1話『漂着/復讐の女神、蘇る』
「大慾を司りし貪食の貴婦人よ、死肉喰らいし鬼の神祖、或いは止まぬ殺戮者よ。肉の器は此処に、仮初の魂魄を此処に。永眠の座を降り、虚ろなる淵より再誕せよ!」
捻れた樹木が並び立つ湿地高原の大穴、リュクスの淡海と呼ばれる禁足地の中心。
水の流れは停滞し、吸血生物や肉食虫で溢れ幾重にも腐り白骨化した死骸が転がる魔の地に足を運んだ魔法使いが詠唱を唱えると、淀んだ湖が泡を立て始める。
余程の事がない限り国の権力者であっても使用を禁じられている大魔術、『蘇生術』によって周囲の木々や生物の肉が削がれ、魔力と呼ばれるエネルギーに変換されて展開された魔法陣の炉心に食い尽くされていく。
命を奪われた者達の断末魔が忌み嫌われた"女神"の再誕を祝うかのように木霊する。術者である魔法使いを除き、全ての生物の魂が食い潰され静寂が訪れると、泡立っていた湖から一柱の女神が姿を現した。
「やあ、おかえりなさいアレクトラ。数千年の冥土の旅は楽しめたかな?」
「……」
魔法使いの問いかけに対し、女神は何も返さない。言葉の意味を理解出来ていないわけではなく、その問いかけに対する答えを持っていないわけでもない。
アレクトラには意志がなかった。自衛手段として魂に鍵をかけ、自我を封印された傀儡として召喚した事を思い出した魔法使いは「そうだったそうだった」と自分のうっかりを笑い手を叩く。
「ごめんねアレクトラ。素の君を召喚したら戦争に勝つ前に国が滅んでしまう。それじゃあ契約を履行した扱いにならないから、申し訳ないけどしばらくはそのままでいてもらうね」
未だ湖に佇む女神に対し謝罪を述べた魔法使いが手を差し向けると、女神は無感情のままにその指先に視線を合わせて1歩、また1歩彼女の方へと歩み寄っていく。
魔法使いの手と女神の手が重なる。その瞬間、女神の首に鎖のような刻印が現れ肉体に変化が訪れた。
女神の骨が、肉が、ボコボコと音を立てて形状を変え190cmは優に超えていた背丈がみるみるうちに魔法使いの腰程の背丈まで縮んでいく。それに伴い大気を揺らすほど膨大だった女神の魔力が体外に放出され、魔法使いの全身を襲っていた鋭利な痛みも弱くなる。
「よし。ここまで存在を矮小化すれば人間との会話も可能になるかな。まったく、憎くて憎くてたまらないからって人の事食べすぎなんだよ。食いしん坊さんめ」
「……」
「ふふっ。お人形さんみたいにしてると本当に可愛いなぁ君は。さて、それじゃ目的も果たしたし早速帝王様の所まで連れていくね」
魔法使いがそう言って子供の姿になった女神を抱き上げると、宙に浮く魔法を無詠唱で発動しそのまま空を駆けるように禁足地から離れていく。
魂が縛られ、自由意志を抱くことが出来ないにも関わらず女神アレクトラは自分を抱く魔法使いの顔を凝視する。
「うら、ぎり、もの」
「! あれ、魂を縛った筈なのに。屈強な自我だね、流石! ふふっ。やっぱり旦那さんの事、まだ恨んでたんだ? 怖い怖い。じゃ、ふとした拍子に覚醒しちゃわないように対策を重ねておこうかな」
ウルがアレクトラの額に人差し指を当て、『忘却の呪術』を使い強引にアレクトラの記憶から自分に関する記録を抜き取る。頭の中を操作されたアレクトラは抗いようのない倦怠感に襲われ、眠るように瞼を閉じた。
かつて人類を鏖殺していた邪悪な女神を復活させた魔法使いが向かったのはロドス帝国である。
ロドス帝国。女帝エリザヴェータが統治している新興の軍事国家であり、国力の拡大を目標に複数の周辺国を侵略し続けている。
現在は大陸最大規模の軍事力と文明力を持つキリシュア王国と戦争中で、アレクトラはロドス帝国の戦力補強の為に蘇生させられた駒であった。
アレクトラがロドス帝国に到着し兵力として戦場に投入されると、苦境を強いられていたロドス帝国が一気に優勢に傾いた。
鎧ごと人体を貫き、敵の魔法を喰らって無効化し、集団に対して痛みやトラウマを想起させる能力を使い鎮圧していく。キリシュア王国はアレクトラの圧倒的すぎる力に対し恐怖を抱くようになり、彼女が存在するだけで戦場での士気はどんどん低下していった。
何度も戦場を駆け抜けてきた屈強な騎士達が膝を折り、剣を捨て、許しを乞う。それを嘲るように、アレクトラは命を奪い存在を喰らう。今の彼女には心がなく、命令に従ってただ機械的に敵国の騎士を処す殺人兵器でしかない。
いつしか彼女は女神ではなく悪魔と囁かれるようになった。
殺した人間を喰らう習性からいつしか彼女は『暴食の悪魔』と呼ばれるようになり、復讐の女神どころか悪魔の烙印を押されて王国では畏怖の対象と化していた。
彼女が人類を呪い産み落とした知性なき怪物も『屍喰鬼』という、人を喰らう鬼を意味する名で呼ばれている。皮肉にも悪意を以て作り上げた存在と同格まで堕とされた彼女は敵国のみならず味方からも畏れられ、疎まれるようになった。
邪神の参入によって一方的にも思えた戦況はある日、二人の剣士がきっかけとなり変化が齎される。
「あれが『暴食の悪魔』ね。ただの少女のようにしか見えないのだけれど」
「油断するなよ騎士団長。アレ、既に俺達を捕捉してるみてぇだからな」
ロドス帝国が中立の立場にある賢聖ウルを利用したように、キリシュア王国は亜人族の権利保証を条件に人類最強の剣士を戦力に引き込んでいた。
剣聖ローゼフ・シルバーファング。神速と謳われる黒髪の剣士で、厄災と呼ばれた魔獣を単身で屠った英雄でもある。
そしてローゼフの隣に並び立つ女剣士はフレイディス・セイズ・アトランタ。キリシュア王国の最大戦力である聖騎士団の長であり王国最強の剣士。光を反射して輝く頭髪から『輝く髪の剣鬼』とも称される女だ。
人類最強の剣士と王国最強の剣士。単体でも今まで戦った雑兵全てを足して余りある戦闘力を保有する英雄を一気に二人相手にしないといけない盤面。
通常であれば戦意を喪失して然るべき状況だが、アレクトラの目に迷いは生じない。だがしかし、心はなくとも動物の本能で、これまで通りの戦い方では勝てないと悟り彼女はずっと二人の事を観察しながら騎士達と戦闘を行っていた。
ローゼフとフレイディスが剣を抜く。その瞬間、彼らの圧が倍以上に膨れ上がり大地が揺れ始める。
「……っ」
先に動き出したのはアレクトラだった。彼女は異形の姿へと変貌しフレイディスに襲いかかる。
「参ったなこりゃ。アイツ、俺達剣士の天敵みたいな能力を持っていやがる」
「本当、まるで手応えがない。厄介な敵ね!」
彼らの戦闘は日が暮れ、次の朝がやってきても終わることはない。
二人の剣士は互いに目にも止まらぬ神速の斬撃を繰り出すも、肉体を自在に自切し攻撃を躱し続けるアレクトラには有効打を与えられずにいた。
アレクトラの方も、凡そ全ての生物を殺すのに適した能力を保有しているが相手の練度が高すぎる故に迂闊に攻撃を放つ事は出来ない。
単純な実力差で見ればアレクトラは劣勢。だが防戦に徹した彼女を殺し切るのは困難を極める。
戦いは拮抗し決着がつかない。しかし、アレクトラと剣士二人には決定的に異なる要素があった。それは心の有無。その違いが勝負を決する最後のピースとなる。
「取った!」
度重なる肉体自壊と能力の多重使用により魔力が欠乏し、憔悴したアレクトラの動きが一瞬止まる。その僅かな隙を見逃さなかったフレイディスが肉薄し、ついに敵の懐に入る事に成功する。
一閃。最低限の動きで彼女が出せる最速の剣がアレクトラの首を捉え、そのまま刃が彼女の皮膚に沈み女神の首が胴体から分断される。
自ら肉体を自切していた化け物じみた身体を持つ彼女だが、それでも戦闘中一度もアレクトラは自分の首を自切することは無かった。
自己再生能力に優れているが、不死身というわけではない。生物には必ず弱点が存在する。そうでなければそもそも、アレクトラは攻撃を防いだり回避したりはしない筈だ。
フレイディスが確信を持ちながら放った斬撃によってアレクトラの斬首に成功する。しかしそこで油断することもなく、彼女は宙を舞うアレクトラの頭部をさらに切り捨てて脳を破壊し、立て続けにその場に硬直したアレクトラの胴を突き心臓も破壊した。
生物が生命維持を行うのに必要な器官を全て破壊されたアレクトラの肉体から熱が消える。頭部を失った胴体は一度大きく揺れると、地面に向けて仰向けに倒れた。
「念には念を、ねっ!」
そう言ってフレイディスは天を仰ぐ女神の亡骸から四肢を切除する。ダルマ状態になったアレクトラの胴体を足で蹴って反応を試し、動く様子がないのを確認すると初めてフレイディスはアレクトラの亡骸から目を背けてローゼフの方に振り返り右腕を振り上げた。
ーーだがそれは罠だった。
「よっしゃ! 勝っ……っ!?」
「フレイディスッ!?」
勝利を確信し油断しきったフレイディスの腹から棘が表出する。背後から何かで胴体を貫かれたフレイディスは、何が起こったのか確認しようと振り向こうとするも第二第三の棘に貫かれて地面から足が離れ、アレクトラの亡骸と同じように天を仰いだまま磔状態にされる。
「う、ぐ……っ!?」
絶命したはずのアレクトラの胴体、その肋骨から新たな骨が生成され、増殖した骨から更に別の骨が生成されるという形で肋骨状に展開された杭がフレイディスを次々に突き刺し磔刑に処す。
肉、骨、臓器の尽くを貫かれ、粉砕されたフレイディスの口から血が滝のように零れる。骨の杭を伝ってフレイディスの血を浴びたアレクトラの胴体が震え出し、乾いた喉を潤すかのように皮膚を脈動させながら彼女の血を吸収していく。
「どうなっている!? アレはまだ生きているのか!? 糞っ!!!」
ローゼフが叫びながら大地を蹴る。砂塵を巻き起こしながらフレイディスの元へと向かうローゼフであったが、彼の指が彼女の身に触れる事はなく直前で彼の身体が制止する。
「足……?」
己の足元に違和感を覚えたローゼフが目を配ると、切り飛ばされたアレクトラの右腕が彼の足首を掴んでいたのが見えた。その右腕は側面や断面から無数の骨を伸ばし地面に食い込ませることでその場に固定されており、まるで多脚の虫のような蠢き方をしながら彼の足首を捻り壊そうとする。
「しまっ!?」
四肢を切り落とされた彼女の左足の付け根から鋭利な骨が伸びローゼフの左太腿を貫く。痛みに苦悶を声を漏らすも、続けてアレクトラの右足の付け根がグジュグジュと泡を立てながら蠢いてるのを察知したローゼフは身を大きく傾けながらフレイディスを貫いている骨を数本剣で叩き折った。
「諤昴>蜃コ縺」
「っ!?」
聞き覚えのない声が足元から響いた。フレイディスによって斬首されたアレクトラの頭が生きているかのように口を動かし理解できない言葉を呟いたのだ。
言語として分析する事すら困難なほど曖昧で奇妙な音の羅列。しかしそれが何らかの能力を発動するための"詠唱"であると認識したローゼフはフレイディスの救出を一時諦め、未知の攻撃に備えてその場から距離を取る。
空間に魔力の起こりはない。何も起きない、はったりで声を発しただけなのだろうか? そう思った矢先にローゼフの中で大きな拍動のような異音が響く。
「ぐ、あ、があああぁぁぁっ!!?」
何かに接触した覚えはない。魔力を肉体に流される感触もなかった。にも関わらず突然ローゼフの肩がひとりでに裂ける。同時に斜め一本の線を描くように彼の胴体から血液が滲み、一秒も経たずしてそれは大きな切傷と成って彼の胴から鮮血が噴き出た。
「これは……」
この戦闘でいつこのような傷を受ける攻撃を受けたか検討もつかない。けれども、あまりにもその痛みや傷の有り様が"過去受けた攻撃によって齎された状態"と似通いすぎていた為に、彼の脳裏にとある記憶が呼び起こされる。
それは、先代剣聖と争った時の記憶。実力が互角の剣士と交えた壮絶な斬撃によって受けた傷と、今受けている傷は全く同じに思える。痛みもそうだ。あの時に感じた痛みと似通いすぎている。
身に覚えのある痛み、身に覚えのある負傷。それらを何故今ここで受けるのか。考えている間にまた別の痛みと傷がローゼフを襲った。
傷がひとりでに生まれ、それに付随した痛みを味わう。それらはいずれも彼が生涯で受けてきた物に似通っており、彼の中で一つの推論が生まれる。
(不可視の攻撃を受けてるのではなく、俺の古傷が開いているのか!? 過去に受けた痛みと傷をそのまま今の俺に転写する、それが奴の能力……っ!)
思考する彼の腹や太もも、肘に鈍い打撃の痛みが走る。痛みを受けた箇所が青紫色に変色し、内出血を起こし膨らんでいく。それはまるで、木剣で叩かれたかのような腫れ方をしていた。
彼女が口にした謎の言葉はローゼフの古傷を開き痛みを再現する類の能力の発動詠唱だった。しかもこれによって受ける痛みは当時受けた痛みのまま、未熟な頃に受けた痛みと影響がそのまま自らにフィードバックされる。
肉体を鍛えようと、痛みに慣れようと、あらゆる耐性を無視して効果的な苦痛を相手に与える能力。耐え難い痛みが幾重も積み重なりローゼフの意識が軋む。
「悪趣味すぎるだろう……ッ!? 毒まで、再現されるのかよ!」
背中を刺されるような痛みを覚え、直後にローゼフの腰が麻痺し、続けて足が痙攣し立っていられなくなる。
かつて蛇と人を混ぜ合わせたような怪物と戦った際に受けた痛み、そして毒の効果。
まずい、とローゼフが呟く。
当時は解毒出来る人間が近くに居たから一命は取り留めたものの、この場には居ない。
毒の効果が本物と全く同じように再現されているとしたら、この毒は致死性が高い猛毒であり解毒しなければ彼はいずれ毒により絶命してしまう。
「ロー、ゼ……」
「!? フレイディス! 生きているのか、フレイディスッ!」
磔にされたフレイディスが咳混じりにローゼフの名を呼び弱々しく手を伸ばす。その手を掴もうと、笑う足腰を叩き立ち上がろうとするローゼフの足にアレクトラの左腕が飛びつき、その肉に強く爪を食い込ませる。
「邪魔、するなァっ! ……ッ!? ぐあぁっ、ああぁぁぁっ!!?」
アレクトラの腕を払いのけようとした瞬間、足にしがみついていた彼女の腕が爆ぜるように全方位に向けて骨を表出させる。
骨の鋭利な先端はローゼフの右膝の肉をズタズタに引き裂き、骨を削り、神経を断ち切る。オマケにそれを払いのけようとした彼の手にも骨が及び、手の平を貫通し中指と薬指が千切れ飛び親指も文字通り皮一枚の状態となってしまった。
「こんな、事がっ……!」
ローゼフがその場にしゃがみこみ、毒によって上がった体温で平衡感覚を失い横向きに倒れる。熱病に浮かされたような肉体には汗が滲み、全身が麻痺し始め、その状態で断続的に古傷を開かれ過去の痛みを具現化させる。
「お前、は、女神なんかじゃない…………怪物だ、悪魔だ……っ!」
倒れた際に目と目が合う位置に落ちていたアレクトラの頭に向かってローゼフが恨み言を発する。その言葉についてはアレクトラはなんの反応も示さなかったが、彼が痛みに苦しむ姿を見ている内に悦に浸るような不気味な笑顔を浮かべるようになり、不意に頬を膨らませ、何かを咀嚼するように口元をモゴモゴと動かし始めた。
咀嚼していたものを飲み込むような仕草を見せた後、不意にアレクトラの頭がドロッと溶解しその場から消滅する。それと同様に彼女の切り離された両手両足も液状化し消滅すると、彼女の胴体から膨大な魔力が溢れ出し失われた四肢と頭部を再形成し始める。
「まだ、死なないのか……この悪魔が。くそ、くそ……やら、れっぱなしで……終われるものかあっ!!!」
常人であれば動く事など不可能なまでにボロボロになったローゼフであるが、彼は叫びながら強引に上体を起こし、麻痺した腕を無理矢理に動かして落とした剣を握りアレクトラの胴体を再び斬ろうとする。
だが、彼の一矢報いようという思いは無情にも果たされなかった。
まだ頭部が形成しきっていない不完全な形状のアレクトラは、フレイディスを磔にしている骨を肋骨から切除し立ち上がるとローゼフを思い切り蹴り飛ばした。抵抗する力もないローゼフはいとも容易く後方へと吹き飛んでしまう。
ローゼフが離れると、アレクトラはその場に立ち尽くして頭部の再生を待つ。骨の杭がフレイディスの体重によって傾き、彼女の肉体が地面に落下する。
重々しい落下音が彼女の鼓膜を震わせた瞬間、記憶処理を行っていたアレクトラの脳内にノイズが走る。そしてその僅かな綻びから妙な情報が溢れ出し、これまで無感情だったアレクトラが初めて困惑の表情を作った。
「………………これ、は、わたしの……俺の……記憶……?」
それは、彼女の前世の記憶であった。