【書籍化】どうも、噂の悪女でございます
壁に精緻に描かれた絵画の隙間には惜しげもなく金箔が施され、縦溝彫りになった柱の上下にも繊細な彫刻が施されている。
見上げる程に高い天井からは、数え切れないほどのクリスタルを使用したシャンデリアが吊り下がる。
王立学園卒業記念舞踏会が行われていたこの豪奢な大広間に、大きな声が響きわたった。
「マーガレット・ベイカー! 貴様との婚約を破棄する!」
人々が歓談する賑やかな喧噪で包まれていた大広間は一瞬で水を打ったように静まりかえる。
人々の中心には、本日この王立学園を卒業したばかりの、王太子であるイアン王子がいた。そして、イアン王子と向き合うように立っているのは美しい金髪を半分結い上げた、彫刻と見まごうばかりの美しい令嬢だ。
「…………。恐れ入りますが殿下。理由を伺っても?」
婚約破棄を告げられた令嬢──ベイカー侯爵家のマーガレット・ベイカーは表情を崩さずに静かにイアン王子に問い返す。
「その白々しさは流石は悪女といったところだな。貴様の数々の悪行はわかっているんだ」
「あの……、悪行と仰いますと?」
「しらばっくれるな! お前はたまたま聖女の力があったが故に俺の婚約者になれたことを利用して、傍若無人な行動を繰り返していたそうではないか! お前は既に、生徒の間で噂の悪女として有名だ! メアリーもそう証言している」
「メアリー?」
マーガレットは眉根を寄せる。
(メアリーって、どのメアリーかしら?)
ゴットン侯爵令嬢?
もしくはリプトン伯爵令嬢?
本当にわからない。
「どこまでもしらを切る気だな。俺がメアリーと親しくしていることを嫉妬して、お前が数知れない意地悪をしたこともわかっている!」
イアン王子は横にいた小柄な少女を抱き寄せる。
マーガレットはそこで初めて、その少女の存在に気付いた。ふわふわとしたピンクブロンドの髪に水色のぱっちりとした大きな目をした、人形のように愛らしい少女だ。
「あら。あなたはリットン男爵令嬢?」
マーガレットの記憶が正しければ、それはリットン男爵令嬢のように見えた。
「メアリーに意地悪をしただろう!」
「……? していませんわ」
「ふざけるな!」
イアン王子は怒りの頂点に達したようで、周囲の目も憚らずに大きな声で怒鳴る。
「イアン殿下。王太子ともあろう方が人前でこのように感情を爆発させるなど、もっての外です」
「黙れ! お前のそういうお高くとまったところが周りに疎まれる原因だぞ! お前は彼女のこと無視し、わざとお茶会に呼ばず排除しただろう」
「お言葉ですが殿下。わたくしはそのメアリー様とはほとんど喋ったこともございません。お茶会とは親しい者同士でするものですわ」
「ひどいっ! 自分が無視していたくせに、そんなことを言うなんて!」
そこで大きな声を上げたのはリットン男爵令嬢のメアリーその人だ。イアン王子に抱きつくような格好をして、こちらを睨み付けている。
「聖堂でちゃんとご挨拶したときに『こちらこそよろしく』って言ってくださったのに、その後はまるで私がいないかのような態度を取られて。たくさんの方が見ていました。私の言っていることが嘘だって仰るんですか!? 私が男爵令嬢だからって、格下に見ていらっしゃるんですよね?」
大きな目にいっぱいの涙を浮かべたメアリーが信じられないと言いたげに口元を押さえ、ぽろぽろと大粒の涙を流しながら捲し立てる。こんなに捲し立ててよく息が続くなと感心してしまうほどだ。
「おお、可哀想に。俺がいるからもう大丈夫だ」
イアン王子は沈痛な面持ちで、メアリーを更に抱き寄せる。
一方のマーガレットは、唖然とした。
「……聖堂で挨拶?」
この国には聖なる力を持った聖女が定期的に現れ、国を守る浄化を行う役目を負う。
そして、聖女には人々に幸せを分ける加護の力もあるとされており、学園でも全生徒と聖堂で挨拶を交わす機会がある。
相手は挨拶する相手がマーガレット一人でも、こちらは全生徒が相手なのだ。そのひとりひとりまでどんな会話を交わしたかなど、記憶にない。
「その表情は、身に覚えがあるようだな」
イアン王子が勝ち誇ったように的外れなことを言い、ビシッとマーガレットを指さす。
「お前のような聖女とは名ばかりの悪女は許すわけにはいかない。よって、今ここに婚約を破棄する!」
冒頭と同じ言葉を、イアン王子はもう一度言う。
そして、決まったとばかりにふっと口角を上げる。
(これ、どうすればいいのかしら?)
マーガレットは頭痛がしてくるのを感じた。
イアン王子は元々賢明な人ではなかったが──。
(ここまで愚かだとは思っていなかったわ)
このような多くの生徒──そのほとんどが将来自分を支える立場になる貴族が集まる場で、婚約者でもない一介の男爵令嬢を抱き寄せて、誰が聞いても完全に言いがかりとしか思えないことで糾弾し、挙げ句の果てに婚約破棄を言い出すとは。
「……イアン殿下。この国の決まりでは国王になるものは聖女を娶ることになっています」
マーガレットは努めて冷静にイアン王子に語りかける。
婚約破棄、大いに結構。願わくば、こちらから申し立てたいくらいだ。しかし、マーガレットにはそれができない理由があった。
それこそがこの決まりである。
『国王となる者は、聖女を妃に娶る』
この国の憲法にははっきりとそう明記されているのだ。
そして、イアン王子の代の聖女はマーガレットである。
つまり、マーガレットは将来国王となるこの男と結婚しなければならないと法律で決められている。そして、憲法を勝手に変えることは王太子や国王にもできない。
「それであれば問題ない」
イアン王子はふっと笑う。
「お前の持つ聖女の力は、他人に授けることができるそうではないか。ならば、今この場でその力を全て、メアリーに授けろ。そうすれば、メアリーが聖女となる」
「それ、本気で仰っていますか?」
マーガレットは驚いて聞き返す。
「もちろん本気だ。この期に及んで王太子妃の立場が惜しいからと見苦しいぞ! この、悪女がっ!」
益々調子を上げて自分を罵倒してくるイアン王子を見つめながら、マーガレットの中で何かが壊れた。
国を守るため、人々のためと思って必死で勉強して努力してきた。なのに、その結果がこんな男の妃になることだとするならば、やっていられない。
「わかりました。わたくしの持てる聖なる力の全てを、メアリー様にお渡しします」
「わかったなら、さっさとやれ」
イアン王子が顎をしゃくってマーガレットに命じる。
「マーガレット様!」
一歩前に出ようとしたマーガレットを、横から止めようとする声がした。見ると、学園生活で親しくしてきて、公私ともにマーガレットを支えてくれてきた令嬢達だ。
「大丈夫よ」
マーガレットは彼女達に微笑んでみせる。ここで下手に手出しすれば、彼女達が不敬罪をかけられる恐れがあるのだ。
「メアリー様。お手を」
マーガレットは片手を差し出し、メアリーに手を出すように促す。手を差し出しながらメアリーは勝ち誇ったような顔をしたが、マーガレットはそれに気付かないふりをしメアリーの手を握る。
握りあった手が鈍い光を発し、やがてメアリーの手の甲に淡い花の紋章が浮かび上がった。
「メアリー様に聖なる力が移動しました」
マーガレットは表情を変えずに淡々とそう告げる。
「本当だわ。見て、イアン様! 私に聖紋があります」
メアリーが自分の手を見て、はしゃいだようにイアン王子に語りかける。
男爵令嬢が王太子の名前を直接呼ぶなど、不敬極まりない。
けれど、最早それを注意する気すら起きなかった。
──だって、もうふたりとも自分には関係ない人達だから。
どういう反応をすればいいかわからずに凍り付く学生達の合間を抜け、マーガレットは大広間を立ち去る。そのとき、「マーガレット!」と呼びかける声がした。
「あら、ダレン様」
駆け寄ってきたのは、黒髪に透き通るような青い瞳、すっと通った高い鼻梁の男性だ。彼はヘイルズ公爵家の令息で、イアン王子の側近を務めている。
その生い立ちは少々特殊で本来であれば彼は第二王子だが、跡取りのいないヘイルズ公爵家に養子に出されてこれまでイアン王子を陰で支えてきた。
「ダレン様が色々と尽力してくださっていたのに、このような結果になり申し訳ございません」
マーガレットは頭を下げる。
思えば、あの王子でもなんとかマーガレットがここまでやってこられたのは、ダレンが陰で色々と根回ししてイアン王子をハンドリングしてくれていたからだった。その努力を無に帰すような結果になり、申し訳なくなる。
「いや、俺のことはいい。きみこそ、今まで大変だったね」
「いえ、大丈夫です。なんだか、すっきりしました」
「ははっ」
ダレンは少し口角を上げたマーガレットを見て、ほっとしたように笑みを見せる。
「今日のことは多くの学生がイアン王子に非があるとわかっているはずだが、きみの立場が悪くならないように尽力しよう」
「ありがとうございます」
マーガレットがお礼を言うと、ダレンはふっと微笑む。
「お疲れ様。今度気分転換に、一緒に出かけよう」
「そんなことをしては、イアン殿下の不興を買ってしまわれるのでは?」
「構わない。俺がいないと困るのは殿下だ」
ダレンは両手を上に向けて、肩を竦める。
「まあ、ふふ……」
不敬だとはわかっていても、思わず笑ってしまった。確かにダレンの言うとおりだ。
「お気遣いありがとうございます、ダレン様」
マーガレットは屋敷に戻る馬車に乗り込み、馬車乗り場まで送ってくれたダレンにもう一度お礼を言う。ダレンのお陰で、随分と気持ちが軽くなった。
「また連絡する」
ダレンは片手を上げると、小さく手を振った。
◇ ◇ ◇
豪華な調度品で揃えられた王宮の一室。イアン王子により手配された部屋に、メアリーの明るい声が響く。
「うふふっ! 意外と楽勝だったわ」
ふかふかのベッドに倒れ込むと、右手を天井にかざす。そこにははっきりと花の形をした紋章が浮かび上がっていた。この紋章は『聖紋』と呼ばれ、聖なる力を持つものが持つ印だ。
これまで、若い女性でこの印があるのは聖女であるマーガレットだけだった。しかし、今は自分にある。つまり、聖女はメアリーなのだ。
先ほど、イアン王子に連れられてメアリーは国王夫妻にも謁見してきた。
『あなた達、本気なの?』
王妃様はとても驚き眉を顰めたが、イアン王子とメアリーははっきりと答える。
『本気です。わたし、これから聖女として頑張ります!』
『私も本気です。マーガレットとの婚約は破棄し、メアリーと結婚します』
国王夫妻は困惑している様子だったが、既に婚約破棄は多くの貴族令嬢・令息が見ている前で宣言してしまったし、聖女の力もメアリーに移っている。今さら引き返すことは現実的ではない。
『話はわかりました』
その瞬間、メアリーは己の勝ちを確固たるものにしたと内心でほくそ笑んだ。
「ちょっと美人だからって、いい気になっているからこういう目に遭うのよ。なんの努力もせずに王太子妃になれると思っていたんでしょうけど、いい気味」
メアリーにとって、マーガレットは目障りとしかいいようがない人間だった。
メアリーの実家であるリットン男爵家は石炭事業で成功した成金貴族で、爵位を金で買った平民上がりだ。そして、メアリーが王立学園に入学したのが、ふたりの出会いだった。
いつも澄ました顔をしてお高くとまっていて、出会った当初から気に入らなかった。
極稀に話しかけられたと思えば『図書館では声を小さくしてくださいませんか?』とか『廊下は走らないでくださいませ』とか、小言ばかり。
挙げ句の果てに、イアン王子と親しくしていたメアリーに『あまり王太子殿下に馴れ馴れしくするとあなたの評価に関わる可能性があるから気を付けてくださいませ』と言ってきた。
王太子であるイアン王子自身が気軽に接してくれていいと言っているのに!
さらに、マーガレットが定期的に友人達を呼んでお茶会を開催していると聞いて『わたくしも行ってみたいです』と伝えたのに、『ちょっとこれは、特別な会なの。ごめんなさい』とはっきりと断られた。
絶対に、メアリーが男爵令嬢だからって見下して意地悪を言っていたのだ。
先生にも何度もそう言ったのに全然取り合ってくれなかった。きっと、あの女が聖女で王太子殿下の婚約者だからだったから贔屓されていたに違いない。
(でも、そんな日ももう終わり)
だって、聖女はメアリーなのだから。
「ふふっ、あははっ! 本当にいい気味」
笑いが抑えられない。あの女が泣いて謝罪するなら、聖女の雑用係くらいはやらせてやってもいいかもしれない。
「あの手紙をくれた人は本当にいい仕事してくれたわ」
それは、数カ月前のことだった。
イアン王子と一緒にお昼ご飯を食べてから教室に戻ったら、机の上に一通の封筒が置かれていた。メアリーが中を確認すると、書かれていたのは驚愕の事実だった。
──聖女の力は他の者に移せる。
手紙にはそう書かれていた。
だから、メアリーはすぐにそれをイアン王子に伝えた。
その後はあれよあれよという間に話が進んだ。イアン王子がその真偽について密かに側近に調べさせ、事実であることを突き止めた。
以前よりメアリーからマーガレットの悪行について聞かされていたイアン王子はすぐにマーガレットから聖女の力を他の者に移すことを決め、結果的に今日の卒業記念舞踏会の出来事に繋がったのだ。
「きっと、私以外にもマーガレット様が嫌いな人がいてこっそり教えてくれたのね」
名乗り出てくれれば然るべきお礼はするし、場合によっては取り巻きにしてあげてもいいのに。
「ま、いっか」
探さなくても、本人がいずれ名乗り出るだろう。そんなことより──。
「うふふっ。私が王太子妃様になるのね」
そしてゆくゆくは王妃、つまりこの国で最も尊い立場の女性になるのだ。
今日は最高の日だ。笑いが止まらない。
◇ ◇ ◇
マーガレットが屋敷に戻ったとき、卒業記念舞踏会での一連の出来事はすでに両親の知るところになっていた。ダレンが遣いを出して、事実のみを伝えてくれていたのだ。
「お父様、お母様。申し訳ございません」
マーガレットは両親に謝罪する。
多くの貴族子息、令嬢達が集まる場であのような醜聞の渦中の人となるとは、本当に迂闊だった。まさか、イアン王子があそこまで愚かだとは。
「いや、お前がどんなによくやってくれていたかは私が一番よく知っている。災難だったな」
父であるベイカー侯爵は沈痛な面持ちで首を振ると、両手を広げてマーガレットを抱きしめる。
「しかし、あんなバカなやつに可愛い娘をやらずに済んだと思えばいいかもしれないな」
「まあ、お父様。ふふっ」
全面的に自分の味方になってくれる両親には、感謝しかない。
「お父様。これから、どうなってしまうのでしょう?」
「既に国王陛下には私からもダレン殿からも連絡してある。大丈夫だ」
「そうですか」
マーガレットは小さく微笑む。これから起こることを考えると少々心は痛むが、自分で撒いた種なのだから彼らにはきっちりとその後処理までやってもらわなければ。
◇ ◇ ◇
翌日、マーガレットは朝日の眩しさに目を覚ました。ゆっくりと顔を上げると、カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいる。
「んー、ゆっくりした」
マーガレットは大きく腕を伸ばして伸びをする。
こんなにゆっくりと眠ったのはいつ以来だろう。これまでは毎日早朝に起きて、国の浄化を行うための祈りを行ってきたから。
「今日は何をしようかしら?」
毎日聖女として、そして将来の王太子妃としてのスケジュールがびっしりと詰まっていたから、何も予定がないことに戸惑ってしまう。
何をしようかとベッドの上でぼんやり考えていると、ドアが開いて侍女のエレンが入ってきた。
「おはようございます、マーガレット様。お手紙が届いております」
「おはよう。お手紙? こんなに朝早くから?」
マーガレットは不思議に思い、その手紙を受け取る。
上質な封筒には赤い封蝋がされていた。裏面には美しくも力強い文字で署名がされていた。
「ダレン様から?」
そう言えば昨晩、あとで連絡すると言っていた気がする。
マーガレットはその手紙の封を切る。
「今日のお昼? え!? 大変、準備しないとだわっ!」
手紙には、本日のお昼頃に屋敷に行くと書かれていた。マーガレットは慌てて立ち上がる。
「エレン、準備を手伝ってくれる?」
「もちろんです」
マーガレットはエレンに手伝ってもらい身支度を進める。鏡に映る自分を見つめながら、これからのことを考えたのだった。
その数時間後、ダレンは予告通りマーガレットのいるベイカー侯爵家にやって来た。黒塗りに金の装飾が施された馬車から降りてきたダレンは、マーガレットに気付くと形のよい口元に弧を描く。
「やあ、マーガレット」
「ご機嫌よう、ダレン様」
マーガレットはぺこりとお辞儀をすると、ダレンを応接室へと案内する。勧められたソファーに座ると、ダレンは昨晩あの後王宮で決まったことを一通り教えてくれた。
「そうですか。婚約破棄は決定、イアン殿下はメアリー様とご婚約すると」
「ああ。近日中に公式発表される。それに、聖女の仕事はメアリーが『自分が責任を持って全うします』と宣言した」
ダレンはそこで言葉を止めると、一通の封筒を取り出した。
「これは?」
「王妃様から」
「…………」
これまで、聖女の仕事は王妃様とマーガレットのふたりで分担して行ってきた。正確に言うとそれ以外にも補佐が何人かいるのだが、『聖女』として活動しているのは二人だ。
(王妃様には申し訳ないことをしてしまったわ)
マーガレットに聖紋が現れたのは、五歳の頃だ。それを見た両親は驚き、マーガレットを王宮へと連れて行き、そのまま聖女となった。そして、自動的に王太子の婚約者となった。
それ以来マーガレットは毎日のように王妃様の元に通い、聖女として、そして将来の王妃としての仕事を教えてもらった。そして十五歳になってからは、王妃様と仕事を分担して行ってきた。
王妃様のことは本当の母のように慕っていたし、王妃様もマーガレットをとても可愛がってくれていた。
気持ちが重くなるのを感じつつ封を切ると、中に書かれていたのは短い文章だった。
『卒業おめでとう。今まで頑張ってきてくれたご褒美だと思って、しばらく休みなさい。今度改めてお祝いさせてね』
マーガレットは目をぱちくりとさせる。
ダレンもその文章を見て、苦笑した。
「王妃様らしいね」
「本当に」
マーガレットもくすくすと笑う。
「マーガレット。王妃様も許可してくださったことだし、出かけようか?」
「出かける?」
マーガレットはきょとんとしてダレンを見返した。
「ああ。きみはずっと働きっぱなしに勉強しっぱなしだっただろう? 息抜きだ。もうイアン殿下の婚約者でもないのだから、俺と出かけてもいいだろう」
ダレンは朗らかに微笑むと、マーガレットに手を差し出す。
(息抜き?)
言われてみれば、これまで十数年、毎日が全力疾走だった。
ダレンの心遣いに、なんだか気持ちがむず痒い。
「ありがとうございます」
マーガレットは戸惑いつつも、そこに手を重ねる。
こんな日も、たまには悪くないと思った。
◇ ◇ ◇
マーガレットが聖女でなくなって三カ月が過ぎた。
王宮の一室に、陶器が割れる大きな音が響く。
「私はちゃんとやっているわ。もう、朝から晩までくたくたよ。これ以上どうしろって言うの!」
「しかしながら、これはメアリー様の仕事だと王妃様が仰っています」
「仕事の割り振りがおかしいわ!」
ヒステリックな金切り声が響く。
そのとき、騒ぎを聞きつけたイアン王子が部屋に現れた。
「一体、なんの騒ぎだ?」
イアン王子の登場に気付いたメアリーは、今さっきまでの烈火のごとき怒りちらしていたのがまるで嘘のようにしおらしくなり、イアン王子の胸に飛び込んだ。
「イアンさまぁ。聞いてください。私はこんなに頑張っているのに、この人達が次から次へと仕事しろ仕事しろと持ってくるんです。そのせいで殿下にも全然会いに行けないし……。なんとかしてください!」
「一体どうなっている」
イアン王子はメアリーを抱きしめると、責めるように周囲の者に目を向ける。そこにいた大聖堂の神官は困ったように眉尻を下げた。
「恐れながら、聖女様による浄化が間に合っておらず西の外れに不浄の傾向が見られます。このままでは魔物が出る可能性もあります」
「メアリーは聖女になったばかりだ。慣れないことも多い。お前達でなんとかできないのか」
「浄化の力は、聖女様にしかありません」
神官は首を横に振る。
「聖女ならもうひとりいるだろう」
イアン王子は眉を寄せる。
今現在、この国には聖なる力を持った聖女がふたりいる。王妃様と、メアリーだ。
「恐れながら殿下。王妃様はメアリー様が聖女になられてからもう三カ月以上、自分の役割以上のことを果たしていらっしゃいます」
背後からそう諫言したのは、イアン王子の側近であるダレンだ。それに同意するように、神官達も全員が頷く。
「もうよい。この役立たず共が! 俺が直接、母上に話す」
イアン王子は憤慨してそう言うと、王妃の元へと向かった。
イアン王子が王妃様の元に到着したとき、王妃様は自身の部屋で何かを書いているところだった。前触れなく突然現れたイアン王子に、形のよい眉が僅かに寄る。
「突然、一体何事です」
「母上。メアリーが聖女の役務に疲弊し、疲れ果てております。ご助力ください」
王妃の部屋に向かったイアン王子は、母親であり聖女でもある王妃にそう告げる。王妃は、扇で口元を隠すと目を眇めた。
「イアン」
「はい」
「この国には、聖女はふたりいます。王妃であるわたくしと、将来の王太子妃です」
「…………」
「マーガレットはこれまで、本当によくやってくれました。それに対して、あの子はマーガレットのやっていたことの十分の一もやっていないわ。それに、王室に嫁ぐための花嫁教育も『疲れている』の一点張りで全く進んでいない」
「それはメアリーが、まだ慣れていないせいでっ!」
イアン王子は咄嗟に反論する。
「お黙りなさい」
王妃の低い声が部屋に響く。
「今わたくしがやっているこの作業も、本来であれば彼女の仕事です。あなたとメアリーの婚約のお祝いに対するお礼状を母親であるわたくしが書くなど、通常であれば考えられないわ。あなた、ご自分でやったらどう?」
「私は最近執務が増えて──」
「増えていません。マーガレットがあなたの分までやっていたのです」
王妃はぴしゃりとそう言い切ると、「下がりなさい」と言う。
イアン王子は閉ざされる扉を呆然と見つめることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
マーガレットが王宮に呼び出されたのは、それから暫くしたのちのことだった。
(一体なんの用事かしら?)
婚約していた期間ですら、自分を王宮に呼ぶことなど滅多になかったのに。
(面倒なことでなければいいけれど)
マーガレットは小さく息を吐く。そして、その悪い予感は見事に的中した。
「西の外れの森に魔物が現れたんだ──」
マーガレットと対面したイアン王子は、青い顔をして開口一番にそう言った。
「魔物が?」
マーガレットは驚いて目を見開いた。
(もうそんな状態になっているのね……)
聖女の浄化が間に合わず瘴気が濃くなると、森の動物達が魔物化する。魔物化した動物は凶暴性が増し、人を襲うことも多い。魔物の出現は凶兆の始まりだと言われている。
故に、聖女がそうならないように浄化を行うのだ。
「頼む。メアリーを助けてやってくれ! 彼女はもう限界なんだ」
こちらに詰め寄ってきて肩を揺すぶられ、乾いた笑いが漏れる。
(この方、今さら何を言っていらっしゃるの?)
聖女にはその力を分け与える能力がある。
それは、聖女の責務の負担が大きいため、他の者に一時的に力を分けることによりその負担を軽減するためものものだ。
ただそれは、あくまでも力の一部を分けて一時的に手伝ってもらうための能力であり、聖女の代わりになれるわけではない。
マーガレットも、王妃様により密かに選ばれた数名の貴族令嬢達に時々その役割をしてもらっていた。卒業式の時に声をかけてくれた友人達だ。
つまり、マーガレットがメアリーに与えた力はマーガレットの力を貸しているに過ぎないのだ。
そして、元々聖女でない人間に大きすぎる力を与えればその力に耐えきれず、体に変調をきたすことなど容易に想像できた。
聖女のことについて一通り学ぶ王族であれば、知っていて当たり前のことだ。
(本当にこの方、全部わたくしに押しつけて何も勉強していらっしゃらないのね)
呆れるのを通り越して、最早何も感じなかった。
「殿下。残念ですけど、それはできかねます」
「なんだと?」
「だって、わたくしの聖なる力はその全てをメアリー様に託してしまいました。わたくしに今、浄化の力などありません」
「そんな……」
イアン王子が絶望したような顔をする。
「なんとかしろ!」
「なんとかと言われましても。これは、殿下とメアリー様が望まれたことではないですか」
「くっ……! お前、それでも人間か! メアリーが可哀想だとは思わないのか!」
イアン王子はマーガレットを罵る。
(どの口が言うのかしら)
これまでマーガレットがどれだけ努力してきたか、そのほんのひとかけらすら知らないくせに。正確に言えば、周りがどんなに諭しても『聖女なのだから辛くても努力するのは当然だ』と言って知ろうともしなかった。
「全く思いません。だって、聖女なのだから辛くても努力するのは当然だと仰ったのは殿下ではありませんか。ご自分で望んだことなのだから、ご自分で尻拭いしてくださいませ」
マーガレットは冷ややかにそう言う。
「なんて女だ。見損なったぞ!」
イアン王子がバシンと目の前のテーブルを叩き、マーガレットを睨み付ける。叩いた拍子に紅茶が零れ、テーブルに茶色い水たまりを作った。
「どうとでも仰ればいいわ。だって、わたくしは〝噂の悪女〟なのでしょう?」
にこりと微笑むと、マーガレットは優雅に立ち上がりその場をあとにする。
呆然と立ち尽くすイアン王子を、振り返ることはなかった。
◇ ◇ ◇
新たな王太子と聖女が発表されるこの日、国民は祝福に沸いていた。
「すごい人だわ」
マーガレットは王宮の前の広場に集まり国旗を振る人々を見て、目を丸くする。
「皆、あなたを一目でも見たいのだろう」
「あら。殿下のことを見たいのでしょう」
マーガレットは隣にいるダレンを見上げた。
マーガレットの元に、聖紋が戻ってきたのは数カ月ほど前のこと。聖なる力を託す能力は、あくまでもその力を貸しているだけ。なので、託した相手がその力を行使できないほど衰弱すれば自動的に戻ってくるのだ。
そして、それと時を同じくして王太子であるイアン王子が療養のため離宮に移り住むことと、王太子の廃嫡が発表された。西の森に魔物を征伐に行ったものの、そこで傷を負ってこれまでのような日常生活が難しくなってしまったと風の便りに聞いた。
そして、イアンと代わって王太子になったのが側近のダレンだった。ダレンは誰よりも近くでイアン王子を見続けており王太子としての執務や人脈に精通しているし、元々は第二王子であったため王位継承権も問題なく持ち続けている。
「今日はいい日だな。絶対に手が届かなくて、だけど手に入れたくてたまらなかったものがようやく手に入る」
「あら。ダレン様がそんなに王位をほしがっていただなんて、ちっとも気が付きませんでした」
マーガレットに意外そうにそう言われ、ダレンは口の端を上げる。
「ああ。ずっと、手に入れたかった」
──貴女のことが。
ダレンの言葉は最後まで告げられることなく、その口は閉ざされる。
ダレンとマーガレットの出会いは、もう十年以上前のことだ。
その見た目の美しさはさることながら、辛くてもつらさを見せない凜とした態度や求められた責任を全うしようと努力するひたむきな姿勢に、すぐに心を奪われた。
しかし、マーガレットはそのとき既に聖女だった。聖女は王太子と婚姻を結ぶと決められており、それを覆すことはできない。
だから、その地位ごともらうことにした。
(兄上が思った以上に無能で助かったな)
あのバカな女がイアン王子に近づいてくれたのも好都合だった。聖女の力について少しだけ書いた手紙を置いたらあれよあれよとこちらの術中に嵌まり、卒業記念舞踏会のあの騒ぎだ。
(彼女には、学生生活最後の場で少し悪いことをしたな)
まさかあそこで騒ぎを起こすほど二人が愚かであるとは、さすがのダレンにも予想できなかった。その点については、今後マーガレットのことを大切にして償っていくことにしよう。
このことはマーガレットには告げていないし、一生誰にも告げるつもりはない。
「さあ、行こうか」
ダレンは隣にいるマーガレットへと手を差し出す。
「はい」
マーガレットは満面に笑みを浮かべると、そこに手を重ねた。
〈了〉
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