51.特別じゃない日々2
獣人の資産家、亀之進にも司法の手が及んだ。
警邏が館に押し入ってきた際、亀之進はすでに観念していた。いつかはこんな日が来ると分かっていた。
分かっていなかったのは妻の鶴美である。取り乱し、絹を裂くような声でわめいた。織物工房を経営しているから絹などしょっちゅう裂いているのかと思うと同時に、工房主であるのに狼狽するなどとと妙なおかしみを覚えた。
亀之進が余裕を持っていられたのはそこまでだった。
理解者のひとりであると思っていた鶴美が、決定的に背を向けたのだ。
「あなたは完ぺきだと思っていたのに」
鶴美はなにを持ってして、夫が完ぺきだと思っていたのか。裸一貫から財をなし、慈善活動に熱を入れ、さらには妻の工房に出資もした。それだけでも十分ではないか。なのに、夫が困難に立たされたとたん、思っていたのとは違うと目を背ける。
彼女もまた失望したのだろうが、亀之進はより大きい落胆を味わった。
連行された先で事情聴取が進む中、ティーア市を揺るがす一大事件の顛末を知った亀之進は、獣人たちを誘拐させていた首謀者の手がにゃん太にまで及んだと聞き、激怒した。
なぜもっと早くに<パンジャ>を発明してくれなかったのだと恨む気持ちもある。もっと慈善活動に従事しないのかという思いもある。
けれど、亀之進とて体の小さい獣人だ。<パンジャ>の素晴らしさは誰よりも分かっている。
しかし、そんな亀之進に、取調官は冷水を浴びせかける。
「勘違いするな。あなたは愛玩獣人愛好家の走狗側の獣人だ」
亀之進は息を呑む。今更ながらに、自分の罪の重さを思い知る。素晴らしいものをもたらした獣人を、危険にさらしたのだ。
亀之進は困窮した獣人を救うためには、人族と獣人の間を取り持たねばならないと常々思っていた。
「そうするうちに、人族とかかわるようになり、利用されるようになった、と」
違う。そうではない。
「そして、犯罪に手を染めたんだな?」
亀之進は口をつぐんだ。
獣人に同じ獣人を攫わせ欲しがる人族に渡した。完全に犯罪である。
取調官はやれやれとため息を吐く。亀之進は知らないことだが、こまごまとした事柄に関して実行を一任していたというポチ丸の行方が知れず、調書作成が進まないと苛立っているのだ。
「しかも、大っぴらにしないように、被害が少なくなるように調整するつもりでいた、と」
違う。そうではない。良かれと思ってやっていた。
「わ、わたしは、獣人のためを思って」
そうだ。獣人の地位向上を実現させようとしたのだ。遠く険しい道のりだ。
「それは猫の錬金術師が成し遂げたよ」
取調官が嘲笑する。
どうして、あいつがやっているんだ?
納得がいかず呆然となる亀之進を、尋問官は冷ややかに見下ろした。
すでに獣人誘拐の実行犯である獣人たちを一網打尽にしていた。彼らは判を押したように「亀之進は悪くない」「自分たちが悪いのだ」「いや、悪いのは人族だ」と口々に言った。
「お役人さま、聞いてください。誘拐は悪いことです。でも、それはやった俺らが悪いんだ。亀之進さんは俺たち獣人のために色々思いやって下さっているんです」
「大勢を救うためなんです。そのためには荒療治も必要だ。そうでしょう?」
「御大層なことを言う口ばっかりの者は大勢いる。でも、亀之進さんは身銭を切って俺たちのために使ってくださっている」
彼らは自分たちの正しさを疑っていなかった。悪く見えるかもしれないが、より良い未来のために泥をかぶってでもやっているのだと言う認識を持っている。少々の犠牲は仕方がないとでも思っている様子だ。
下町の獣人たちは長らく虐げられてきた。だから、慣れ切ってしまっていた。誰かの犠牲になることを。他者を犠牲にするのはあってはならないことではなかったし、歓迎しないが、よくあることなのだった。
不幸な環境が不幸を呼び込む悪循環に陥っていた。それはあってはならないことであり、滅多にないことだという認識である者たちと、大きく乖離している。
取調官を始めとする役人たちは今さらながらにティーア市が生み出した闇の罪深さを思い知らされていた。愛玩獣人愛好家たちが国の中枢に金をばらまいて好き勝手していたのがユールの闇であったのと同様、ティーアにもいびつな仕組みが隠されていた。
司法や行政の力を持つのだから、正しいやり方で行わなければならない。力は大きければ大きいほど、みなで決めた手順を踏んで行使されなければならない。
そのことを、今さらながらに考えさせられるのだった。
「亀之進さん、あんたはな、あれほど家人や獣人たちに慕われているのに、犯罪をさせた。それこそが罪だ」
ポチ丸が待ちに待ったその日は、唐突におとずれた。始まったら、一気に事態は押し進んだ。だから、以前から用意していたもののうち、いくつか取りこぼしがあった。それでも、ポチ丸は準備しておいた服にとり替え髪を整えた。今まで着ていたものとは比べものにならないほど清潔な衣服を身に着け、洗髪し、髪を切る。そんなのはいつごろぶりだろうか。
頬や首筋が露わになって、慣れないことこの上ないが、それもまた心を弾ませる一因となる。
予想とは大分違ったが、それでも上手くいったと言って良いだろう。
憎い「主」とにい也が敵対し、互いをつぶし合わないかと思い、そう動いた。ポチ丸は「主」の命令に従いつつ、独自でも動いていたのだ。
「主」は巨大な権力を持っているが頭の巡りはあまりよくない。獣人でも力のあるものなら、なんとかしてくれると思った。にい也は打ってつけだ。力があることももちろんだが、その自由さ、誰をも寄せ付けない冷厳さに憧れた。同時に、獣人ごときに憧憬を抱く自分の底辺ぶりに絶望した。だから、にい也を良い様に利用してやろうと思った。
にい也を動かすためには、にゃん太という駒が必要だった。
これが案外、強固に護られている。手を出せずに外堀を埋めつつ、周囲をうろうろしていると、思いもかけず、転がり込んできた。誘拐実行犯の獣人たちがやってくれた。馬鹿な奴らだ。
しかし、その取るに足りないと思っていた獣人たちが集まり力を合わせ、一大勢力を成し、街を震撼させた。文字通り地響きをたててにゃん太奪還のために集合した。
にい也を釣る餌としかみなしていなかったにゃん太が、実はワイルドカードであった。切られた札の威力の大きさを見せつけられた。
街のそこここで噂されているところによると、なんと、にゃん太はデカブツを手なずけたのだという。蛇なんて、たいていの動物の天敵だ。だからこそ、「主」たちは獣人たちの抑止力となることを期待して薬漬けにしてでも飼いならそうとした。
ポチ丸もまた、言うことをきかないと餌にしてやると何度となく脅された。その記憶がよみがえって苦い気持ちになる。だからこそ、ポチ丸はそんなものを手なずけられるものなのかと興味を惹かれ、噂を集めた。
すぐにティーア市を離れる予定が、なかなか街を出るに至らなかったのはそのせいだ。そして、それがポチ丸を破滅に導く。少しの油断も見逃されることはないと知っていたはずなのに。そういった点でも、猫の錬金術師はワイルドカードだった。
街角からするりと姿を現したにい也に、ポチ丸は立ちすくみ、そう思わずにはいられなかった。
にい也に自然に押し出されるようにして、路地に入った。にい也はどこも触れていない。するすると歩き、それに気圧されるように、ポチ丸は自分で歩いて狭い民家の隙間に入って行ったのだ。
にい也は声を発さない。自分よりも背丈が小さく、横幅も細い獣人であるというのに、圧倒される。そのしなやかな動作に目を奪われる。
「警邏たちからは逃げおおせても、やっぱりあんたからは無理だったな」
諦め半分、隙をうかがって機を捉えてやろうという気持ち半分のポチ丸は、冷然としたにい也に、前者がより優勢になっていく自身の気持ちを奮い立たせようと気力を振り絞って口を開いた。
「やつらが捜しているのはポチ丸ってんだからな」
いつも薄汚れた姿でぼさぼさの髪をしていた。きれいな服を着て、髪形を変えれば、とたんに印象は変わる。
「あいつらが捜しているのは獣人みたいな人間だ」
「主」やその部下たちはポチ丸を獣人のように扱った。警邏にもそのまま伝えているだろう。ならば、印象は固定され、ポチ丸の逃走はよりたやすくなる。しかし、それは眼前の獣人が許さない。
ポチ丸は歪めた唇をなめる。そして、話し始めた。いったん語りだすと、止まらなくなる。
「獣人みたいな名前だろう? この名前をつけたやつらはな、毎回いろんな名前で呼んだよ。最近ではこの名前に固定されたけれどな」
言って、ポチ丸は肩をすくめて見せる。おどけた仕草にも、にい也は変化を見せない。つまり、まったく隙はない。それでも、ポチ丸は口を動かすのを止めることができなかった。静寂が怖かった。
「その時々で、穏やかに接したり、蹴ったり殴ったりした。攫ってきた獣人の子供にだってそうだ。優しくしたいと思った時にはそうしたし、苛々している時には殴った。そうしていいと思ったんだ。自分の感情優先さ。それでいて、俺に言うんだ。「殴ったことはあっても、優しくしてやったこともあっただろう? なのに、その恩を仇で返すのか?」ってさ。ああ、もちろん、「恩を仇で返す」なんて言葉は使っていないぜ? そんな慣用句なんて使いこなせるような者じゃないさ。面白いのがさ、上手い言い回しが出てこなくて、それに腹を立てて、察しないお前が悪いって、自分の馬鹿さ加減も俺の所為にするのさ!」
長々と話すうち、力が入って、最後は怒鳴り付ける形になった。
にい也はぜいぜいと肩で息をする人族を見る。彼の事情を聞いても、特段感慨は湧いてこない。
この男が言うように、哀しいかな、言葉を知らない者たちはこれほど明確な言葉遣いをすることができない。あやふやになる。そして、他人が話す言葉の意味が分からなければ、「自分に分からない言葉を話す」者が悪いと思い込む。自分に不足があるとは考えないのだ。難しい言葉を使って自分を馬鹿にしているとさえ思う。自分が劣っているとは思わない。にもかかわらず、劣っていると突き付ける(勝手にそう感じるだけだが)存在を疎むのだ。自分にないものを持つ存在に対して、単純にすごいと思い、その差を埋めるべく学ぼうとはしない。持たないことを他者のせいにする。
だとしても、「それがどうした?」としか思わない。
そして、ポチ丸が言いたいのはその点ではないだろう。
「しかもさあ、つけた名前が「ポチ丸」だぜ? ペットの犬と獣人の犬族との特徴を兼ね備えた名前だって! ああ、もちろん、こういう感じだってことを言っただけだ。「ペットとぉ、獣人の名前っぽいなぁって、」だとさ。それで意味が通じると思っているんだぜ? まあ、内容もひどいもんだけれどな!」
では、この人族はどうやってそういう言い回しを覚えたのか。物言いもしっかりしている。男はげらげら笑いだした。そしてふと大声を出すのをやめ、にやりと顔をゆがめた。
「でも、俺は主たちに会う前は名前自体がなかった。そんな名前ですら喜ぶような生まれ育ちだったってんだよ」
ポチ丸は心の中で揶揄を籠めて「主」と呼んでいた。
「なんだよ、猫の錬金術師さんとやらはどうして獣人しか助けないんだ? 人だって困窮する者があふれているじゃないか。人族から虐げられているって? お前らだって、差別しているんだよ!」
「お前は人族に虐げられているからって、獣人族にそのうっ憤をぶつけているじゃないか。どうしてそんな者を助けなくてはならない? 獣人族が同じ獣人族を助けるのは当然だ。人族は獣人族を虐げて当然だと思っている。獣人族が人族を害しているんじゃない。だったら、そんな獣人族の助けを人族が欲するのはとんだ厚顔だな。人族は人族が助ければいい」
ようやくしゃべったにい也の声はやはり冷厳としていた。言うだけ言って、身を翻して行ってしまう。
ほっと息をつく。にい也の姿が見えなくなって初めて、気圧されていたことに気づく。
歩くときは右足から出す。そう決めている。とにかく、一歩片足を出せば、次の一歩は勝手に出る。交互に足を動かせば、進む。だというのに、こういうとき、必ず左足が出るのだ。だから、ほら、不運がやって来る。
「いたぞ、あいつだ」
「こっちだ! 応援を!」
ポチ丸はばらばらと複数の足音が近づいて来るのを聞いていた。逃げなければ。なのに、次の一歩が出ない。