1-9
迎える中学一年の、春。
始業式を終え、一年一組の生徒達は、こぞって教室の中で担任の到着を待っていた。
窓越しに映る桜の舞う様を見て、感慨に浸ることも、高揚感に包まれることもない。
ただじぃっと、時間に身を委ねていた。
何も発さず、記念すべき中学校生活の初日に幕が降りるのを、待っていた。
「よっ、オレ三郷太助。よろしく」
そのクラスメイトは、気さくな雰囲気を携えていた。
「え、あぁ。よろしく。岡寺叶央です」
彼はクラスの中心人物と呼称するに相応しい人物であると、直感で感じ取る。
三郷太助は同じように、何人もの生徒に個々で挨拶を繰り返していた。俺が彼の前の席であったから、たまたま最初に挨拶されただけ。
俺は頬杖をつきながら、彼の様子を眺めていた。飽きもせずに、自分の名前を連呼。数人に挨拶を済ませたところで、担任が到着した。
慌てて着座する三郷太助。担任が教壇で軽い挨拶を終えると、次は生徒達の番。
前の席から順番に自己紹介が始まって、早くも俺まで回ってきた。
「岡寺叶央です。趣味は……寝ること。好きな食べ物は……ラーメン? えっと、よろしくお願いします」
「はーい。岡寺君、よろしくねー。それじゃあ次、行こうか」
「三郷太助です。趣味は……逆立ちしながら寝ること。好きな食べ物は……手りゅう弾? えっと、よろしくお願いします」
「はーい。体壊さないようにねー。それじゃあ次、行こうか」
な、何だこいつ……。
俺の思い描いていた人物像が瓦解していく。
しかも超滑ってる。俺をダシにした挙句に、あっさりあしらわれている。
「おい、何で笑ってくれねぇんだよっ、えらい空気になってんじゃん」
当の本人が、こちらを向いて訴えかけてきた。顔色に焦りが窺える。
「はぁ? 知らないよ。面白くなかったから誰も笑わなかったんじゃないの?」
次々に行われる淡白な自己紹介。完全に冷えきっている一年一組。
「ちょっと盛り上げようとしただけじゃん。滑っても、先生がフォロー入れるとかあってもいいと思わねぇか?」
「そうだね、本当にただ滑り落ちただけだもんね」
中学デビューを夢見ていた小心者だったのかも知れない。しかし新学期は始まったばかり。まだまだ挽回の余地はあるだろう。
「それじゃあ次、行こうか」
大半が終了した自己紹介。残るは数人の女子だ。
「二階堂桐子です。趣味は卓球、好きな食べ物はきな粉です。一年間、よろしくお願いします」
端正な顔立ちの女子。濃い色をした青髪のセミロングは、穏やかな印象を俺に与える。
「あの子だ……」
「え?」
唐突に確信めいた口調で呟く三郷太助。まるで運命の女性に巡り会った瞬間のよう。
「頼む、岡寺君……いや、岡寺!」
やがて彼女へ注がれる熱視線が俺へと切り変わった時、三郷太助は、決意を迸らせながら口にした。
「オレに、あの子のパンツを見せてくれ」
彼女への、愛の言葉を。
放課後の予定を変更。急遽、後ろの席に座っていた奴の茶番に付き合う羽目になった。
俺の役割は二人の仲介。指定された待ち合わせ場所に、彼女を連れて行くことにある。
「あの、ちょっといい?」
鞄に荷物を詰めている最中の二階堂桐子に声をかける。
「うん。君は確か……岡寺叶央君だったかな?」
驚いた。よくもまぁ、あんなに面白味のない自己紹介をしたクラスメイトのことを、覚えているものだ。
「えっと、君と一緒に部活見学したいって子がいてさ。先に外で待ってるらしいから、忙しくなかったら来てくれない?」
今日は登校初日。上級生が体験入部と称して、新入生の確保に勤しんでいる。この教室からも、活力にあふれた呼び込みが耳に入る。
「別に構わないけど……何でその子から誘ってくれないのかな?」
「さ、さぁ。準備があるとか言ってたっけ……」
「そう。じゃ、体操服に着替えたら、一緒に行こうか」
無事、二階堂桐子を連れ出すことには成功した。が、誘い方を間違えてしまった。俺も同行する流れになってしまっている。
更衣室に向かう彼女を確認し、仕方なく俺も着替えを始める。
夏用の体操服に袖を通すと、すぐに二階堂桐子も教室に戻ってきた。
改めて面と向かってみて感じたが、俺と身長が大差ない。さらに体操服越しでも分かる、体格の細さ。
無骨なデザインの体操服でも、着る者によってファッショナブルな姿を見せる。三郷太助は目の付け所が良かったんだな、と思った。
「わざわざごめんね。付き合わせちゃって」
「いいっていいって。私も体験入部、受けようと思ってたし」
俺は受けるつもりなんて毛頭なかったけれど。彼女のお目当ては恐らく卓球部だろう。
隣に並んで教室を出る。初日から女子と二人っきりで歩いてるなんて、贅沢な気分だ。ついついすれ違う同級生に目がいってしまう。
どうも今の時間、この棟にいるのは新入生ばかりらしい。体験入部に向かう連中は、もれなく一年生カラーの体操服を着ている。
緑の体操服……緑の体操服……赤いタンクトップ……あれ?
「悪ィな、来てもらって……」
玄関まで降りてきた俺達は、下駄箱に、リストバンドの付いた左腕を乗せる三郷太助の出迎えを受けた。
そのポーズが格好いいと思っているのか? それにどこから借りてきたんだ、その派手な服。
だが今回の作戦、主催者は彼だ。俺は何も言わずに、成り行きに任せることにする。
「一緒に行きたいって、三郷君だったんだ。どうして私となのかな?」
あくまで純粋な眼差しで、二階堂桐子は尋ねる。彼もいきなり一目惚れしました、とは言えまい。
「え? ああいや……それは……」
「いや考えてないんかいっ!」
彼は下駄箱から即座に腕をどけると、完全にそっぽを向いてしまった。
どういうことだ? まさかファーストインプレッションだけで凌げると考えていたのか? だとしたら大失敗だ。
二階堂桐子が頭にはてなを浮かべている。このままではマズイ。俺がそう考えていると、三郷太助がこちらに目線を送ってきていた。
あれは……こんな序盤で助けを求めている? ライフライン使うの早くない?
「はぁ……君の自己紹介を聞いて、仲良くなりたいと思ったらしいよ」
「そう! 是非一緒に、部活見学!」
途端に元気になる三郷太助。上手くカバーしてやった自信はないが、両手を合わせて、俺にだけひっそりと感謝を示していた。
「全然いいよ! 私も誰かと回りたかったから」
しかしこの子、優しいな。同性の友達だって作りたいだろうに。新学期から野郎二人に付き合ってくれるなんて。
「……そうか、なら都合がいいよ。早速行こう、時間が勿体ない」
調子を取り戻したのか、先程垣間見えたナルシシズムを前面に押し出し、俺達を先導する。
校舎を出ると、外はグラウンドで練習に励む運動部や、校門前で部活勧誘に必死な上級生の声で満たされていた。
先陣を切る三郷太助に、何も考えず付いて行く。雑踏を掻き分けた先には、男女共用のテニスコートがあった。
「軽く遊んでいくかぁ」
コキコキと首の関節を鳴らしながら、ラリーの体験が出来る列に並びに行く三郷太助。
どうやら腕に自身がある様子。二階堂桐子にその雄姿を見せつけ、惚れさせる魂胆か。
一人だけ真っ赤なタンクトップである為に、凄く浮いている。他の一年生にガン見されてるのは気にならないのか?
「あれ、岡寺君、行かないの?」
「見ての通り帰宅部希望だから。今日は付き合わされてるだけ。二階堂さんは? 俺はいいから行ってきなよ」
言いながら女子が並んでいるスペースを指差す。しかし二階堂桐子は、首を横に振っていた。
「私、卓球部ってもう決めてるから。それに、こうやって見学してるだけでも楽しいから、いいかな」
彼女が見据える先にはきっと三郷太助がいる。それぐらい、その言葉は純粋なものだった。
「随分、お人好しなんだね?」
少し意地悪な質問だったかもしれない。
「そんなことないよ……それを言うなら、岡寺君だって」
他の部活を避けるフェンスにもたれかかる二階堂桐子。こちらに一瞥が向いた。
「俺は暇だからいいの。それにあいつ……ただの八方美人じゃないらしいから」
最初の印象は、人気取りで目立ちたがり。俺とは縁遠い人物だと思っていた。でも違った。あれはただの……。
「馬鹿だよな」
三郷太助を突き動かすのは、二階堂桐子とお近づきになって、パンツを見せてもらえる関係にまで発展するという欲求。
無味乾燥な日常に、ほんの僅かな彩りが生まれ始めていた。
「確かにっ。でも嫌いじゃないかな」
「お?」
意外と好感触じゃないか。これなら本当に、活躍出来ればワンチャンスあるんじゃないか?
「あ、順番が来たみたいだ」
タンクトップ派手男が、テニス部の上級生からラケットを受け取っていた。
「それじゃあ君のサーブからスタートで、ラリーしてみようか」
対角線上にいる相手のサーブを返球し、アウトになるまでラリーを続けるという形式らしい。
こちらも相手も一年生。ここで負けているようでは話にならない。しくじるなよ。
「おっしゃーっ、来い!」
威勢よく声を張り、重心をある程度低くラケットを構える三郷太助。わざわざテニスを選んだだけあって、ずぶの素人ではないらしい。
「グリップの握りが甘い……まだまだだね」
「え?」
対戦相手が王子様めいた何かを呟いた。地面に向かって何度もテニスボールを突いていて、呆然とする三郷太助。
やがて高い位置にトスを上げ、ラケットを思いきりスイングした。
「うっ!」
着弾と同時に、左に跳ねる球が三郷太助を襲う。情けない声を上げ、顔面への直撃を紙一重で回避する格好になった。
「何だ今のは⁉」
騒然とするテニス部内。彼らの興味を掻っ攫ったのは、タンクトップ派手男ではなく、その対戦相手だった。
「あれは……ツイストサーブだ! 何てこった、超大型新人が現れたぞーッ!」
「ええええええっ⁉」
ラリーの体験はたちまち中断される。部員や見学がこぞって超大型新人とやらを囲い込み、黄色い声援を浴びせている。
「惨めすぎる……」
ポツンと反対のコートに取り残された三郷太助を見て、つい本音が漏れてしまった。どんよりとした雰囲気を纏っている。
「あの……大丈夫?」
「岡寺……この服、着替えてきてもいいか……?」
急に恥ずかしくなったらしい。的役なんだから細々としないとな。
「あはは……じゃあ私達、先に卓球部見てくるから。三郷君も後から来てね」
大敗を喫した三郷太助に苦笑いの二階堂桐子。思うに、彼女はこの程度で他人に幻滅するような人物ではないだろう。まだチャンスはあるはずだ。
三人はそれぞれテニスコートを後にする。俺と二階堂桐子は、卓球場のある体育館へ。もう一人は、体操服に着替える為に教室へ。
「はい、それじゃあ一年生諸君。先輩と打ち合ってみよっかぁ」
部活体験は、体育館の中でも精力的に行われていた。
バスケ、バレー、バドミントン。区画を仕切るようにネットが張ってあり、俺は卓球部の島で、二階堂桐子の様子を眺めていた。
「君、新入生だよね。男子の入部希望ならあっちだよ?」
練習着姿の卓球部員に話しかけられる。卓球台では、別の上級生によるラリーが既に行われている最中。
「あ、いや。連れと一緒に来てて、俺は見学と言うか……」
「ほう、あのカワイ子ちゃんか。もしかして彼女?」
「はぁっ⁉ 違いますよ、連れって言ったでしょ!」
「はいはい、初心だねぇ一年生君っ」
卓球部員は俺をからかうと、練習へと戻っていった。あの手のおちょくりは、どう回避するのが正解なのか分からない。
それにしても、三郷太助はまだなのか。女子の卓球姿をネットの傍で一人観察するというのは、どうにも居心地が悪い。
「おーい岡寺君!」
俺が考え込んでいると、二階堂桐子がこちらに元気よく手を振っていた。そろそろ彼女の出番らしい。
無視するのもおかしいので、手を振り返す。しかし勘弁してほしいな。また関係を疑われてしまいそうだ。
「おい一年、何イチャイチャしてんだ……おいそこ変われ、こいつはアタシの得物だ」
「な、何だあの負のオーラは!」
百七十センチ近くはありそうな女子の上級生が、二階堂桐子の相手コートを陣取った。
「ここはデートスポットじゃないんだよ……それを今から思い知れ」
ラケットを突き付け、彼女を呪殺せんとする勢いで凄みを利かせる上級生。二人を比べてみると、一回りほど体格差に違いがある。
一方の二階堂桐子は、特に気にしていない様子。
「岡寺くーんっ、私頑張るよー!」
「きいいぃぃっ! 死に晒せ! 絶対絶縁サーブ!」
彼女が俺に意識を向けている隙に、何やら恐ろしげなサーブを放つ上級生。完全に不意打ちだ。スポーツマンシップが欠如している。
「な、何だあの弾道は!」
こちら側のコートに落ちた球が、二階堂桐子の鼻の穴めがけてバウンド。先程のツイストサーブに似ている。
「先輩の必殺サーブ! あれを食らうと、どんな美人もたちまち不細工になる、最低最悪の技だわ!」
「何その趣味の悪いサーブ?」
取り巻きによる解説が行われている。しかし良かったな三郷太助。彼女の崩れた顔なんて、見たくなかっただろう。
「ククク、さぁ醜態を……馬鹿なっ⁉」
相手の上級生が目を見開いていた。何故なら、二階堂桐子は鼻の前にラケットを添え、必殺の一撃を打ち返していたからだ。
呆気に取られている様子の上級生。動揺からか、レシーブに反応できていない。
「打球への反応が甘い……まだまだだね」
「それは言わなきゃいけない決まりなの?」
一点を奪った二階堂桐子が、ドヤ顔を決めていた。
「恋愛に現を抜かしているような奴には負けないと思ってたけど……完敗だよ」
「うおおおおおっ!」
清々しい面持ちで天井を仰ぐ上級生。彼女が負けを認めたのを皮切りに、二階堂桐子の元へ大勢の女子卓球部員達が詰め寄る。
「我が部のエースである、ギガンテス先輩からレシーブエースを取るなんて!」
「ギガンテス先輩はインターハイにも出場したことのある実力者だよ! 凄いよ君!」
「ギガンテス先輩って何! 女子のあだ名でギガンテスって大丈夫か!」
なおも清々しい面持ちでいるギガンテス先輩とやら。本人が気にしていないのなら、別にいいのかな。
「いつから卓球始めたのっ?」
「えっと……しょ、小四です。あの……」
部員の一人から早速勧誘を受けている。彼女は卓球部志望だと言っていた。どうやら簡単に受け入れられそうで何より……と、思っていたが。
「ねぇ、ちょっと練習混ざってみない?」
「あ、私……この後は見学の約束が……」
俺達との約束を律儀に守ろうとしているらしい。気にせずに楽しめばいいのに。
「全国区の大会とか出てたの?」
「えっと、どうしよ……去年に一度、成績はあんまりでしたが……」
囲いに困惑している様子。しかし彼女達を無碍にすることも出来ないでいる。二者択一の狭間で揺れる二階堂桐子。
かく言う俺も、女子の包囲網の中に飛び込む勇気が出ず、彼女に手を差し伸べられずにいた。
「あ、いたいた。岡寺ーっ」
おどおどしていると、入口の方から俺を呼ぶ声。何故かタンクトップのまま着替えていない三郷太助が現れ、こちらにやってきた。
こいつ、惜しい事をしたな。もう少しで二階堂桐子の勇姿をお目にかかれたのに。
「体操服忘れちまってた……って、何だこの騒ぎ。あれ、二階堂?」
「あぁ、そうそう。それでどうも困ってて……あっ、ちょっと!」
俺が説明をする前に、女子の輪の中に向かっていった三郷太助。
「大丈夫かー?」
間違いない、困っている二階堂桐子を助けようとしている。凄いな、行動力の化身だよ。
「オイ一年、お前何だその格好! 入部希望かー!」
「ん、え……オレ?」
他の島から、快活な大声が聞こえてきた。振り向くと、バスケットボールを持った大柄な上級生が、ネットをくぐっていた。
「よし! ちょっと来てみろ!」
三郷太助の肩を抱く上級生。あれでは身動きが取れないだろう。死地を悟ったように、額から汗を流している。
「し、しまった! この格好、どっからどう見てもバスケ部にしか見えねぇ!」
タンクトップにリストバンド。上級生に連行されるその様子は、バスケ部の先輩と後輩にしか見えなかった。
「あんた、勝手に入ってこないでよ!」
卓球部の一人が、バスケ部の乱入者に突っかかっている。
「あぁ? いいだろ、ちょっとくらい」
「そんな事言って、この前もうちのピンポン玉、踏んで潰してたじゃん!」
「わざとじゃねぇって。それにあんな小さい玉っころ、床に落ちてるのがいけねぇ」
卓球部員とバスケ部員による、いがみ合いが勃発している。
「そっちのあんたも文句あんの!」
「いや……オレは全くの無関係……」
巻き込まれる三郷太助。段々とヒートアップする両陣営。これはチャンスかもしれない。
「に、二階堂さんっ。今の内に」
鬼の居ぬ間に救出。隙をついて、手薄になった包囲網に突撃。質問攻めから解放された二階堂桐子を助け出す。
「おおっ、ありがとう岡寺君。ごめんね、待たせちゃって。何だか断るのが申し訳なくって」
背を低くして体育館から抜け出そうとする俺を真似て、同じように移動する二階堂桐子。
「誰にでも優しいんだね。それに礼なら、俺じゃなくて、犠牲になってくれたあいつに言うべきだよ」
三郷太助はバスケ部に混じると、その服装故、部員顔負けの馴染みっぷりを発揮している。必ず戻って来いよ。
「それと俺、気になったことがあって」
「何かな?」
「二階堂さんは卓球部志望だよね。どうして先輩達と交流しようとせず、俺達と部活見学を?」
理解し難かった。卓球場で上級生達と仲良くしていれば、入部後の人間関係を、上手く構築できたはずだ。
しかし俺の質問に二階堂桐子は、愚問だと言わんばかりに答える。
「練習ならいつでも出来るけど、こうやって色んな部活を回るなんて特別なこと、今しかできないじゃんっ」
どうやら彼女は、根っからのお人好しらしい。
「そっか」
俺は受けるつもりなんて毛頭なかったけれど……。
「なら俺も、折角だし楽しんでみるとするよ……ほらっ」
派手なタンクトップがこちらへ走ってきた。これで三人、揃い踏みだ。
「あっ、三郷君! さっきは助かったよ、ありがとう」
「よく抜け出せたね」
「ああ、待たせてる女がいるって言ったら、通してくれたぜ」
にっ、と白い歯を覗かせながら親指を立てる三郷太助。随分大胆なセリフを吐いた。
「あははっ、何それー」
そして冗談として受け止めている二階堂桐子。厳しいな……恋愛対象にないから今みたいな反応が出るんだろう……。
「あはははは、は、はは……二階堂、岡寺……時間もないしさっさと回ろうぜ……」
脈なし男から乾いた笑いが漏れ出ている。あと数時間、果たして彼女のハートを射抜くことは可能なのだろうか。
三人は次の目的地へ向かう。恋のキューピット役とはいえ、部活動巡りに誘ってくれたことを、たった今ありがたく思えた。
面映ゆくって、口には出せないけれど。
「ふぅ、楽しかったぁ」
下校時間が近くなり、教室に戻ってきた俺達。満足そうに二階堂桐子が息を漏らした。
「じゃあ私、着替えてくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
体操服の彼女は更衣室へ。俺達も今の内に着替えてしまおう。
「いや行ってらっしゃいじゃねぇよ、全然二階堂との関係が進展しなかったじゃねぇかよぉ」
今日はパンツどころか醜態を見せてしまった一日だった。体育館を出た後も、他の部活を楽しく見学するだけで終わってしまった。
このままでは、俺が協力してやった意味がない。とりあえず励ましておこう。
「そ、そんな事ないって。テニスの時、嫌いじゃないって言ってたから」
「え、マジ?」
この言葉に偽りはない。彼女は三郷太助の溌剌な部分を見て、そう言ったのだろう。
「マジマジ。ベタ惚れかも知んないよ?」
「……なら行くしかねぇ……覗くなよ」
「え?」
教室の引き戸に手をかける三郷太助。どこか腹を決めたような表情で、勢いよくドアを引いていた。
「待ってくれ、二階堂!」
「わっ、何?」
「言いたいことがあるんだ……」
更衣室へ向かう途中の二階堂桐子が、教室を出た廊下の先に見えた。彼女は驚愕の声を上げながら振り返った。
まさか、入学一日目でいきなり告白するつもりなのか? 恐ろしい行動力だ。ベタ惚れとか適当なこと言うんじゃなかったな……。
覗くなと注意されているが、三郷太助は自分が思い切り開け放ったドアを、まったく気にしている気配がない。俺は上半身を廊下に少し乗り出した。
視界の先には緊張の為か、首筋に汗を流す三郷太助の後ろ姿と、きょとんとしている二階堂桐子。射し込む夕陽が、告白という二文字を酷く現実味のあるものにしている。
「えっと、まず……今日は、付き合ってくれてありがとう」
ここからその顔色は見えないが、少し上擦った声音から、彼の心境を窺い知れる。
「何でいきなり誘われたのか、分かんないと思うけどさ、一目見て確信したんだよ……」
「確信……何をかな?」
「君しか……いないって」
末恐ろしいなこの男。この一瞬でよくもこんな小恥ずかしいセリフが吐けるもんだ。
「今日付き合ってもらって、お互いの事、色々知れただろ……例えば、君の優しさや、素敵な笑顔……」
さっきからまともな言葉が一つも聞こえてこないのは、俺の気のせいだろうか。成功する未来が浮かばない。
「そしてオレという、男の事……もし君が、そんなオレに興味を持ってくれたのなら……」
どうするつもりだ。見切り発車でジャンプして、どうやって着地するつもりだ。このままでは、着地失敗で足も心もぐちゃぐちゃに挫くのがオチだ。
「パンツ、じゃなかった……えっと……オレと、付き合って、欲しい」
腰を折り、右手を差し出す三郷太助。邪念が丸出しになった結果、ジャンプ中に姿勢を崩し、大転倒まで秒読みだ。
数秒の静寂。彼女の浮かべた表情は……とても穏やかなものだった。
「そうなんだ……私と同じ、かな」
「えっ?」
はっとしたように顔を上げる三郷太助。かく言う俺も、彼女の言葉に自然と前のめりになる。
「私もね、今日三郷君に付き合ってみて、色々知れて、そして感じたんだ。こんな楽しい時間を一緒に……いや」
「あれ、こっち来てる?」
二階堂桐子は差し出された手を取るかと思いきや、小走りで俺の元へ向かってきた。完全に目が合っている。
「うわっ、ちょ!」
廊下に引っ張り出される。彼女が取ったのは、まさかのまさか、俺の手だった。
「お、岡寺っ?」
いや、嘘だろ。こんな簡単に女って落ちるのか? 目を丸くする三郷太助に、申し訳なさを覚える。
と、愉悦に浸るのも束の間。二階堂桐子は反対の手で、三郷太助の宙ぶらりんになった手を繋いだ。
「三人で過ごせたら、毎日楽しいなって! 私達、いい友達になれるよ!」
「どええええええっ⁉」
着地失敗どころか、離陸地点を間違えている。拙い言葉で紡がれた告白は、その愛すら、彼女には届いていなかった。
「勘違いしてるから二階堂! オレはそんなつもりじゃなくて……」
「一緒に帰ろっ、着替えてくるから待ってて」
状況が飲み込めない俺達の手を放し、ご機嫌に踵を返す。
「……そっか、成程な。オレなんて眼中にねぇってことだ……」
結果、恋仲になることが叶わなかった三郷太助。虚ろな瞳で、二階堂桐子の華奢な背中を見つめている。
「はははっ、そうネガティブになるなって。大丈夫さ」
俺は励ましの言葉と共に、彼の肩を強く叩く。
「彼女を笑顔に出来た。今日はいいんじゃないかな、クラスメイトから友達に昇格ってことで。いつかきっと、チャンスはあるよ」
「適当な事言うなって! そもそも何で告白が通じてねぇんだ、耐性でもあんのか!」
「それはあれだよ。付き合って、っていうフレーズが横行してたからだよ。分かりにくかったんだよ」
付き合ってくれてありがとう、から始まり、付き合って欲しい、で終わる告白。上手く伝わらなかったのかもしれない。
「でもよーっ……」
不承不承といった様子の三郷太助。とりあえず、二階堂桐子が戻ってくるまでに着替えを済ませる。
「そう言えばそれ、どこから持ってきたの?」
雑に鞄に詰められたタンクトップを指差す。
「いや、普通に近くの服屋で買ってきたぜ。すぐ買って、すぐ着替えて。大変だったなぁ」
しみじみと語っている。どうやら無駄な苦労に終わったらしいがな。
「馬鹿だな……」
「馬鹿って、ひどっ。お前、そういう事言わないタイプだと思ってたわ」
「確かにそうだったよ。でもいいじゃん、だってさ……」
「帰ろっ、お二人さん!」
目配せを送った先で、二階堂桐子が教室のドアを開けていた。
「たった今、俺達は友達になったんだ。だったら堅苦しい態度はなしにするさ」
無味乾燥な日常に生まれた、僅かな彩り。つまらない自分を変えられるのなら、頑張ってそれを広げてみようと、少し思えた。
「あーあ、分かったよ……じゃあ友達らしく、買い食いでもしながら帰ろうぜ」
「おっ、いいな、それ。ならお前には、残念賞ってことで好きなもん奢ってやるよ、三郷」
「えーっ、何それずるい。私にも奢ってよ」
「ははは。ごめん、二階堂さん……いや、二階堂。これは男だけの秘密ってやつなんだ。代わりに今度、こいつが何でも買ってくれるって」
「何勝手言ってんだ!」
「……なら許そうかな。駅前の和菓子屋のメニュー全制覇で」
「信じるなって! 散財どころか破産しちまうよオレ!」
駅で別れるまで、ずっとこんな調子だった三人。これが、三郷と二階堂との、出会いだった。