願い、叫ぶのは
ただ果てしなく真っ白な世界に、二人の人間がいた。
立ち尽くすわたしと、わたしに背を向けて座り込む少女。
少女は膝を抱えこむように座り、ずいぶんと年季の入った文庫本を開いていた。擦り切れて本来の色を失った表紙、シミが目立つ小口や天に、中の紙もすべて茶色く変色している。どうやら背表紙の糊が一部剥がれたらしく、数枚が不揃いにはみ出していた。
その少女が手にした本の傷みよりも目に付くのは、少女自身のボロボロの身なりだ。
年のころは、まだ10歳にも満たないくらいだろうか。手入れされていない黒髪が背中の真ん中あたりまで覆って、毛先に行くほどパサつき絡まっていた。靴にも着衣にも穴が開いている。
少女が本に向けるまなざしには、輝きがわずかに残っていた。
少女は息をひそめて微動だにせず、一心に本に目を向けていた。
自分自身をふくめ、本以外の何物にも目を向けることは無かった。その瞳が動くのは、ひたすらに文章を追うため。膝を抱え、小さく縮こまって本にのめりこむ姿は、それ以外のもの――本以外の世界、すべてを拒絶しているようだった。
少女にとって、本来生きるべき現実は、生き辛い世界だった。
あたたかな居場所を持つ何者かになりたくて、少女はページを捲り続ける。
少女の背中を見つめるわたしの灰色の髪を、背後から吹いた風がすくい上げて通り過ぎていく。
いつか誰かに燃えるような夕焼けに例えられた瞳で、今はただ少女を見据える。
少し遠く、けれど遠過ぎはしない距離で、ただ二人この空間を共にする人。本を取り上げたらあっという間に消え去ってしまいそうな、小さな後ろ姿。
わたしがどれほど叫んでも、彼女がそれを聴くことは無い。
外からの声に堅く耳を閉ざすことで辛うじて自分を守っている小さな背中に、届く言葉などない。
それでも。
わたしは自分の無力さにおののく肺を叱咤し、ゆっくりと深く息を吸う。
「生きて」
のどが締め付けられたようにこわばって、思うように声が出せない。
目が熱を持ち、熱くて不快な涙がボロボロと頬へと転がり落ちていく。
どれほど願おうとも届かない声は、ただ虚しく空気を震わせる。
無駄なことだ。何の意味もない。何の結果も生まない。
わたしの声は、あの少女にも、外の世界にも、誰にも届くことは無い。
偽善、ということさえおこがましい、観客のいない一人芝居。
そうであっても、胸を焼く怒りにも似た激情は、わたしの目から涙を流させ、のどを震わせ、息を荒くさせる。
ここには少女とわたししかいない。彼女のために叫ぶことができるのは、わたししかいない。
本を手に取る力が残されている今、彼女が自分の心を守ろうとしている間に。彼女が、彼女自身の心に澱む悲しい願いに喰い殺されないうちに。
この行為が一人芝居でしかないと分かっていても、あきらめることはできない。
それなら、この滑稽な芝居を全うするしかない。
「生きて……!!」
わたしの無責任で傲慢なこの願いが、力無い少女をいかに苦しめるか、わたしはよく知っている。本を閉じて現実を生きるとき、少女がどれほど傷つくか。日常を諦めと共に暮らし、孤独が付き纏い、数え切れない嘲笑に耐え、不公平を呑む。そのたびに繰り返し、死を渇望するだろう。生きる意味などいらない、ただ楽になりたい、と。
その苦痛の数々を思えば、心は悲鳴を上げる。彼女の苦しみを知りながらよくもそんな残酷な願いを、ここから動くことも叶わない分際で、と自分をののしる声が頭の中で痛みを伴ってこだまする。それでも。
「生きて!!」
ああ、わたしの喉が張り裂けてしまえばいいのに。
わたしの口から血がほとばしって、孤独に震えるあの子に届けばいいのに。
そうすれば声が届かなくても、彼女の背中を温められる。
どんな言葉よりも雄弁に、わたしが側にいる、と伝えられる。
この身はあの子にふれることはできない。
この声はあの子に届くことは無い。
今の少女の目には、わたしの姿は映らない。
今はまだ、彼女が背を向けている場所から、届かない叫びを繰り返すしかない。
この願いがどれほど罪深いとしても。
あの子を地獄に追い立てる呪いの言葉であっても、叫び続ける。
少女に届かなくても。何度も、何度も。
「必ず……必ず、会えるから、絶対に」
今は、耳も目も閉ざしていていい。
ただ生き延びてほしい。
お前など生きるに値しない、と外の世界は声高に叫ぶ。
わたしは生きるに値しない、と少女は絶望に殉じようとする。
そのすべてをかき消せと、わたしは全身全霊で声を張り上げた。
あなたの耳に届くのは わたしの声だけでいい
あなたの死をいたずらに願う 残酷な笑い声に
力なく同意する必要はない わたしのために生きてほしい
冷ややかなささやきに 斬りつけられた傷跡は
百倍のわたしの言葉をもって埋めよう
わたしにはあなたが必要だから
あなたがいなければ わたしになれないから
「生きて!!生きて!!わたしに逢うまで!!絶対に!!」
生きて、生きて、生きて、生きて、生きて、生きて――
狂ったように叫び続ける。
馬鹿みたいに何度も何度も同じ言葉で。
呪詛のように。
祈りをこめて。
はた、と瞬きをしたとき、最後の涙が落ちて急に視界がクリアになる。無我夢中で叫んでいる間に、ずいぶんと時間が経っていたようだ。
気付いたら、黒髪を一つに束ね、地味ながらも清潔な服に身を包んだ女性と対面していた。片手には、表紙のすり切れた文庫本。
女性は本の背表紙でコツッ、とわたしの額をたたいた。
「うるさいよ、ずっと同じことばっかり」
少し不貞腐れたような顔でつぶやく。
女性の目は、わたしを見ていた。
彼女が手にした本がわたしにふれていた。
本を閉じても、しっかりと自分の足で立っていた。
『ずっと』、聞こえていたのか――。
「おかげで集中できなくて困るんだよ」
彼女が呆れの混じったため息とともに愚痴をこぼす。
わたしが叫び過ぎてかすれた声で、聞こえてたの、と尋ねれば、
「聞こえるよ」
なにを当たり前のことを、と言わんばかりに肩をすくめた。