1-8
一〇一号室。ここには大家さんが住んでいるらしく、表札にも記載がある。
「そうなんだ。ここに友達が住んでて……でもずっと家から出てこないみたいなの……」
マミが先程の大家さんと話し合っている。少し演技を織り交ぜ、二階堂の友人という舞台設定らしい。
「そうだったの……確かに最近、あの子見てないわね」
「でしょ! だからっ」
「分かったわ。友達思いな子ね、あなた。今合鍵で開けてあげるわ」
「やった!」
あっさり解決しているではないか。さっきの馬鹿騒ぎ……いや、これまでの一連の流れ、必要あった?
「ご主人。今、さっきまでの時間の全てを、頭の中で否定しただろ」
「よく分かったな。お前も同じ気持ちか」
「違う、よく考えてみるんだ。大家さんがああもあっさり鍵を用意してくれたのは、その大らかさだけが理由ではない」
一方ハジメはあまりにお粗末な解決方法に、納得がいっていない様子。
「きっとあし達の努力を、陰で応援していたんだ。奮闘する若者の姿。しかし全ては空回りに終わった。だからあしは思うんだ……」
ハジメの頬を、一粒のきらめきが伝っていた。
「さっきまでの時間、何だったんだろうな……」
結局ハジメも落ち込んでいた。気が強いように見えて、意外と小心者なのかもしれない。
「皆ーっ、こっちに集合ー!」
対照的に、打開策を見つけて嬉しそうなマミ。一〇三号室の扉の前で手招きをしている。
全員が扉の前に集まると同時に、合鍵を鍵穴に押し込み、開かずの扉を開く大家さん。
「はい、じゃあ後は頼んだわよ、マミちゃん」
「うん! ありがとう大家さん!」
笑顔で挨拶を交わすマミと大家さん。今笑ってるの、あんたら二人だけだよ。
立て付けが悪いのか、キィ、と鈍い音を鳴らす扉。狭い土間に五人の靴を並べ、いよいよ上がり込む。
「私用の靴はちゃんとあるけど……ローファーだけ、脱ぎ捨てられてる……」
三郷はそう言って、何故か乱雑に脱ぎ捨てられていた革靴を、綺麗に揃える。
「おい、靴の匂い嗅いだだろ君」
「嗅いでねぇよ! さっきから何でオレには当たり強いの!」
ハジメに突っかかれていた。どさくさに紛れて、変態まがいの行為に走っていたらしい。
「何でだろうな……舐めてかかっても良さそうな雰囲気があると言うか……」
「酷……初めて言われたんだけど……」
三郷は明るめな性格で、コミュニケーション能力も比較的高めだからな。何言ってもいいと思われたのかもしれない。
「それだけ話しかけやすいということですよ。ハジメさんはご覧の通り捻くれ者なので、大目に見てあげて下さい」
「あ、ありがとう?」
すかさずフォローに回るツバサ。しかしハジメに対しては、遠慮なく捻くれ者と称している。
玄関に上がったが、今のところ異変は感じない。普通のアパートの一室。奥で二階堂が待ち構えていても、何ら不思議はなさそうだ。
ここで立ち往生していても仕方がない。俺は次の部屋へ繋がるドアに手をかけた。
「待て、何か……生活音? するかも」
俺の言葉に、全員が口を噤む。すると生活音、と言うより作業音と呼称するべき音が聞こえてきた。
「確かに聞こえる……つまりこの部屋に、二階堂がいる……」
確信したように呟く三郷。そしてその答えは、目と鼻の先。
俺は唾をゴクリと飲み込むと、恐る恐るドアを開く。
「な……そんな……」
脳が目の前の現実を拒絶する。前提が覆り、自分の中の固定概念が破壊される感覚。
「ど、どうしたんですか、見せて下さい」
「ご主人君だけずるいー、マミ達にもー!」
「ああっ! 押すな押すな!」
俺の身体の隙間から顔をひょっこり覗かせる四人。それはつまり、この光景を目撃することと同義。
「いやー、そこでその技はないかな……エアプじゃん。こっちが読み間違いしたみたいになってるし……」
モニターの光に照らされた薄暗い部屋。段ボールの山。四散するゴミ。寝そべりながら愚痴を垂れる女。
「…………」
ツバサとマミが、ハジメに視線を送っていた。
「何だ、あしみたいだって言いたいのか」
不服を顔に表すハジメ。そう言えば、初めて家の中で会った時と境遇が似ている。
「う、嘘だろ……あの二階堂が……あの真面目で文武両道な二階堂が……」
紺色の前髪を、ヘアバンドを使って額の上で止めている。毛先のカールが特徴的だったセミロングも、すっかりぼさぼさ。
この有様は、昨日今日で完成したものとは思えない。
普段の二階堂を知る俺と三郷だけが驚いていた。
……いや、違う。三姉妹も確かに驚いていた。しかし彼女達は、同時に緊迫した空気を孕んでいる。
「そうか……ツバサ、マミ、分かるな」
「うん」
「はい……二階堂さんは……アモンに、取り憑かれています」
彼女達には、見えてしまったのだ。二階堂が引きこもりになってしまった原因を。
「っ……そうか」
スーパーでの一件同様、俺にそのアモンとやらは視認できない。
しかし悪魔祓いを行い、アモンから彼女を解放してやらない限りは、引きこもりが治る可能性は低い。
俺達の為すべきこと。それは、二階堂の悩み、欲望を正確に看破し、それを解消させることにあった。にわかには信じがたいが。
「お、おい! 二階堂!」
寝そべる二階堂に近づき、耳元で名前を呼びかける三郷。
「今話しかけないで……ここは交代を選択して……あれ、三郷? 岡寺も。その可愛い子達、誰かな?」
「オレよりゲーム優先したよこいつ! まずここにオレ達がいることを驚けよ!」
二階堂は対戦ゲームでコマンドを選択した後に、こちらに振り返った。三郷の声は聞こえていたはずだ。
「いやー、分かるわ今の。集中してる時に話しかけられたら、あしだってムカつく」
「もうそれ病気だろ……」
二階堂の行動に、ハジメだけが納得を示していた。
「酷いなご主人。これは結構あるあるだぞ? 例えばそうだな……カラオケで気持ちよく熱唱してるとするだろ?」
「お、おう……カラオケ?」
「歌も終盤。高得点が期待できそうなタイミングで、無遠慮にバイトが食べ物を持って入ってきたら……どうだい、構わず歌うだろ」
「ま、まぁ恥ずかしいけど歌っちゃうかもな……内心イラっとしながら」
「要するに、その現象と一緒なんだよね」
「一緒じゃないだろ! お前らはただのゲーム中毒者!」
俺達はどうやら分かり合えない関係らしい。二階堂攻略の先が思いやられる。
「なぁ二階堂、どうしたんだよっ。何でオレ達に黙って学校休んでるんだよ」
「……今対戦中。黙っててくれるかな?」
本気で心配している様子の三郷に、冷たくあしらう二階堂。
「まるっきり変わってる……オレ達の知ってる二階堂じゃない……」
普段は物腰も柔らかく、それでいて頼りがいのある人物だった。
確かにこれがアモンの仕業だとするのであれば、豹変っぷりにも説明がつく。
額に手を置いて俯く三郷。そんな彼の肩を、マミが背伸びをしながらポンと叩いた。
「ねぇ、まずは作戦を立てようよ。折角マミ達がいるんだからさ、皆で協力してみようよ」
「そ、そうだな……すまん、ありがとう」
まずは冷静になる必要があるようだ。現状を把握、打破した上で、二階堂とまともに話が出来る状況を作り出さねば。
「とりあえずこの部屋、片付けませんか? 私、何だかむず痒くって」
空のまま机に放置された、スナック菓子やペットボトルの山々を見て、落ち着かない様子のツバサ。
それ以外にも、カップ麺の容器や、紙くず、くしゃくしゃのレジ袋なんかが、あちこちに散らばっている。
「決まりだな。おい二階堂、今からこの部屋、勝手に片付けるからな」
「それより岡寺、あんた何でここにいるの?」
「今更すぎるだろ……」
「その女の子ら友達? 勝手に大所帯で上がり込んで、勝手に掃除したいって、何か企んでるのかな?」
ゲーム画面から視線を外さず、声音だけに不満を乗せる二階堂。
「そんな言い方やめてくれよ。皆お前の事心配してるんだ……勝手にお邪魔したのは悪かった、でもそれくらい本気だってことだ。勿論、俺以外の友人だって会いたがってる」
「会いたがってる、ね……まぁいいよ。好きにすればいいんじゃないかな?」
俺の心配をあざ笑うかのように返す二階堂だったが、同時に清掃の許可が下りた。
「よし、許しも出たしおっぱじめるか。幸いメイドが三人もいるんだ。手際よく終わらせよう」
「未開封の段ボールはそのままにしといてねー」
ゲームを中断する気のない二階堂の傍で、気合を入れた。早速俺達は、掃除用具の準備に取りかかる。
ホームセンターで買い物を済ませること三十分。
「用意はいいか清掃部隊! 三郷、三姉妹っ、それぞれ確認に移れ!」
「軍手よし!」
「掃除機よし!」
「雑巾よし!」
「コントローラーよし!」
「ストップストップ! 今異物あったぞ!」
清掃活動において、何ら役立たないものが混ざっていた気がする。俺は全員の持ち物を目視で点検してみる。
順番に、三郷、ツバサ、マミ……。
「おい、それ何だ」
一人だけゲーミングスタイルの長女。俺が指摘すると、小動物並みの俊敏さで二階堂の元まで移動した。
「ご主人達は部屋の掃除で、外側から彼女を篭絡してくれ。あしはバーチャルの世界から、彼女を篭絡する」
「ただサボりたいだけだろ!」
「違うもん。独りぼっちにさせない為だもん。皆掃除してる中、一人だけゲームしてる重圧に一緒に耐えてあげる為だもん」
駄々をこね始めたハジメ。ゴミを掻き分けて出来た僅かなスペースであぐらをかき、床に根を張ってしまった。
「ご主人様、きっとハジメさんには何か考えがあるんですよ。今は私達だけで頑張りましょう」
「絶対何も考えてないだろ……」
あくまでもハジメを信頼しているらしい。そのツバサに免じて、四人だけでゴミ屋敷の清掃を開始する。
しかしゴミ屋敷と言っても、それこそ業者を呼ばなければならないレベルのものではなく、ゴミ屋敷予備軍といった程度。
まずは散らかった有象無象の分別。巨大なゴミ袋に、ペットボトル、缶、可燃ゴミを次々に詰めていく。
袋の口を縛って、一旦玄関へ。それをひたすら繰り返す。四人態勢なので、そう時間はかからなそうだ。
「あれ、写真だ」
ゴミの中に埋もれた一枚の写真。掘り出してみると、ユニフォーム姿の女子達が仲良さそうに写っている。
二階堂は卓球部だった。他にも知った顔がいるので、これは高校一年生の頃に、部活の友人と撮ったものだろう。
「大事なもんまで捨てるとこだった……」
その写真を一時的に、綺麗になった机の上に避難させ、掃除を再開。
「お、おい、叶央っ、コレ見ろ」
何かを背中で隠している三郷に小声で呼ばれる。気を使って俺もそっと近づくと、手に持っているものをこっそり見せてくる。
「お前っ、これまさか……!」
手の中に収めると丸く縮こまってしまうが、端と端に指を引っかけて、ゴムを伸ばしてみると、はっきり分かる。
「パンツっ、あいつのパンツじゃねーか、何拾ってんだお前っ。勇者でも気ぃ使って拾わねーぞ、そんなもん」
黄緑色の逆三角形が、ゴミ山の中にあって一際輝いていた。拾ってしまったからには、俺達でひっそり処理するべきだ。
「ど、どうする叶央? とりあえずお互い頭に被っとくか。お約束だろ」
「お前の特殊性癖に俺を巻き込むな。やるなら一人でやれ、そしてここにいる全員に嫌われろ」
そう言えば、全裸より下着姿のほうが好きだとか、気色悪いことをコイツはよく言っていた。
それはつまり、パンツが大好きということと同義になる。
「寂しいこと言うなよ……皆で被れば怖くない、って昔からあるじゃんっ」
「それ赤信号渡る時っ。それに、パンツ一つしかないから皆で被れないしよ」
女とは言え友人のパンツだぞ。二階堂のことどんな目で見てるんだ?
「強情だな叶央……お前はどうしたいんだよ、本能をさらけ出してみろよ」
「まず使うという発想から離れてみないか?」
こいつの手にパンツが渡っている現状は、非常に危険な気がする。
「パンツ、俺に渡せ。こっそり洗濯機に入れてくる……あれ?」
俺は三郷からパンツを奪取しようとした。しかし、それは出来なかった。
「おい、右手と左手、どっちにパンツ入ってると思う?」
「わ、分からねぇ……!」
「だろぉ?」
何故なら三郷は右手か左手、どちらかの手の中にパンツを収め、その布地の一切に至るまでを、完璧に隠していたからだ。
「うーん……右!」
「残念こっちだ!」
三郷の開かれた左手には、くしゃくしゃに丸められたパンツ。ここまで縮こまるものとはな。
「次俺! 俺にやらせてくれ!」
俺は黄緑のくしゃくしゃをひったくると、後ろ手で握り直し、三郷の前に両の握り拳を差し出した。
「よーし完璧、さぁどっちに持ってるでしょ……ぶべらァッ!」
視覚外から突如飛んできた、自分の顔を覆い隠すほどの巨大な物体。
それが俺の頬にクリーンヒットしたかと思えば、いつしか身体が部屋の隅に吹き飛んでいた。
「何やってるんですかご主人様ぁ? 初めて会った時にも私の下着で遊ぼうとしてましたよねぇ。倫理観のお勉強が必要なのでしょうかぁ?」
「こんなの勉強じゃない、理不尽なしつけだ!」
可燃ゴミのパンパンに詰まった袋を持ったツバサが、倒れ込んだ俺をさげすむように見下していた。
成程、あれを野球のバットの容量で思い切りスイングすると、人が吹っ飛ぶ訳だ。
騒ぎに気付いてか、ゲームに夢中だった二階堂がこちらの様子を見ていた。パンツではしゃいでいたのがバレてなければいいけど。
「ん? ああそのパンツ、お母さんが忘れていったやつ」
「お母さんのかいっ!」
紛らわしい。どんだけ可愛らしい下着履いてんだ、二階堂ママ。
「馬鹿やってないでどいて下さい、掃除機をかけますので。ついでにそれも渡して下さい」
そう言いながら、パンツを分捕ったツバサ。そのまま洗面所の方へ向かっていったので、後で溜まっていた衣服と合わせて洗濯するつもりなのだろう。
取り切れない微細なゴミやホコリを掃除機で除去。それでも取り切れなかった部分や、汚れが目立つ部分は、雑巾で拭き取る。
外から漏れる夕暮れの光を浴びると、疲労感と達成感を同時に感じた。
「ふぅー……綺麗になった」
ゴミが散りばめられていた床は、雑巾がけまで行うことで、すっかりピカピカになり、まるで新築のアパートのよう。
「後残ってるのは……」
掃除開始から微動だにしなかった二人を見やる。
「やるね、ハジメさん。三十戦十六敗。本気でやったけど、私の負けかな」
「お互い様だよ。それにあしが本気を出すのは、あしが実力を認めた相手だけさ、二階堂」
「ハジメさん……次はパーティ変えてやろうよ!」
二人の間に奇妙な信頼関係が芽生えていた。ハジメさん呼びとは偉く慕われているらしい。
「話し合いの場をようやく設けられたと思ったが、より深くゲーム沼にはまってるぞ、こいつら……」
この様子だと、せっかく綺麗にした部屋を、またゴミまみれにされること請け合いだ。
「もうこれは、次の手を考えるしかないよ、何としても二階堂さんの興味を引くんだ!」
俺の心配を察知してか、マミが残る三人に提案した。
「やっぱりね、共通の趣味を持ってる人だったら、話しやすいと思うんだ。でもハジメちゃんはさっきから、ゲームの内容の話しかしてないみたいだし……」
成程。相手の土俵に立ってやることで、攻撃を受け止めつつ、こちらの有利な状況を作り出すべしと。
「オレが行く。オレは絶対に二階堂を救い出さねばならんからな」
「三郷……お前そこまで……」
三郷の瞳が決意でみなぎっていた。でもこいつ、ゲームなんてするのか?
確固たる足取りで、ゲーム中の二人に混ざっていく。その背中は、少し緊張しているようにも見えた。
「あし、このゲーム好きだなぁ。対戦中の演出とか派手で燃えるんだよね」
「分かる分かる、派手でいいよね、でもオレ腱鞘炎なったからやめたわコレ」
「私、実は前作のほうが好きなんだよね。UIが良くて遊びやすかった」
「分かる分かる、ユーアイでいいよね、でもオレ腱鞘炎なったからやめたわコレ」
「おい駄目だあいつ、ゲームの引き出しが腱鞘炎しかないぞ」
幼稚園児でももっと上手く喋れるんじゃないか? 見ていて痛々しい。
「戻ってこい三郷! 作戦失敗だ!」
俺の号令で敗走する三郷。この中でゲームに詳しいやつなんて、一人もいない。最初から無謀だった。
「ま、まぁこの作戦はハジメちゃんに任せるとしよっか……そうだなぁ、もっと別の、二階堂さんが心動かされる何か……」
「マミさん、私閃きました」
確信に迫ったような顔つきのツバサ。見つめる先は……キッチン。
「人心掌握の術……それは、相手の胃袋を掴むことにあります!」
するとツバサは、キャリーケースの中から、スーパーのレジ袋を取り出した。
それを見て、ぱぁっと顔色が明るくなるマミ。
「マミも作るっ、ご主人君とさんたすも一緒に作ろっ!」
身体を動かした影響か、腹は空いていた。しかし明らかにビニール袋の中は、少量の物しか入っていない。
ぞろぞろとキッチンに集うハジメ、二階堂以外の四人。流石に身動きが取りずらい。
「何か、家庭科の授業思い出さない? 叶央」
「あぁ。ちょうど俺とお前、二階堂の班だったからな。思い出すよ……目玉焼きに塩と間違えて砂糖ぶっかけてたよな、お前」
こんなベタな間違いするやつ本当にいるんだなって、二人で大笑いしてやった記憶。味は笑えなかったけど。
「それで? アホの子の三郷にも作れそうな料理なのか?」
「きっと大丈夫です。だってこれ、炒めるだけですよ?」
そう告げると、ツバサが先程のレジ袋を裏返しにして、机の上で中身を露わにした。
「じゃーん、マミ達の好きな焼きそば! 本当は、バーベキューのシメに作ろうとしたんだけどねーっ」
昨日スーパーに寄った際に、買っておいた焼きそば。ソースも付属しているので、確かに不味くなる心配はなさそうだ。
「私達、昔から誰かのお祝い事の時には、その人の好きな物を入れた焼きそばを振舞っていたんです」
「ツバサちゃんは何でも食べるから置いといて、ハジメちゃんにお肉たっぷりの焼きそばを作ったり、マミにも辛い焼きそば作ってくれたことあるんだよ。身体に毒だからって、辛さは控えめだったけどね」
思い出を語りながら、徐々にマミの口元が緩んでいる。
「そうか……それなら安心だ。お前らのお陰で二階堂、喜んでくれそうだよ」
「うん!」
彼女達が事務的にアモン退治を行っているのではなく、本気で二階堂のことを思ってくれていることが分かって、俺は嬉しかった。
「よし、それじゃあ取りかかりましょう!」
四人による調理実習がスタート。
やる事は簡単だった。冷蔵庫にあった野菜を洗う、切る、麺を炒める、野菜を投下する。
簡単な工程を踏み、料理は完成に近づく。
「さっき残した焼肉も入れて……後一手間で完成です」
この焼きそばを愛情のこもった一品に仕立て上げるには、最後の隠し味が足りていなかった。
「二階堂さんの好きなもの、入れてあげよっ。そうじゃなきゃ完成じゃないよねっ」
「そうだな。俺、聞いてくるわ」
「待て、必要ねぇよ」
俺はゲーム中の二階堂達の元へ戻ろうとした。しかし、三郷の一言が俺を制した。
「ハハ……少し見ない間にあんなに変わるような奴だけど、味覚だけは、そう簡単に変わらないらしいな」
チャック付きの袋に入った、きな粉。
微笑を湛えた三郷が、キッチンの棚からそれを見つけ出していた。
「お前、よく知ってたな……」
「……た、たまたまだよ」
ばつが悪そうに頭を掻く三郷。そのまま、完成間近の焼きそばが炒めてあるフライパンを覗き込んだ。
「これであいつが心を開いてくれるかなんて分からない。でも今はこれしか方法がねぇ。そう思ったら、こいつが見えただけさ」
すると大量のきな粉を、焼きそばめがけて振りかけた。
「混ぜ合わせて……よし、これで完成だな」
…………。
「んっ、えっ、何? 何で全員黙ってんの? 何でオレを睨んでるの?」
俺、ツバサ、マミは互いに顔を見合わせる。俺達の思いは、一つだった。
「馬鹿なんですかああああっ⁉」
三人声を揃えて、かしこまりながらの大驚愕。
「げほっ、ごほっ、最悪だぁ、空気中に甘ったるい匂いが充満してやがるっ」
「しかももう混ぜ合わせちゃいましたよ、修復不可能ですっ、けほっ、けほっ」
「いや、あそこは好きなもん入れる流れだったじゃん! あんたらが誘導したんじゃん、ごほっ、ごほっ!」
その場にいる全員が、暴力的なきな粉臭にむせ返り、阿鼻叫喚の様相を呈する調理場。
「けほっ、ぐすっ……甘さを緩和するにはこれしかないっ! どりゃーっ!」
フライパンに忍び寄る小さな影。マミが大量の七味唐辛子を、焼きそばめがけて振りかけた。
「ぎゃあああっ! 何してくれてんだ! 早くどけろ、手遅れになる前に!」
マミから唐辛子の瓶を取り上げる。今の一瞬で内容量の四分の一は消費された。
「混ぜ合わせてっと……」
「だから何で混ぜ合わせるの⁉」
甘味と辛味のカップリングにより織り成された、かつて焼きそばだった何か。
匂いはさらに強烈さを極め、隣の部屋にいたハジメまでもを呼び起こした。
「どうした皆、さっきから騒がし……ゲホッ、ゲホッ、凄い空気が漂ってるな、この部屋……」
「ハ、ハジメさんっ、どうしましょう。二階堂さんの為に焼きそばを、と考えたのですが、手順を間違えてしまって」
「いや、手順の前に作り方間違えてるよね。この匂い、焼きそばのやの字も含まれてないぞ」
ハジメは鼻を摘まみながら、シンクにどかしたきな粉と七味唐辛子を確認して、頷いた。
「成程。大丈夫、案ずるな。甘味と辛味ぐらいだったらあれで打ち消せるだろう。冷蔵庫に……よしあった」
自信満々に冷蔵庫から調味料を取り出すハジメ。誰の許可も得ずに、その中身を大量に焼きそばにぶちまける。
「は、ハジメさん、この強烈なスパイスの香りは……」
「カレー粉だよ。皆知ってるか? 食糧難に陥った戦場の兵士達は、野生のヘビやトカゲに、カレー粉をまぶして食べるんだ」
確かにカレー粉の味は強烈だ。入れてしまえば、どんな料理も問答無用でカレー味になってしまうからな。
「よし、完成だ」
「うおーっ、かっこいい、ハジメちゃん!」
「言うなマミ、それ以上言うことなどないさ。これぐらい姉なら当然。皿を用意してくヴェッホッ! ゴホッ、ゴホッ! ゲホッ、グッホッ! やば、匂いキツ……」
「おい何だその咳! カレー粉全然万能じゃないじゃん! てか微塵も匂い収まってないし!」
よくよく嗅いでみると、先程以上の刺激臭が鼻腔を破壊してくる。
「くそ、一旦カレー粉落とせ! さっきの方がまだマシだ!」
「当然もう混ぜ込んでるよね、ご主人」
「もう混ぜないという選択肢はないのね!」
焼きそばメーカー各位、原材料名の近くに混ぜるな危険って大きく書いておいてくれ。
「おいどうすんだ、誰も食えないぞこんなもん。一旦捨てて、新しく作り直すか?」
「……フードロス反対」
「それはもういいって! そこまで言うならお前が食え!」
ツバサの頑として譲らない部分。しかしこれは食べ物と呼称してもいいのか?
「もういいだろ、あし達昔、焼きそばにアイスクリーム入れたけど食えたよな、マミ?」
「うん、そうだよ! アイスが大丈夫だったんだから、これもきっと大丈夫だよ! 喜んでくれるよ!」
「喜ぶどころか嫌がらせだろ!」
しかし俺の抵抗も無駄に終わる。マミが皿に焼きそばを移すと、それをハジメが二階堂のいる部屋に持っていった。
「おーい二階堂っ、さっき小腹が減ったって言ってただろう? ご飯用意したぞ。因みにあしの妹達が誠心誠意作った料理だから、絶対食べてくれるよねぇ?」
あれは……圧力。年上であることを理由に、有無を言わさずゲテモノ処理をさせるつもりだ。
「異臭がする……まぁいいや、頂きます」
「おい待て二階堂、早まるな! 食べるな危険!」
手を合わせる二階堂に訴えかける。だが時すでに遅し。既に麺が、口の中にずるずると吸い込まれていった。
「あ、あの……どうだ? 美味しいか?」
全員で部屋に戻り、二階堂を見守る。俺の質問に答えることもせず、麺を二口、三口と啜る。
「……美味しくない」
「だよな……ごめん、二階堂、オレのせいだ……」
ぼそりと呟く二階堂に、首を垂れる三郷。今度はきな粉で別の料理を作った方がよさそうだ。
「でも……何だろう、温かい」
「えっ」
思わぬ返答に三郷の頭が上がる。それからも、顔をしかめながら焼きそばを食べ進めていく。
「ほ、ほらみたことか。あしの作戦通りだ」
「お前カレー粉入れただけだろっ」
「ご主人こそ何もしてないくせに」
「俺は野菜とか切りましたぁー」
想定外の事態に同様を隠せない俺達。何が彼女の心を揺り動かしたのだろう。
焼きそばが半分近く減った辺りで、二階堂は箸を置いた。
「ふふ……きな粉入ってる。よく私の好きな物、知ってたね?」
穏やかに微笑むその姿は、先程の彼女からは想像もつかない。
「中一の頃、自己紹介で言ってたろ」
「そうだっけ? 記憶力いいね、三郷」
二階堂とは確かに、中学一年生の頃からの付き合いだ。そんな昔の出来事を覚えているとはな……いや。
「くくっ、お前に言われて俺も今、丁度思い出したよ、自己紹介。ついでにその頃の記憶もな」
四年前の出来事がなければ、俺達はただのクラスメイトの関係で終わっていただろう。