閑話4.フェレ人とお嬢さま
その羊族の少し年上の男が突然自分の兄になると話したとき、なにを言われているのか分からなかった。
フェレ人はわけのわからないまま、それまで暮らしていた家を出て、羊彦と名乗る「兄」といっしょに暮らし始めた。
なにをどうすれば良いのか分からなかった。
それまでとは違って食べ物はたくさんもらえた。ただ、フェレ人は匂いを嗅いだだけで食べようという気にならないものもあった。羊彦はそんなフェレ人に、「せっかく用意したのに、食べないのならもうやらない」とは言わなかった。困り切った様子であれこれ色んな食べ物を、これならばどうだと差し出された。
フェレ人が食べると嬉しそうな顔をした。
どうしてそんな風なのか、とても不思議だった。
ただし、フェレ人がどんなに嫌がっても風呂に入れられたし、カトラリーの使い方から始まって、「マナー」というものを教えられた。
「良いか、フェレ人。ティーア市には獣人も人族もたくさん住んでいる。獣人だからこそ、きちんとマナーを守らないといけないんだよ」
はじめはまったく上手くいかなかったが、たまになにかの拍子にできたら、羊彦がとても喜んで褒めてくれた。なんだかむずむずした。そういうときには、嫌だなという気持ちよりも、もうちょっと頑張ってみようかなという気持ちの方が勝った。
羊彦は危険なこと、してはいけないことや、生きるための術を教えてくれた。
フェレ人は家具の使い方はおろか、たまにトイレに行くのが間に合わないことすらあった。
絶対に怒られると思った。ちょっと前までいっしょにいた「親」がそうだったから。ひどく怒鳴り散らして、物を蹴ったり、なんなら、フェレ人を殴ったりもした。手間を掛けさせたら、気に入らなかったら、そうされた。
フェレ人はぎゅっと身体に力を入れた。
「ああ、トイレに行くのに間に合わなかったのか?」
そう言って、風呂場に連れて行った。それも、ぞんざいに突いて押しやって行くのではなく、そっと促されて自然と足が出た。一歩、もう一歩。
そして、風呂場で良い匂いのする石鹸を泡立て、もこもこの白い泡で包むように洗われた。
怒らないのかと様子をうかがうも、フェレ人を洗うのに気を取られているようだ。暴力をふるわれなかったことに、安堵した。
その後、タオルで拭かれ、「これを飲んでいろ」と渡されたほんのり甘い水をちびちびと飲んだ。ふと羊彦はなにをしているのだと思って探してみると、なんと、フェレ人が粗相したのを掃除していた。
驚いた。
汚れたら掃除するのはいつもフェレ人の役目だったのだ。
「お前の毛皮で拭けよ」
とげらげら笑われたこともある。
「おら、さっさとやれよ」と、背中を強く蹴られ、つんのめって四つん這いになったら、そのまま腰を踏まれてぐいぐい拭かれた。毛皮がこすれて痛くて悲鳴を上げたら、「お前がぐずぐずしているから、手伝ってやったんだ」とまた笑った。
羊彦は「両親」とまったく違った。
フェレ人に接するときは、必ず、目線を合せて穏やかに語り掛けた。暴力でコミュニケーションを仕掛けてこない。罵声を浴びせない。大声で狂ったように笑うこともない。
静かで凪いでいた。それが次第にフェレ人にも伝わって来て、くつろぐことを覚えた。今まではいつなんどき、暴言暴力の嵐に襲い掛かられるか分からなかったので、常にびくびくしていたのだ。
羊彦はフェレ人と接するまではフェレット族と交流したことがなかった。それでフェレ人がどんなものなら食べるのかとフェレット族の子を持つ親に質問した。それがきっかけで、フェレ人にも同族の友だちができた。
羊彦はフェレ人を引き取ってから間もなく木工工房で働き出した。フェレ人は自分が働き出してから、羊彦はフェレ人とふたり分の生活費を稼ぐためにそうしたのだと、遅まきながら気づいた。
羊彦がフェレ人を真っ当な獣人にしてくれたのだ。フェレ人は羊彦に会うまでは、世界を知らない獣だった。
「あなたが今回の護衛ね?」
「はい。フェレ人と言います」
ずいぶん待たされていたので、昔のことを思い出していたフェレ人は座っていた椅子から立ち上がる。これもマナーのひとつだ。冒険者は粗暴な者が多いというイメージは自分を大きく見せるためにわざとそう振る舞った者たちのせいで定着したという説がある。けれど、今回のような要人の護衛をするのには、腕前や実績の他、マナーを必要とされる。フェレ人のようなまだ実績が足りないとされる冒険者にお鉢が回ってきたのは、ひとえに羊彦のお陰であるといえる。
「あら、それ、もしかして、<パンジャ>?」
「はい、そうです。よくご存じですね」
「画期的な発明ですもの。それにしても、最新魔道具をお持ちなんて、すごい冒険者なのね」
「まだ若いのに」あるいは「獣人なのに」、もしくは「可愛くて小さいのに」というところか。
フェレ人が正式名称<パンタグラフ式ジャッキ付き移動置装>、略して<パンジャ>を所有することができたのも、羊彦のおかげだ。そして、にゃん太の心遣いもある。
本来の名称はあまりにも名前が長く、一部からはおカタいという意見があったために略称が付けられたのだ。
「主目的は横移動の方なんだけれどなあ」などとにゃん太は言っていたが、高低を調整できるのも画期的である。
しかも、使われている車輪が強靭かつ、自在な動きを可能にしているのだ。主輪の周囲に傾斜をつけた小さな車輪、バレル(樽)をたくさん配置している。このバレルは自由に回転する。これによって、左右前後、回転の全方向の運動を可能にしたのだ。
「へへん! この角度が重要なんだよ。これがありゃあ、フェレ人のような冒険者が魔獣に対する時だって急カーブを曲がったまま移動するることだってできるぜ! 全方向駆動型車輪だ!」
「すごいです! すごいですよ、うさ吉さん! 名前をつけましょうよ、この車輪!」
「え、車輪に? そうだなあ、じゃあ、メカナムホイールだ!」
そんな風に兄羊彦と鍛冶屋のうさ吉は盛り上がっていた。ふと視線を感じて横を向くと、にゃん太がこちらを見ていたから頷いた。「物づくりをする人ってたまに童心に帰ってしまうことがあるよね」という共通認識を持ったからだ。
にゃん太だけでなく、兄やうさ吉も、フェレ人を通してみなのためにと考えてくれている。だから、ちょっとばかり高性能というか、ふつうに暮らす分にはそこまで必要ではない機能が搭載されている。
そのせいで、非常に希少な素材を必要とし、結果、滅法高い。とんでもなく高額だ。
フェレ人はこれをテスターとして与えられていた。つまり無償提供だ。
「不具合があったらどんな風なのか詳細に伝える」ことが義務付けられている。
兄やうさ吉もちょっとしたことでもすぐに報告しろ、調整してやると言っている。メンテナンスも完璧だ。フェレ人が激しい使い方をするとわかっているのだ。ならば、遠慮はいらない。
フェレ人の他、ハムスター族のハム助が試用して危険や不具合の解消を行い、改良を重ねて満を持して発売された。発売開始前から早々と、注文が殺到していたと聞く。
「強気の価格設定をしたのに」とにゃん太は驚いていた。
「こんなにすごい発明にかかわることができたなんて、光栄だよ。職人冥利に尽きる」
羊彦はそんな風に言っていた。
「にゃん太さんはね、フェレ人やハム助さんのような小柄な者が、技量があるのに体格差で非常に割を食うことがあるから、それをなんとかできないかって、思って開発したんだよ」
とも言っていた。
有り難いことだ。そんなにゃん太との縁を結んだのは、やはり羊彦なのである。
そして、今、ティーア市におとずれた貴婦人の護衛に抜擢された。
若いというのは女性に威圧感を与えない。小柄で見た目が可愛い獣人というのも同じように思われるのだろう。ならば、自分がいつも不満に思っているこの外見も、有利に働くことがあるということだ。そして、<パンジャ>という注目を浴びている魔道具をすでに所有しているということも、力量に組み込まれて判断されたのだろう。
人間の容姿について考えてみたことはなかったが、フェレ人が護衛する女性はなかなかの見目のようだ。長く垂らした金髪は、もう少し赤みを増したらにゃん太の毛並みに近づくのではないだろうか。ぱっちりした目をしていたから、ふとにゃん太を連想したのかもしれない。
「わたくしはね、政略結婚のために旅している途中なのよ」
粗暴なふるまいをせずマナーを知るからか、それとも、獣人がもの珍しいのか、お嬢さまはフェレ人にあれこれ話しかけてきた。
「良いわね、フェレ人は。<パンジャ>に乗ってどこにでも行けるのではないかしら」
ティーア市の視察をしている際、物盗りに囲まれそうになった。フェレ人は<パンジャ>を使いこなしていた。まず、多くの獣人が座るかしゃがむか、四つん這いになるかで走行するところを、テーブルの上に立っていることができた。にゃん太はフェレ人のような種族的特徴のある獣人冒険者のハンデを軽減させようと考えたのだから、乗りながら武器を扱って見せるのは当然だと思い定め、存分に訓練を積んだのだ。
また、左右の急カーブにも耐えうるホイールのお陰で、滑らかな動きが可能である。相手の攻撃を、フェレ人はテーブルの高低を調整して避ける。
「このっ!」
「ちょろちょろしやがって!」
フェレ人は相手を散々に翻弄し、疲れ果てるまで十分に引き付けた。メカナムホイールをはじめとする画期的な部品とそれらの力を最大限引き出す錬金術が可能にした。その間、お嬢さまは他の護衛に守られて安全圏へ逃れている。見事に血を流さず、納めて見せたのだ。
「フェレ人のふだんの機敏さを体現した使いこなしだね」
と羊彦に言わしめたほど、フェレ人は<パンジャ>を見事に操った。
「わたしは安全第一で使います」
とはハム助の言だ。
フェレ人はそれで良いと思う。フェレ人のような緩急をごくごくわずかな間に取り交ぜた使い方をしていれば、消耗は激しい。そして、そんなフェレ人を、今度はにゃん太が肯定する。
「それで良いよ。だって、危険が迫るときに使えなかったら意味がないからね」
にゃん太は太っ腹にもそんなことを言う。せっかく苦労して生み出した発明を、乱暴に扱われても、強度調査の一環だと鷹揚に受け止めている。その上で、不具合があればすぐに連絡するようにと言う。
「冒険者のフェレ人さんがどんな風に使ってどんな風に消耗するかを見てみたいんだ」
にゃん太の意見に、うさ吉も同意しているという。
「にゃん太もこう言ってくれているんだ。存分にやりな」
にやりと笑って、メンテナンスは任せておけとばかりにサムズアップして見せた。
「フェレ人は頼もしい者たちに恵まれたなあ」
最も頼りになる兄はなぜか感涙を拭っていた。ひとりでフェレ人の面倒をみようと四苦八苦していたから、救援の手が増えたのが嬉しいのかもしれない。
そんな風に自分のことを思ってくれる者たちがいるからか、フェレ人はお嬢さまのことが気にかかったのかもしれない。大勢の使用人に囲まれていてなお、ひとりぼっちに見えるお嬢さまのことが。
「すばらしいわね! 発明されたばかりの<パンジャ>をこんなに使いこなしているなんて!」「フェレ人は運動能力が高いのね」「こんなに小柄なのに。いいえ、小柄であることを巧く活用しているのかしら」「ティーア市周辺に出没するという噂の大蛇、あれだってフェレ人ならば倒せるのではないかしら」
お嬢さまは事あるごとにフェレ人にあれこれと話しかけた。しかも、なにごとにも興味津々で、ティーア市の噂話も仕入れている様子だ。
それで、つい、フェレ人は答えてしまったのだ。
「お嬢さまも、ご自身の特性を武器にされればよろしいのではないですか?」
「わたくしが?」
そんな風に言われたことがなかった様子で、目を見開いた。
「でも、わたくしは、」
「諦めたらそこで終わりですよ」
そうだ。フェレ人は諦めなかった。羊彦に教わりながらも、なぜ必要なのか分からないマナーも覚えた。それが今、役に立っている。身体が小さくても手っ取り早く稼ぐことができる冒険者になった。猫族でありながら、他の猛獣人族から一目置かれるにい也という存在が希望となった。自分も小さくともそれなりに強くなれるかもしれないと。
力がなければ、虐げられるだけだ。「両親」がフェレ人にそうしたように。
ぼんやりしていれば、良い様に利用される。知恵がなければ、要領を得ることができず、迂遠なことをしなければならない。
「俺の身体の小ささはお嬢さまを威圧しないのと同時に、他の冒険者から侮られます。侮りが評価に影響すれば、割りの良い仕事は回って来ないこともある」
お嬢さまは口元を手で覆った。
「でも、俺は諦めなかった」
借金してでも使い勝手の良いオーダーメイドの武器を手にして、実績を積もうと戦いを重ねた。
「そうして、もがいて、跳ね除けて、やさしい者たちがいる側にたどり着いたんです。そっち側からもといた側に落っこちないように、必死にしがみついている」
やさしい者たちがいてくれたことは幸運だった。このチャンスは、またたく間に消えてしまうくらいの交差、出会いであり、それらを掴み取ることができた。
フェレ人はそう話しただけだ。別にお嬢さまを唆そうとかいう考えはなかった。けれど、お嬢さまはどこか考え込む風だった。
そして、無事に護衛を終えて報酬をもらい、次の依頼を受けた。
どのくらいの月日が経ったか覚えていないが、フェレ人は街で声を掛けられた。
「フェレ人、わたしよ。覚えているかしら?」
「お嬢さま?」
「以前はね。今は冒険者よ!」
腹心の使用人と計画を立て、「お嬢さま」を廃業したのだという。
「今はフェレ人の同業者ね」
お嬢さま改め、新人冒険者は胸を張る。そんな風に言うも、きっと「お嬢さま」を辞めるにはいろいろあっただろう。けれど、今は鬱屈が霧散し、活き活きとしている。
「わたしも、いつかきっと<パンジャ>を手に入れるわ。そうして、フェレ人みたいに使いこなして見せるの」
そう言って、悪戯っぽく笑う彼女は、人族ながら非常に魅力的に思われた。
フェレ人は知らない。
彼が彼女にそう思う以上に、「お嬢さま」だったころの彼女は、フェレ人が自在に<パンジャ>を操る姿に見とれたのだということを。一種の憧憬を抱いたからこそ、「お嬢さま」というままならぬ境遇を捨て去った後、冒険者という道を選んだのだ。
フェレ人はそうやって、他の者に影響を与え得るようになる。
後に、フェレ人は凄腕の冒険者となる。そのころにはヒョウ華は冒険者を引退し、新たなにい也の双璧として並び称されるほどにまでになる。
フェレ人は常に、彼のことを思って開発された素晴らしい魔道具を傍に置いていた。それが彼をこの世に留める強固な楔となった。
勢いよく走る<パンジャ>のテーブルから跳躍し、宙を舞い、敵にひと太刀、ふた太刀浴びせかけ、するりと長い身体を滑らせ、着地する。柔軟な身体、すばらしい身のこなし、強烈な斬撃、神速の動きである。
名を成すにつれて同行することが多くなったにい也が縦横無尽に跳び回るのにつられるというのもある。
しかし、<パンジャ>のテーブルから離れるということは操縦しなくなるということだ。勢いよく走って行く<パンジャ>は、さえぎるもののない平原か、柔らかな草でホイールが絡めとられたのならまだしも、時には木や岩にぶつかることもあった。そうなると破損の原因となる。
相棒が破損した際には、仕方がないこととは言え、フェレ人は円らな目を潤ませて落ち込んだ。にゃん太に、あるいは羊彦やうさ吉に、<パンジャ>が持ち込まれる。
「これは、いちから作り直した方が良いかも」
「壊れたらバージョンアップした<パンジャ>を使う時機がきたんだと思えば良い」
「腕が鳴るぜ!」
そんな風にして、<パンジャ>はどんどん進化を遂げた。
二代目三代目と改良された相棒が、フェレ人の傍らにあったという。