50.特別じゃない日々1
豊かな国ユールの地方都市ティーアでは人や獣人族がいっしょに暮している。獣人族は人と動物の両方の特性を持つ。二足歩行し、器用に前足を操ることができ、言葉も交わす。
大通りには馬車や荷車が通り、商品が並ぶ店や工房が連なる。そこから一本入った筋をさらに進んで角を曲がった先に錬金術師の工房がある。たどり着く前にパンや果物といった身近なものを売る日常使いする店がある。
一番賑やかな場所から少し離れているから、敷地は広く、裏手に畑を持つ。
そこは猫の錬金術師の工房だ。
工房の持ち主の猫族のにゃん太は茶トラ白だ。ぴんと先がとがった三角耳、鼻筋と腹や足が白い茶トラ柄だ。肉球や鼻の色がピンクなので「可愛い」と言われることはあっても格好良いと言われることはないのがやや不満である。最近では「ティーア市の猫の錬金術師さん」と郷土愛を籠めて言われるようになった。郷里を代表する者のひとりとなったのだ。
錬金術工房は露地沿いの正面玄関を入れば、客対応するためのカウンターと棚のある店となっている。その奥の部屋は大きな間取りとなっているが、錬金釜や台、炉、すり鉢やすり棒、ふるいなどといったさまざまな器具が置かれているので、広さは感じられない。壁一面に棚があり、錬金術を行使するために必要な素材が並んでいる。
朝になれば、最近猫の錬金術師に弟子入りした狐族の獣人の狐七が、パンダ族の獣人のパン七と共に元気にやって来る。
なんと、パン七は工房の近くのパン屋に弟子入りしたのだ。
「工房の近くを通るたびに美味しそうな匂いがするって思っていたんだあ」
マスコット獣人として集客でひと役買っている。
夕方になれば、仕事を終えた蛇朗がやって来て、薬の治療を受ける。そして、三人で帰っていく。その際、狐七の給与として、みんなの分の夕食を持ち帰る。これには狐吾郎がもらいすぎだと難色を示した。徒弟として衣食住の面倒を見られることはあっても、給与を得ることは稀である。特に、狐七はまず文字を学ぶことから始めており、役に立っているとは言えない。しかし、食べ盛りの獣人の子供たちのためだとたま絵が押し切った。
「うちの工房主は慈善活動に積極的に参加しているのよ。それとも、あんたたち、栄養バランスのとれた食事を、子供たちにしっかり摂らせてやれるって言うの?」
ぐうの音も出ずにありがたく受け入れるしかなかった。
これには巨パンも喜んだ。立ちあげたばかりの仕事が予想以上に忙しく、帰ってきたら疲労からなにもやる気が起きず、そのくせ空腹だ。そこへ狐七たちが美味しい食事をたずさえて帰って来る。なお、巨パンは期せずして断酒に成功していた。飲んでいる暇がないのだ。食事を終え、片付け、すぐに寝てしまう。
「美味しい夕食があるから、それを励みに頑張ることができる!」
楽しみがある生活、後ろ暗いことがない暮らしは張り合いがある。なにより、子供たちが嬉しそうにしているのを見ることができる。
パン七や狐七が楽しそうに仕事のことについて話したり、年少の獣人たちがいっしょうけんめい家事を行いながら、その日の出来事を話すにぎやかな食卓だ。新入りの蛇族とも仕事の相棒として受け入れた。難しいことは狐吾郎が考えてくれる。巨パンはただ目の前のことを確実にこなせばいい。充実している。
「おはようございます」
「おはよう、狐七」
同じ通りまでやって来て、狐七は錬金術師工房へ、パン七はパン屋へ入って行く。
パン屋にパン七が務めることになったときに、たま絵があいさつ代わりにハーブを渡したら、非常に喜ばれた。季節外れのハーブも手に入れられるとあって、継続的な仕入れの話を持ち掛けられた。畑では常時様々な、そして上質のハーブが育っている。
そこで、パンと引き換えに渡すことにした。朝にハーブを渡し、工房の朝食と昼食分のパンをもらい受ける。夕方に仕事を終えたパン七が工房と自分たち仲間の分のパンを貰って工房へやって来るのだ。そこで、狐七と蛇朗と合流して、帰路に就く。
蛇朗は薬の依存から脱するために、仕事終わりには工房に定期的に通うことを言い含められていた。工房ではにゃん太から話を聞いていた獣人たちがいるので、通うのは苦にならない。蛇朗の調子を見ながら調合される向精神薬を飲むのは正直に言えば嫌だった。薬というものに忌避感を抱いた。なのに、薬が必要だという気になるときがある。にゃん太が調合する薬ではなく、あの地下室に閉じ込められていたときに飲まされていた薬が。そうなると、居てもたってもいられなくなる。
「大丈夫。大丈夫だよ。蛇朗は少しずつ良くなっている」
「でも、俺、やっぱり薬を飲まなくちゃ、っていう気持ちになるんだ。そうなったら、不安でたまらなくなる」
「そういうものなんだよ。でも、ちょっとずつよくなっている。ほら、塔の中のらせん階段みたいに、同じところをぐるぐる回っているように思えて、進んで行けば、いつかは一番上にたどり着くのといっしょだよ」
蛇朗は狐吾郎の指示の元、街で働きだした。力があり、重量があるものを高層階に持ち上げることができるため、建築現場や船着き場での荷下ろしなどで活躍した。
高層階は、にゃん太が言うらせん階段が使われると、省スペースで上階へ上がることができる。蛇朗はそういった建物の建設にも関わっていた。
「だから、大丈夫。いつか、蛇朗は一番上にまで上り詰めて、広い空を見る。解放されるんだ」
暗く狭いところから、解き放たれる。
毎日の積み重ねによって、薬の束縛から遠ざかって行く。
「ゆっくりやっていこう。諦めないでひとつずつ」
「うん」
にゃん太は初見から蛇朗を救おうとけんめいだった。その言葉を信じようと思った。
つらい治療だが、その後に楽しみが待っている。<しゅわしゅわレモン>をごちそうしてくれるのだ。
そうして、蛇朗は仕事が終われば錬金術師工房にやって来て、治療を受け、狐七とパン七と連れだって家に帰るのが日課となった。
パン七が抱えたパンの匂いを嗅ぎながら言う。
「夢のような生活だ」
柔らかく温かいパンを食べられる毎日は、以前、パン七が思い描いた暮らしであった。更に言えば、お父ちゃんは飲んだくれではなくなり、どこかとげとげしさがあった狐吾郎は今は穏やかに安定している。
「夢じゃない。夢をかなえるために頑張るんだ」
狐七はいつか錬金術師工房に弟子入りすると決めたことが早々に実現し、意欲に燃えている。
「狐七、<しゅわしゅわレモン>を作れるようになる?」
蛇朗はにゃん太にねだった飲み物を三人で飲み、いっぺんに大好きになった。あんなに素晴らしいものを、いつかは狐七も作れるようになるのだろうか、と期待に目を輝かせる。
「なるよ!」
狐七は破願する。一片の曇りもない、ぴっかぴかの笑顔に、パン七も蛇朗も、同じような表情になる。
にゃん太は獣人の子供たちに健康な生活だけでなく、希望を与えた。身体と心は密接なつながりを持つ。どちらかが不調を来せば、もう片方にも色濃く影響する。猫の錬金術師の治療は完璧だ。双方ともに健やかにしてみせたのだから。
速く走るというのは、風を切ることだ。歩いているときには邪魔をしない空気は、勢いよく動くと、とたんに存在感を増す。それが心地よかった。顔や首の毛並みをふるわせる。
リス緒は少々おぼつかない調子で<パンジャ>を右曲がりに操縦する。羊彦が安全設計した盛り上がったテーブルの縁を掴む両前足に力が籠る。うさ吉が自信を持って開発したメカナムホイールが滑らかに動く。
<パンジャ>を手に入れたばかりなので、慣れない。それでも、リス緒には乗らないという選択肢はない。夢だったのだ。<パンジャ>に乗ってティーア市を疾駆し、記事のネタを探すことが。
その夢が思いもかけず、早々に叶った。先だって起きたティーア市を揺るがした事件を、一部始終間近で目撃したリス緒は臨場感たっぷりの記事を書いた。その記事が掲載された新聞が売れに売れたのだ。しまいには、臨時の特集号まで発行され、リス緒は主要記事を任された。
それはそうだろう。ティーア市内部を地響きをたてて象族の群れが行進した。なにごとか、と詳細を知りたがる者は大勢いた。元々、象族は大勢で行動することはなく、また、性質は穏和だ。だから、人族から張りぼてとか木偶の坊とか揶揄されてきた。そんな者たちがそれまでの様相を一変させた、心胆寒からしめる出来事に、すわなにが起きたのかとあちこちで声高に話し合った。そこへ、詳細を明らかにするティーア市獣人新聞が発行された。
他の人族が発行する新聞もこぞってこの事件を取り扱ったが、いかんせん、ティーア市獣人新聞にはなにが起きたのかだけでなく、どんな風だったかを微に入り細に入り記載されていた。リス緒はここぞとばかりに、愛玩獣人愛好家の所業を暴き立てた。獣人の自由を侵害し、知性と尊厳ある存在としてみなしていないと書いた。
人族からも大勢購入者があったと聞いている。根強い獣人蔑視について訴えかけることができたのではないだろうか。
あの日、象族たちの群れが向かった館の主が捕縛され、取り調べが行われた。それまで散々その財力を使って司法の手から逃れていたが、今回はそうは問屋が卸さない。錬金術師組合と薬師組合が手を回したユール国の中枢からじきじきに役人が遣わされ、厳しい詮議が行われた。どうも、にい也もまた何らかの方策を取った様子だが、深入りすることは避けた。リス緒とて分別はある。わざわざ虎の尾を踏みにいかなくとも、ネタはたくさんあるのだ。
ともあれ、ユール国中枢の指示により、厳正な取り調べが行われ、他の愛玩獣人愛好家たちの罪が芋づる式に明らかになり、捕縛された。
愛玩獣人愛好家たちはティーア市でも裕福な者たちだった。ユールの中枢にもふんだんに金をばらまいて便宜を図ってもらっていた。
しかし、事が大きすぎた。
まず、アルルーンを株ごと秘密裏に手に入れるため、それを育てられる唯一の錬金術師とともにさらった。
もう、これだけで大罪である。ティーア市だけでなく、ユールの全錬金術師組合と薬師組合が結託して強く抗議した。そこへ鍛冶屋組合のほか、さまざまな職人組合や商人たちからも陳情が入る。いわく、今注目の新魔道具を発明した錬金術師を守れ、ということだ。画期的な発明をした錬金術師を失っては、自分たちの商売の機会を失うことになる。
また、獣人たちのこれまでの不満もこれを契機に噴出した。
ユールの中枢はこれ幸いと、賄賂をもらうだけもらって、ティーア市の一連の騒動の首謀者たちを切り離すことにした。
リス緒は二日間、眠る間もなく働いた。いつ食事を摂ったかすら覚えていない。たま絵とカン七が陣中見舞いとして差し入れを持って来てくれたことだけは記憶している。編集部に天使が現れたとばかりに歓迎されていた。猫の錬金術師が作ってくれたしゃっきりするお茶を片手に書いて書いて書きまくった。
おかげでリス緒は特集号を乗り切り、泥のように眠った後、社長賞をもらった。その報奨金に合わせて貯金をはたいて、<パンジャ>を手に入れることができたのだ。
今まで貯めていたお金のほとんどを使うことになったけれど、<パンジャ>に乗っていると、そんなことは些末なことだと思える。なにしろ、リス緒は仕事が忙しく、休みの日に美味しいものを食べることくらいにしか給料を使うことはなかった。
これからもそうだろう。
いや、これからは頼もしい相棒がいる。もっともっと記事を書く。そして、あの情報屋のような不慮の死の原因を突き止めるのだ。今回の記事でもそのことに触れることができた。事件の一連の調査に、その死の原因追及も含まれることを祈っている。
なかなか取り上げられることのない声を拾っていく。それが、リス緒の役目だと思っている。
ティーア市は日常を取り戻しつつあったが、以前とは決定的に異なっているものがあった。
獣人の地位向上だ。
まず、獣人たちの権利を認めようという声が多く上がった。「愛玩獣人」というのはあまりに醜悪かつ不穏な響きを持っていたし、「愛玩獣人愛好家」という変態的な嗜好であると見なされたのだ。それが同じ人族だということに恥に思われた。
以前発令された夜間外出禁止や獣人たちのみへの新しく課された税に、疑問視する声が人族の間でも挙がっていた。それがここへきて、数が増え取り上げられるようになった。
それでなくとも、おとなしいと思っていた象族たちに度肝を抜かれたのだ。
獣人の地位向上にひと役買ったのは、象族たち群れの威力、迫力に、人々がようやく獣人の力を思い知ったからである。
「象族の大行進」「怒れる象族の群れ」
ティーア市獣人新聞に踊った言葉たちは瞬く間に街を駆け巡った。
それまでは、しょせん、半獣よと見下していたのが、人の知恵と獣の力を併せ持つ獣人の凄みを思い知らされた。なにより、なりが大きいだけで愚鈍だとせせら笑っていた象族の恐ろしさをひしひしと感じた。そして、されるがままに抑圧されてはいないということも突き付けられた。
ほとんどの獣人たちは騒動を起こした象族を擁護した。そこで、街中の破壊したものを補填するということで手打ちとなった。
軒先を壊された商店の主が、看板がいつのまにか吹き飛ばされて鉄の部品だけがきいきいと揺らいでいたのを呆然と見ていた工房主が、象族たちに平身低頭謝罪されて、受け入れざるをえなかった。「あんな迫力を見せつけられちゃあな」
象族たちは反省をしていたが、落ち込んではいなかった。
誘拐されたのを助け出そうとしてくれたことを知ったにゃん太が、象族たちに大量の<吸臭石>をプレゼントしたからだ。
「さすがは聖獣人様!」
「わかってるぅ」
「大切に取っておこう」
「そうだな。使う分は自分で買おう」
いつも心に<吸臭石>を。彼らを悩ます雑多な臭いを吸い取ってくれる。彼らが穏やかな群れでいられる素晴らしいアイテムだ。
彼らに安らぎを与えてくれたのは猫の錬金術師である。ふだん穏やかな彼らが立ち上がるのが猫の錬金術師のためであるのも、当然のことと言えよう。
なお、そうやって彼らの気持ちを逸らしたことで、宴会にひとりだけ参加したパオ蔵がやっかまれる機会が減ったという。
錬金術師組合は以前から、薬師組合と足並みをそろえ、ユール国の中枢の者たちに働きかけていた。
幻とも称されていたアルルーンを育成するというのは貴重な魔道具の素材を安定的に確保することができるということだ。それが可能だったからこそ、猫族だとはいえ、アルルーン育成者である錬金術師の後継として認められたのだ。
そして、そう多くはないとはいえ、アルルーンの素材を安定的に手に入れられるということは、他国への大きな取引材料ともなる。そのことを、ユール中枢もよくよく分かっていた。
その貴重で希少なアルルーンとその育成者が誘拐された。
これは由々しき問題であり、国としても看過することはできない。首謀者は上手く立ち回れば、危難を回避することができたかもしれないが、錬金術師組合と薬師組合が手を回してそうさせなかった。更には、首謀者たちは金銭をばらまくだけでは補いきれない、素行の悪さ、評判の悪さが際立ったがために以前から苦々しく思われており、これを好機とばかりに切り捨てられることとなったのだ。
錬金術師組合と薬師組合はにゃん太とアルルーンが無事に工房に戻ったという一報を受け、胸をなでおろした。
ティーア市を震撼させた怒れる象族の行進が、<吸臭石>の発明者であるにゃん太を救出せんがためだと聞いて、彼らとティーア市の間に入り、とりなした。
組合員である錬金術師の危難を救った、引いてはティーアの、ユールの貴重な権利が守られたのだと口添えした。
「彼らの大行進に怯えてにゃん太さんたちから意識を逸らされたのだとしたら、我ら組合にとっても恩があるからな」
「ところで、そのアルルーンを育てられそうな者が見つかったと?」
「はい。なんでも、まだ若いというか、子供の獣人だそうです」
「そうか。まあ、あの工房は獣人ばかりだから、ちょうど良いだろう。なんにせよ、アルルーンに認められたのなら、今後も安泰だ」
錬金術師組合と薬師組合は今後もアルルーンの素材が安定供給されるとあって、猫の錬金術師が新しい弟子をとったと聞いて喜んだ。
「それと、にゃん太さんから、虜囚となっている場所で見つけた植物をほしいという申し出がありました」
「ほう。さすがは猫の錬金術師だな。捕らわれていてもしっかりめぼしい植物を発見するとは」
「なんでも、監禁中に薬漬けにされいてた大型の獣人の治療薬を処方したというではないか」
錬金術師はさまざまな不思議な物品を生み出す。けれど、錬金術は万能ではない。素材と器材が必要になる。より正確に言えば、それらがなければ、錬金術を行使することができない。
いわば、にゃん太はそれらの定説を覆してみせたのだ。
「先代がいろいろ気を回して教えてくれていたお陰だと言っていましたね」
「さすがだな」
錬金術師史上、燦然と名を残す錬金術師ならばこそ、さもあろう。
「にゃん太さんもすごいですよ。奥ゆかしいですし」
「もちろんだ。錬金術師の弱点を補う活躍をしたんだからな」
教えられたとしても、実際やれと言われてどのくらいの錬金術師がなし得ようか。
「ティーア市の獣人たちにどれほど慕われているかを明白にしましたね」
「それだけじゃない。人間たちからも猫の錬金術師のために動いた者を罰しないでくれという声が多数寄せられたそうだ」
だからこそ、ティーア市も騒動を起こした多くの獣人たちをほとんどお咎めなしにしたのだ。
「ならば、うちも気前が良いところを見せておかなくちゃな」
「あの工房主補佐の迫力に、たじたじになっていましたものねえ」
猫の錬金術師の遠慮がちな点を十二分に補うのだから、補佐とはよく言ったものである。
「そう言うお前だって、にゃん太さんにまたぞろ握手をしてもらっていたじゃないか」
「何度してもあの感触は素晴らしいのです」
なんだかんだ言いつつ、猫の錬金術師工房へ便宜を図る組合長と係員であった。