や指揮系統は別という建て付けになっている。王としての指揮権はあれど様々な調整を経なければいけない陸軍の軍団ではなく、摂政としての権限ひとつで動かすことのできる近衛を、というのは、ある意味で合理的なところではあった。
「近衛が動くなら、第2軍団は関係なくないか?」
「協力要請があったんだと」
ライナスがため息とともに吐き出す。
摂政殿下の「要請」。実態としては命令と何ら変わるところがなく、そして命令ではない。第2軍団が「自発的」に要請に応じることになる。レフノールは無言で首を振った。
命令に伴う責任を取りたくないという意図が透けて見えている。レフノールの嫌うやり口だった。
「――で、なんで俺なんだよ」
「出張ってくるのは近衛歩兵。あそこには摂政殿下の御子息がいる。いま中佐、大隊長な」
「ろくでもないな」
何がしかの成果を己の係累に挙げさせ、名声と軍への影響力を確保しようとする。そのために兵を動かす。目的からして不純としか言いようがなかった。
「第2軍団は協力を要請されたが、前線に兵力を出すと戦功を分けることになるし、実際問題としてそんなところに主力なんて出したくない。だから兵站支援。そういう忖度と思惑が働いた」
「……ますますろくでもないな」
「ただ、それもあからさますぎると不興を買う。じゃあどうするか、で、お前の名前が挙がった。さきの戦闘で自らが重傷を負うまで指揮を続け、軍功を評価されて昇進、勲章まで貰ってる。そういう人物なら文句は言われまい、ってな」
レフノールの口から、深いため息が漏れた。なにもかも事実で否定すべきところがない。
隣に座ったリディアが気の毒そうに自分を見ているのが余計に堪えた。
「お前の差し金なのか、これも」
「まさか」
愚痴のように吐き出した言葉に、ライナスは傷付いた表情になった。
「さすがに今回は反対したよ。少なくとも今は休ませる、とまでは言わずとも、通常の任務に専念させるべき、ってな」
「――すまん。ありがとう、ライナス」
自分の態度が八つ当たりに近いものだった、と自覚して、レフノールは短く詫びた。
「いや、俺こそ力が及ばなかった。お前のおかげでここの整備だって順調以上に進んだんだ。引き抜いて私欲丸出しの出兵に付き合わせるなんてとんでもない話なんだよ、本来はな。グライスナー少佐もそう主張してた」
「少佐もか」
レフノールにとっては、数少ない嬉しい話でもあった。少なくともあの有能な少佐は自分のことを気にかけていて、筋を通そうとしてくれている。
「あとは司令部が全会一致と聞いた」
「まあ、転属したてで軍団内部にしがらみもない、となれば」
便利に使いたくもなるよな、と吐き出したレフノールに、ライナスが苦い表情で頷いた。
「命令が出ちまったなら仕方ない。そういう商売だ」
もう一度ため息をついて、レフノールは肩をすくめた。
「――ところで、協力って、一体何をすりゃいいんだ?
そもそも俺の立場はどうなるんだ。臨時に近衛に転属するのか、それとも、臨時編成した部隊に組み込まれる形になるのか」
どうにか気を取り直して具体的な話に踏み込んだレフノールに、それがなあ、とライナスが微妙な笑顔を見せた。困ったような笑顔だった。
「よくわからんのだよ。お前の立場の方が特にな」
「――何だよそれ」
お待たせいたしました。
連載再開です。またしばらく、よろしくお願いしまーす!




