1-7
ガタン、ゴトン……ガタン、ゴトン……。
私服姿で隣り合って、肩を重ね合うメイド三姉妹を、吊り革を掴みながら見下ろす。
「この次の駅で降りるからな」
座席に座る三人が仲良く首肯する。何だか引率の教師になった気分だ。
電車が停車し、乗客がまばらに入ってくる。
「あれ、叶央」
俺の名前を呼ぶ声。振り向くと、友人の三郷太助が乗車していた。
「よう、奇遇だな……もしかして、お前も二階堂に?」
そう言えば先日、突撃するしかないとか言ってたっけ。
「当たり前だろ? 心配で仕方ねぇよ……あれ、ってことは叶央も?」
「まぁな」
「へぇ、意外だな。お前って、自分から行動しないタイプだと思ってたわ」
それは心外だ。確かにハジメ達に言われなければ、来てなかったかもしれないけれど。
そんな原動力ともなった彼女達を見やると、揃って首を傾げていた。
「いいだろたまには。ほら、着いたぞ」
彼女が住むアパートまでの最寄り駅に到着した。俺達に追従する形で、座っていた三姉妹と降車する。
「よし、それじゃあ行こうぜ」
「え、いや、ちょっと待ってくれ叶央」
「ん? 何だよ」
「えっと、この人達……誰?」
俺の後ろで横並びになっている三人を、三郷が不審がっている。
「あ、そっか……」
さて、どう説明したものか。
俺達同棲してます、とか言った日には、間違いなく警察署に連行されるぞ。
いや、やらしい行為とか一切してないんだけど、変態の汚名を着せられること請け合いだからな。困ったものだ。
助けを求めるべく、彼女達に一瞥を送る。するとハジメが一歩前に出てきた。
「お、おい、下手な事言うなよ?」
基本ポーカーフェイスのハジメ。頼りがいがあるように見えるが、その実、何を考えているか全く分からない。
「あし達は……ウーバー〇ーツの配達員です」
「絶対違う! 怪しい!」
ハジメの素性を疑う三郷。もっとマシな言い訳は出来なかったのか。
「ワッツ? 失敬だね君。今時の配達員なんて皆こんなもんだよ。超カジュアルだよ?」
両隣にいるツバサとマミと肩を組むハジメ。気軽さのアピールらしい。
身長差を考えて、さり気なく膝を曲げているツバサ。気遣い上手だな。
「カジュアルすぎるだろ! 間違いなく配達用の私服じゃないぞ!」
三郷の言い分が最もすぎて、弁解不可能な気がしてきた。
ハジメは可愛らしいペンギンの絵が散りばめられた、ポンチョのような黒のトップス。
これまた黒いレースのスカートを履いて、ブラウンのニット帽をかぶっている。
右隣で早く肩をどかしてほしそうにしているツバサ。白いカットソーの上に、アイボリーのカーディガンを羽織っている。
下はスキニージーンズで、スタイルの良さがファッションに表れている。
ポニーテールを普段は無地のゴムで纏めているようだが、今はサーモンピンクのシュシュを使っている。
彼女は初めて会った時にも見た、黒いキャリーケースを持参しており、恐らくこれに二階堂の為に用意した道具とやらが入っているのだろう。
最後に何も分かってない様子のマミだが、ネイビーのパーカーに白のショートパンツ。黒のつば付きのキャップと、普段持っている本人の可愛らしいイメージとのギャップがある装い。
しかし見てくれ以上に問題がある。
「それより電車で移動する配達員なんて、この世に存在するのか? 料理を入れるリュックもないしよぉ」
「よっと……君に言っておく。あし達がデリバリーするのは料理ではない……二階堂さんへの想いだ」
「っ!」
妹達を解放したハジメが、三郷に近づきながら語りかける。
一方の三郷は、胸を射抜かれたような仕草をしている。
「無駄話をしている暇はなくてね……行くぞ野郎共、時間が惜しい」
「いやお前、道知らねーだろ」
格好つけているところ悪いが、この後どこに行くつもりだ?
「おい叶央、こいつら大丈夫なのか?」
三姉妹をまとめて指さす三郷。
「わ、見てよハジメちゃん、ツバサちゃん。あそこ、桜が一杯咲いてるっ、綺麗!」
「確かに綺麗ですが……遊びに来たのではないんですよ、マミさん?」
「ツバサ、そういう君も目を奪われているではないか。仕方ない、今から花見に切り替えよう」
あの方向は、桜公園か。二階堂の家のから少し歩いた先にあり、地元民しか知らない人気スポットらしい。
「ま、まぁその……業者みたいな人達だから。お前は心配すんな」
「心配しかないぞ……業者って言っても、見たところ同年代じゃねぇか」
「いいだろ、この際二階堂を救えれば。ああ見えても、頼れる連中なんだよ。何が不満なんだ?」
「今まであんな可愛い知り合いがいたことを黙っていた、お前に不満があるわ」
と、憎まれ口を叩きつつも、彼女達の同行を許可してくれている三郷。
本当に悪魔の仕業だったら、こいつじゃ太刀打ちできないからな。
俺達は三姉妹に追いつくと、先導して二階堂の住居へ向かった。
「着いたぞ、ここの一〇三号室だ」
俺の合図と同時に、アパートの外観を見上げる三姉妹。
一階三部屋、二階三部屋。駐車場が思いの外広く、軽い球技くらいなら、この人数でも遊べそうだ。幸い車も今はない。
そんな彼女達を差し置いて、三郷が二階堂の住む部屋のインターホンを押している。
「……やっぱり出ないな」
首を横に振る三郷。
「外出してるんじゃないか?」
「どうだろうな。ホラあれ、あいつの自転車」
そう言って、どこにでもありそうなママチャリを指差した。よく知ってるなそんなこと。
「ってことは、やっぱり引きこもってる可能性が高いよな……」
まず対談できないことには、悪魔祓いを行えない。
「お任せ下さいご主人様! まず私が引きこもりのご友人を、外に連れ出して見せます」
ツバサが自信ありげに胸を叩く。彼女達による作戦が今、スタートする。
「おい、何だご主人様って」
「あ……そういう、契約、と言うか……主従関係? みたいな?」
三郷の疑いの眼差しが、俺に向く。
「……あーもう! そういう性癖なんだよ、今まで黙ってきたけど! ご主人様って呼ばれたい男なの、俺は!」
嘘を貫き通すには、嘘を吐き続けなければいけないらしい。
「急に怖いんだけど……何お前、あの子達にそんなこと強要してんの?」
疑いの眼差しが、軽蔑のものに変わっている。
「好きに言えよ。でも現に俺、ご主人様って呼んでもらってるから。お前が何言っても、ただの負け惜しみにしか聞こえないから」
「じゃあ好きに言うけど……あの身長高い子、何やってんの?」
ジュー……ジュー……
何だこの、小気味いい音。何かを焼く音か? それに匂いが……香ばしい匂いだ、まるでバーベキュー……。
「……って、何やってんだお前!」
驚くべき光景が眼前に広がっている。
メイド達が、いつの間にか用意してたバーベキューコンロを囲み、肉を焼いていた。
ツバサが肉をひっくり返す様子を見て、ハジメとマミが紙皿を持ったまま目を輝かせている。
「あっ、ごめんなさいご主人様。本当はガスではなく、炭を使いたかったのですが……」
「凄くどうでもいい! 俺はそんなことに驚いてるんじゃない!」
「で、では一体……」
「何だそのセット! 何だその肉! 一体どこから持ってきた!」
「お爺様の物置にコンロとガス缶が。肉は冷蔵庫にあったものになりますね」
淡々と答えるツバサ。何で平然とした顔してるんだこいつ?
しかしツバサは確かに今日、キャリーケースを用意していた。そこに隠していたんだ。初めから肉を焼く予定だったとは……。
「ん? おい妹よ。もしかしてこれ、あしが隠してた肉か? ご主人に気づかれずに買わせた焼肉用のやつ」
「いや、ご主人初耳なんだけど?」
「何を言っている。気取られずに買わせたのだから当然だろう」
昨日のスーパーでの買い出しの時か……爺ちゃんの金だからって、あまり会計を気にしていなかった……。
「冷蔵庫に放置していることを隠すとは言いません。いいじゃないですか、外で食べたほうがきっと美味しいですよ」
ツバサ始動で、勝手にバーベキューを始める流れになっている。
「おい、まだ話終わってねーぞ? そもそも他人の私有地で、こんな真似していいと本気で思ってるのか?」
幸い駐車場が広いので、住民の邪魔にはならなそうだが、見つかった瞬間に住居侵入罪でパクられそうだ。
「大丈夫ですよ。さっき、部屋から出てきたおばさまに許可を取りました。恐らく、大家さんですね」
「どんな大家……?」
おおらかすぎると思う。俺達、ここの住人でも何でもないですよ?
「困りましたねご主人様。まだ何かご不満なのですか?」
「ご不満だよ! そもそもこれが、どう二階堂を引きこもりから復帰させることに繋がるんだって話だよ!」
「ええっ⁉ 食べ物のいい匂いがしたら、普通飛び出してきますよね?」
「ちょっとその前提を考え直そうか?」
何という食への執着。二階堂がどれだけわんぱくでも、ありえないことだろう。
しかし困ったな。ツバサがこの調子では、他の二人も期待できそうにない。
早急に何らかの手段を講じねば。いい案はあるだろうか……
眉間に手を当てて必死で考えてみる……クソ! 肉の匂いが充満して集中できない!
「おい叶央! お前も早く食べないと、なくなっちまうぜ!」
「何でお前まで楽しんでんだよ!」
すっかり四人でバーベキューパーティーを楽しんでいる。お気楽すぎないかこいつら?
「はいご主人君っ」
呆然とする俺に、マミが割り箸と辛口のタレが入った紙皿を差し出した。
「そんなとこいないで、一緒に食べよ?」
「て、天使……」
疎外感の中で、唐突に優しさに包まれた感覚。そうか、俺は考えすぎだったんだ。
「仕方ない……食うか」
「うん! ご主人君も一緒の方がきっと美味しいよ!」
もしかしたら匂いに釣られて、二階堂が現れるかもしれない。
「おい! それは当主たる俺の金で買った肉だ! ちゃんと残しとけよっ!」
俺を待ち受けるのはこんがりと焼けた肉、そしてこの時間を楽しむための仲間。
バーベキューにおいて、焼き加減を細かく気にするのはナンセンス。俺は直箸でタンを掴もうとした。
「あのー」
道路側から、声。振り向くと、買い物袋を持った中老の女性がにこやかな笑みを湛えていた。
「こんにちは! 何かご用でしょうか!」
俺も爽やかな笑顔を返す。
「いやご用も何も……おたくら、誰?」
「え?」
もやもやした感情の中、俺達はバーベキューの片付けを終える。
焼いた肉の余りはタッパーに入れ、それをさらに保冷バッグへ入れる。用意のいいことだ。
コンロの片付けも終了。そこには来た時と何ら変わりない駐車場が広がっていた。
「畜生……一枚も肉、食べれなかった……」
「大丈夫です。確かにタンとカルビは結構味が落ちますが、ハラミはまだ未開封です。脂っこいものから先に攻めておいて良かった」
「そうだな。焼き残った肉は、カレーとか炒め物に使える。悲観するなご主人」
「口中脂まみれの奴らに言われても嬉しくないっ!」
片付けの最中に肉の値段を見たが、どれも千五百円を超えていた。あんな高級品、そうそうありつけないぞ。
「あの、皆さん、ごめんなさい」
「……仕方ないよ。大家さんと、アパートから出てきたおばさんを間違えたんだよね、ツバサちゃん?」
項垂れるツバサの肩をぽんぽんと叩くマミ。
「はい……」
彼女が許可を取った人物は、大家さんでも何でもなかった。
たまたま外に出ていたご婦人に話しかけ、そのご婦人も俺達をここの住民と勘違いしていたのか、適当に返事をしていた。
「いいよって二つ返事で……ですが私が素性を確認しておくべきでした……」
ご婦人も何故自分に許可を取るのか、不審がらなかったのだろうか。
不幸な事故だったが、寛容な大家さんが全て許してくれた。
それどころか、邪魔にならない程度なら、駐車場のスペースで遊んでいいと言ってくれた。
遊び目的なら普通公園とか行くけどな。駐車場占有って野蛮すぎる。
「落ち込まないで! マミがツバサちゃんの無念を晴らすから」
「マミさん……っ」
青天を背後に立つマミの勇姿に、涙を流すツバサ。次は彼女の番らしい。
例のキャリーケースから何かを取り出している。焼肉用のセット以外にも、あれに色々入れているようだ。
「よしっ、これできっと飛び出してくるよ」
向かうのは玄関ではなく、コンクリート床のベランダの前。縦格子に守られていて、当然進入は不可能。
「おい、流石にフェンス越えるとか言わないよな?」
「違うよ。ただちょっと、これを入れるだけ……っと」
右の袖を捲り、フェンスの隙間に腕を突っ込む。手の届いた場所に、先程取り出したものを設置したマミ。
見下ろすように覗いてみると、緑色のゼリーが置いてあった。
「お、おい、何だこれ」
「商品名にはレジェンドゼリーって書いてあったよ。通販で二十個入り、千円」
「高いな……で、具体的にどんな生き物用に作られたゼリーなんだ?」
「勿論、ツチノコだよっ」
「今すぐ返品しろ!」
完全に掴まされている。伝説の未確認生物が、そんなチープなゼリーで釣れるかってんだ。
「でもベランダにツチノコが出現したら、引きこもってる場合じゃないよね?」
「確かに一躍有名人になれるけども!」
夕方のニュース番組辺りに、顔写真付きで実名報道されそうだ。
「マミは動物とか虫とか好きだからな。我が妹らしい、よく出来た作戦だよ。あしもわくわくしてきた」
格子に足を掛け、ベランダを見張るハジメ。待っていても時間の無駄だろうに。
「しかしよぉ、本当に現れたらどうするよ、叶央」
「知らねーよ。自治体に連絡して終わりでいいだろ」
三郷の質問を雑に返す。仮に出現したら、泡を吹いて倒れる自信はある。
「っ⁉ おいご主人、空を見ろ!」
「え?」
ハジメが驚いた様子で上空を指差した。俺だけでなく、その場にいた全員が、彼女の示した方角を見る。
「な、何ですかあれ? 空からこちらに向かってきていますっ」
ツバサの言う通り、上空から飛来する、十五センチほどの物体。
「空を飛んでる時点で、ツチノコではないな……」
ツチノコは、トカゲによく見間違われると聞く。
「そんなこと分からないぞご主人。ツチノコの正体なんて誰も知らない。故に羽が生えてたって、不思議ではない」
未知のロマンに目を輝かせているハジメ。隣でマミも同様に、期待している様子。
「シルエットが見えてきたぞ……ん? 何だあの角……」
「おい、あの雄々しく長い二本の角……叶央、冗談だよな……?」
顔を見合わせる俺と三郷。嘘だろ? あれって、もしかして……。
「ヘラクレスだぁー!」
「ええええええ⁉」
マミの歓声、俺、ツバサ、三郷の仰天の声が辺りに響き渡る。
「何で世界最大のカブトムシがこんな住宅地にいるんだよ! お前、何だこのゼリー!」
黄色の中に黒い斑点模様の羽。何より体長の半分近くを占める胸角。
間違いなく、ヘラクレスオオカブトだ。オレンジ色のブラシのような口で、餌を舐めている。
「あんまり覚えてないけど……アポトキシン何とかって薬品が、成分表の一番上に載ってた気がするなぁ」
「もう調べるのも怖い……」
騒然とする駐車場内。無機質なベランダで、たった一匹のカブトムシがとんでもない存在感を放っている。
「ご主人様、これっておかしいですよ……」
「ああ……野生のヘラクレスなんて日本にいないもんな。だ、誰かが放虫したとか……?」
もっと熱帯雨林みたいな地域に生息しているはずだ。
「言ってる場合じゃないぞご主人! 捕獲の準備だぁっ!」
「おおーっ!」
「テンション高っ」
マミはともかく、珍しくハジメまで興奮していた。相変わらず無表情だが、声が若干上ずっている。
「ち、ちょっと待てよ。外来種だろ? こういうのって、勝手に飼育していいのか?」
この手の法律に詳しくはないが、特別な生き物を飼うには申請が必要と、小耳にはさんだことがある。
「むしろ生態系が脅かされる前に保護すべきだろう。別に特定外来生物でもない訳だ。ご主人、これはあし達に課せられた使命だよ」
大袈裟な気もするが、要は飼育や保管が禁止されいている虫ではないらしい。
気が付けばマミがフェンスの隙間に腕を入れ、カブトムシの上側の角、胸角を掴んでいた。
そのまま腕を縦格子の上のスペースまで引き上げ、反対の手で胸角を掴み直す。これでベランダからの脱出が成功。
「やった、ゲット! でもどうしよう……虫かごがないよ……」
「急げマミ、早くこのタッパーに入れるんだ!」
「おい待てそのタッパー! 何か焼肉入ってるぞ!」
ハジメが急ごしらえで用意した透明の入れ物は、先程のバーベキューの余りを入れたタッパーだった。
「そもそもそんな密閉空間に入れちゃダメだろ!」
フタをしてしまえば最後、身動きが取れないレベルの狭さだ。どれだけ屈強なカブトムシであろうと、あまりに可哀想だ。
「四の五の言ってる暇はないっ、ツバサ、早く肉を平らげるんだ。生温くなってるからあしは嫌だっ」
タッパーはあの一つしかないらしい。急かすようにハジメが告げる。
「私も嫌ですよ! 最高の状態で食べてあげないと、お肉が可哀想です!」
「言ってる場合か! もういいっ、俺が後で捨てとくから肉渡せ!」
「いくらご主人様でも、そんな人道に外れた行為を許す訳にはいきません! フードロス反対!」
「お前良い奴だな! でも今じゃないな!」
ツバサの思想を否定する気はないが、早くしないとカブトムシが逃げてしまう。
「み、皆、早くしてよ、どこに入れればいいの?」
その場で何度も足踏みをして、マミが慌てている。それに共鳴するように、カブトムシも六本の足を振り回している。
「待たせたな、叶央っ!」
「三郷?」
いつからか姿を消していた三郷が、狭い部分がカットされた、空のペットボトルを掲げてやってきた。
「大家さんにハサミを貸してもらってな、一旦これに入れよう!」
助かった。五百ミリリットルの容器ではあるが、問題なく収まってくれそうだ。
「よし、このペットボトルに入れてくれ」
俺の合図でマミが、三郷の持つペットボトルにカブトムシを入れようとした。しかし……。
「あぁっ! 入口に掴まっちゃった!」
身体全体を使って入口を防ぐような体勢で、ペットボトルに掴まるカブトムシ。世界最大たるその所以を、遺憾なく発揮している。
「引き剥がせないのか?」
「でも無理矢理は……可哀想だよ」
「強く言い返せない……ってああっ!」
俺の叫びは虚しく消える。マミが胸角から手を離した隙に、カブトムシは青空の彼方へと羽ばたいていった。
「ヘラクレス……うぅ……」
カブトムシが飛んで行った方角を見上げ、涙を流すマミ。
俺も写真くらい取っておけばよかったかな。ヘラクレスを見たなんて言っても、誰も信じてくれないだろうし。
「我が妹よ、人生とは別れの連続だ」
「ハジメちゃん……」
「辛いときは泣けばいい。でも、その涙が人を強くするんだ……よしっ、今日はもう遅いから帰ってムシキン……」
「何帰ろうとしてんだ! 待て!」
マミの肩に手を置くハジメ。そのまま帰路に就こうとする二人を呼び止める三郷。
「本来の目的を見失ってるぞあんた達! オレは二階堂をだな……」
「はーん? そもそも君……三郷太助君だっけ? 君があんな小さいペットボトルを用意したせいで逃げたんだろぉ?」
「オレが糾弾されるのかよ! あんたらに任せてたら、どのみち収拾付かなかっただろうに!」
「大家さんにハサミだけじゃなく、大容量のペットボトルを借りることだって出来ただろぉ?」
「悪かったな、オレの飲み終えたやつで! そこまで頭回らなかったんだよ」
「そうだぞぉ、マミ達に謝ってよぉ、さんたすぅ」
「変なあだ名、付けられてるけど⁉」
マミ命名。三郷太助、略してさんたす、か。今度から俺も使おうかな。
腕を組んで愚痴を好き勝手に投げるハジメとマミ。三郷はサンドバッグ状態。
「ほら、ツバサからも何か言ってやれー」
「……フードロス反対」
「してねぇよ! あんた、あの二人のこと、上手くまとめてくれよ!」
今回使用した小道具は、全てキャリーケースに戻されていた。肉も勿論無事。
「コホン……すいません、冗談です。ではハジメさん、後は任せましたよ」
「そうか、残るはあしだけ……よし、任された。こうなれば一肌脱いでやる」
ツバサ、マミと作戦は失敗に続いた。最後くらいはまともな手段で挑んでほしい。
「あれ? 道具使わないの?」
「あしには必要ない。その代わりご主人、ちょっと来てくれ」
言われるがまま、手ぶらのハジメに付いていくと、玄関の前で立ち止まった。
「お、俺は今から何を……?」
「おいおい、何故緊張する。とても簡単なことだ。まずドアノブを持ってくれ」
無茶ぶりの予感に変な汗が出ていた。嫌々ドアノブのレバーを握る。
「よし、それを捻るんだ」
「は?」
「いいから」
早くやれと指示するみたいに、顎をしゃくるハジメ。開くかもしれない、とでも思っているのだろうか。
「いや……この通り、入れないけど」
当然だ。部屋にはロックが掛かっている。何度も捻ってみせて、それをアピールする。
「そうだろうな。しかし中にいる人物はどう感じる?」
「え?」
「恐怖だよ。自分だけの空間であるはずの部屋に、何者かが侵入を試みている。中から音を聞けば、誰しもそう思うさ」
「最低……」
これ以上質の悪い嫌がらせがあっただろうか。
「何をやっているご主人、もっとガチャガチャするんだ。本当に友人を助けたいのなら、もっと心を鬼にするんだ」
安全圏から好き勝手に命令を送ってくる。もし見つかってしまえば、俺だけが怒られる構図。
「くそっ、こうなりゃヤケクソじゃーっ!」
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャ!
手首の上下運動により、けたたましい音を鳴らすドアノブ。
尻に力を入れて踏ん張り、頭を空っぽにする。すると、ただ嫌がらせをするマシーンへと変貌できる。
「むぅ……出てこないな。こんな昼間に寝てるのか?」
自分も昼食前まで寝ていただろうに。記憶の欠如が起きている。
「よしご主人、あしも手伝ってやる」
ようやく重い腰を上げたハジメ。扉の前に立ち、二、三回軽いノックをしている。今更そんなことをしたところで、何も変わるまい。
「ふぅ……行くぞ」
「な、何が始まるんだ……」
ドンドンドン! ドンドンドン!
「おらぁー、警察じゃごらぁー、出てきやがれコンニャローっ」
「恥ずかしいからやめて!」
ハジメはドアノブを捻る俺の隣で何度も扉を叩き、チンピラ警察まがいのセリフを吐く。
無表情で、トーンも変えずに喋っているせいか、凄みが全くない。
「いてこますぞボケー、お袋さんが泣いてるぞーっ」
「キャラがぶれぶれなんだけど!」
独創的な脅迫だ。中で二階堂が聞いていたとしたら、別の意味で不安を与えそう。
ドアノブを何度も上下させる男、扉を何度も叩く女。
俺はこのまま、この羞恥に耐えきる自信がない。
変わってもらおうと後ろを振り向くと、我関せずと言わんばかりに、他の全員が明後日の方向を向いていた。
「おいっ! 何他人のフリしてんだ!」
そもそもハジメは恥ずかしくないのだろうか。残念ながらポーカーフェイスなので、判断がつかない。
「なぁ、もうやめていいか。いや、やめさせてください!」
「しっ……ご主人、何か聞こえないか……?」
「いや、騒音しか聞こえな……これは?」
床を足で鳴らすような音。それがどんどん近づいてきている。
「おい、これ……!」
「ふっ、こういうことだよ、ご主人」
間違いない、こちらにダッシュで向かっている!
音にビビって扉を開けに来たんだ。そうと決まれば話は早い。
俺とハジメは顔を見合わせる。お互いにドアノブ、扉に手を添え、ポジショニングを決めると……。
「オラオラオラァ! 顔出さんかいワレェ!」
全力の嫌がらせ。それに呼応して、足音も次第に大きくなる。
そしてついに、足音の正体が顔を覗かせる。
ガチャリ。
「さっきから横でうるさいんじゃい!」
隣の部屋の扉が開いていた。
「あ、すいません」
赤の他人のおじさんが、鬼の形相で俺達を怒鳴り、すぐに一〇二号室の部屋の中へと消えていった。
静まり返るアパート。俺とハジメはおじさんに平謝りすると、憐憫の眼差しをこちらに向けるツバサ達の下へ戻った。
「何やってるんですかお二人共……」
「だってご主人が……下手くそなんだもん……」
あろうことか指揮命令者は、俺のせいだと言い張っている。
「もう最終手段しかないやご主人。今すぐありったけのガソリンを買ってくるといい」
「焼き討ち⁉ 十字架背負ってまでやることじゃないだろ!」
「いや、でもいい作戦かもしれないぞ。引火させずとも、匂いが部屋まで漂ってきたら、心配で逃げ出してくるだろう」
「さっきからお前の作戦はおっかないんだよな……」
もっと平和的な解決法を講じなければならない。しかしメイド達の案は、どれも撃沈に終わっている。
「あれ? おいツバサ。マミがいないぞ」
ハジメが告げる。確かに頭数が足りない。キャップから飛び出した金髪ツインテールが見当たらない。
「ああ、マミさんなら、大家さんの元に」