第四楽章〜笑えない竪琴弾きと同じ孤独を抱える者へ
クレールが五歳の頃の話である。
ルグラン邸は、町の中心から少し外れた所にあった。
楽器の音が響いても良いように、他の家々とは離れた場所に建てられたのだった。
家の周りは広い草むらに囲まれていた。
その草むらで、クレールはいつものように竪琴を弾いて遊んでいた。
「おうまさーん、でておいでー」
クレールが竪琴を弾きながら歌うと、目の前にぼんやりとした光が現れ、やがて一頭の白い馬になった。
「おうまさーん……とんでけー」
クレールの歌に合わせるように、馬の背からは大きな白い翼がばさりと音を立てて生えた。
馬は生えたての翼を慣らすようにゆっくりと何度か上下させてから、草むらを走り出した。
翼の羽ばたきは徐々に速くなり、やがてふわりと浮かぶと、高い空を軽やかに駆け昇っていった。
その様子を見ながら、クレールはけらけらと笑い声を立てた。
「つぎは、んーと……うしさーん、でておいでー」
クレールが歌うと、今度は光の中から茶色の牛が現れた。
「うしさーん……とんでけー」
牛の背からは、先ほどの馬と同じような白い翼が生え出した。茶色の牛に似合っているとは言い難かった。
牛は背中がむず痒いのか、届かない尾をピシピシと振り回すと、ブモォーウと一鳴きした。
不恰好にばさばさと翼を羽ばたかせながら辺りを駆け回ると、やがてふわりと浮かび、そのまま空に向かってのそのそと駆けて行った。
クレールは、空を見上げてまたけらけらと笑った。
その時、クレールの後ろで大きな声がした。
「うわぁ!!!馬が飛んでる!」
「見てあの馬、羽が生えてるわ!」
「牛も飛んでいったよー!」
突然の声に驚いたクレールが振り返ると、十歳くらいの子供たちが三人、ポカンと口を開けたまま空を見上げていた。
馬と牛が見えなくなると、三人は口を開けたまま、今度はクレールを見た。
「……さっき飛んでいったの、君んちの馬?」
一人の男の子が、最初にクレールに話しかけた。
「いーなぁ、うちの牛には羽なんてないや」
もう一人の男の子がうらやましそうに言った。
「羽の生えた馬なんて初めて見たわ……!ねぇ、あなたの馬なの?」
女の子は目を輝かせながらクレールに尋ねた。
急に見知らぬ三人の子供たちから矢継ぎ早に話しかけられ、クレールは緊張しながらもおずおずと答えた。
「……おうちのじゃないよ、つくったの」
「作った?どうやって??」
クレールの返答に、三人は首を傾げた。
そこでクレールは竪琴を膝に乗せると、先ほどと同じように弾き歌い始めた。
「おうまさーん、でておいでー」
もやもやとした光から、今度は毛艶の良い栗毛の馬が現れた。
三人は目を大きく見開き、馬をまじまじと見つめた。
「……うわぁーすごいや!ほんとに作ったんだ!!」
「おうまさーん……とんでけー」
馬の背中から栗毛色の羽が生え、力強い足取りで草むらを駆け回ると、大きく翼を動かし空へと飛んで行った。
「飛んだ!馬が飛んでったぞー!!」
三人は空高く飛んで行く馬を見ながら口々に歓声を上げた。
「すごいね君!ほんとに馬が作れちゃうなんて!!」
「今度僕んちの牛にも羽作ってよー」
「ねぇねぇあなた、何ていうお名前?」
「…………ク、クレール……」
これまで姉妹以外の子供と接する機会のなかったクレールが戸惑いながら名乗ると、三人はますます興味深そうにクレールの顔を覗き込んだ。
「ねぇねぇクレール、今度お友達を連れてきてもいい?」
「隣町のいとこも呼んでくるよ」
「今度は僕んちの牧場にも来てよー」
「…………う、うん!」
三人の嬉しそうな顔を見るうち、クレールも何だか嬉しくなって元気良くうなずいた。
家族以外に遊び相手のいなかったクレールにとって、それは初めて出来た友達だった。
クレールの返事に、三人はわぁっと歓声を上げた。
「ありがとうクレール!また遊びに来るね!」
「また羽の生えた馬見せてね!きっとよ!」
「僕んちの牛にも羽作ってね!」
「……う、うん!まってる!」
「じゃあまたねー!」
子供たちはクレールに手を振りながら去って行った。
クレールも精一杯手を振りながら、三人の後ろ姿がどんどん小さくなり、やがて見えなくなるまで見送った。
その夜、クレールは興奮してなかなか寝つけなかった。
またあの三人に会えると思うと、胸がわくわくして今にも飛び起きそうな気持ちだった。
今度はどんな動物を作ろう。三人はどんな動物が好きだろう。男の子の牛にも羽を作ってあげなくちゃ。
あれこれと思いを巡らせながら、クレールは初めて感じるくすぐったいような幸せな気持ちで眠りについた。
明くる朝。
朝食の支度をしていた母と、本を読みながらそれを待っていた父は、家の外から突然飛び込んできた子供たちの大合唱に度肝を抜かれた。
「クレーーールーーーーー!!!!!」
何事かと母が扉を開けてみると、そこには驚きの光景があった。
「……まあぁぁぁ……!一体どうしたの、あなたたち……!?」
そこには見渡すかぎりたくさんの子供、子供、子供。
どこから集まったものか、ざっと五十人ほどの子供たちがルグラン家の入口を取り囲んでいた。
「こんにちは!クレールいますか?」
一人の男の子が元気よく言った。昨日クレールに最初に話しかけた子供だった。
「え、ええクレールは……まだ寝ているかしら……あなた、クレールのお友達?」
「昨日クレールと約束したの。また空飛ぶ馬を見せてくれるって」
男の隣に並んだ快活そうな女の子が言った。
「空飛ぶ馬……?」
「何の騒ぎ―――…………!?……な、なんだ一体……!?」
首を傾げる母の後ろから、何事かと顔を出した父が絶句した。
「僕んちの牛にも羽つけてくれるって言ってたんだ」
「ほんとにそんなことできるの?僕も見たいなぁ」
「ねぇクレールいつ起きてくる?早く歌って見せてよ」
子供たちが口々に騒ぎ始めた内容から、両親は次第に事態を理解し始めた。
「クレール!早く出ておいでよー!」
「ねぇおじさんクレール連れてきてよー」
困惑する母を押しのけ、父が家の外に出た。
そのままつかつかと進み出ると、群がる子供たちに向かって地鳴りのようなバリトンを轟かせた。
「―――とっとと帰れ!!うちは見世物小屋じゃない!!!」
額に青筋を立てて一喝する魔王のような権幕に、子供たちの顔は一斉に青ざめ、
恐れをなして悲鳴を上げながら散り散りになって逃げて行った。
その一部始終を、クレールとベアトリスは子供部屋の窓からそっと見ていた。
普段は寡黙で温厚な父が怒鳴る姿を、二人はその時初めて目にした。
「お父様があんなに怒るなんて……クレール、何しちゃったの……?」
ベアトリスが心配そうに尋ねたが、クレールは唇を震わすだけで何も言えなかった。
その時から、父はクレールに人前で幻影を見せることを固く禁じた。
人に見せれば碌なことにならない。お前も周りの誰も幸せにならない。だから決して見せてはいけない、と。
クレールは素直にうなずいた。
幸いにも、クレールの噂が町に広まることはなかった。
実際に見たのは初めの三人だけだったし、空飛ぶ馬を見たなどと言ったところで、大人たちは子供の戯言と相手にしなかったのだろう。
初めに会った三人も他の子供たちも、クレールを訪ねて来ることはもうなかった。
それからずっと、クレールはひとりぼっちだ。
クレール自身、あの一件で他人と関わることが怖くなってしまっていた。
うちは見世物小屋じゃない―――父の言葉が、胸の奥にずっと巣食っている。
友達になれたと思っていた。けれど、あの子供たちは違ったのだろうか。
彼らにとって、自分は珍しい芸をする見世物でしかなかったのだろうか。
喜ぶ彼らの顔をみて、幸せな気持ちになったことは間違いだったのだろうか。
いつしかクレールは、他人に心を開けなくなっていた。人前で心から笑うこともなくなっていた。
見世物小屋じゃない―――か。
もし今夜お父様が怒鳴れば、あの時以来になるだろうな。
テーブルの木目を見るともなく眺めながら、クレールはぼんやりと考えていた。
ルグラン家の食卓では今まさに、音楽祭での一件を巡る家族会議が始まろうとしていた。
「……クレール、一体どういうつもりなの?」
向かいに座るベアトリスの声は、裁判官のように冷徹だった。
「なぜあんなことを……よりによって大事な音楽祭で……」
思い出したくもないとでも言うように、ベアトリスは額に手を当ててうつむき気味に顔を逸らした。
その後ろで、母がお茶を淹れながらとりなすように言った。
「でも何とか丸く収まって良かったわね。教会で誉められちゃったのよ、伯爵家のお手伝いさんに。さすがはルグラン家のお嬢さん、あの場を取り仕切って立派に演奏をこなされるなんて、って」
こんな時にも母は至って呑気な調子だった。
しかし事実、この一件でルグラン家は思いがけず評判を上げることとなった。
あの大広間中の誰もが混乱する中で事態を収束させ、音楽祭を完遂させたとしてルグラン家、とりわけベアトリスの度胸は貴族たちの間でも一目置かれることとなったのだ。
この周囲の評価にはベアトリスもまんざらではなかった。
もっとも、あの騒動が誰の仕業かわかっていたからこそ冷静に振る舞えたのではあるが。
「伯爵夫人もお気の毒だこと……ご心労で体調が優れないご様子だし」
母の言う通り、町には伯爵夫人が病床にあるとの噂が流れていた。
実際は、ほとぼりが冷めるのを待っているのだろう。頻繁に開かれていたサロンもしばらくは控える意向のようだ。
そしてあの日以来、ジョーヌの町でフェルナンの姿を見かけた者はいない。そのまま町を出たようだった。
騒動の場から逃げ出したことでフェルナンはすっかり悪役扱いとなり、相対的に伯爵夫人には哀れみの眼差しが向けられるようになっていた。
いつしか世間の風潮は、“悪い吟遊詩人にそそのかされた哀れな伯爵夫人”という図式になっていた。
事を穏便に済ませたい伯爵家にとって、これは好都合だった。
そもそも、あの場に現れたのはあくまでも幻なのだ。疑念はあれど、事実だという証拠はない。
世間体もあってか、ルロワ伯爵も離縁を言い渡すまでには至らなかった。
しばらく経てば、人々の話題に上ることもなくなるだろう。
伯爵夫人の短い恋は、本当に幻になろうとしていた。
「それにしても……クレール、あれ本当なの?」
ベアトリスもやはり興味はあるようで、探るようにクレールに聞いた。
「……一つ目は本当よ。あの日庭で見たんだもの」
「じゃあ……二つ目は……」
「二つ目は……知らない」
「知らないって何よ」
「知らないんだもの本当に。あんな部屋見たことないし」
二つ目に現れた寝室の幻影はクレールにも謎だった。全く見覚えのない光景だったのだ。
「あなた以外に誰の仕業だっていうのよ?二人のことは他の誰も知らなかったようだし」
「他には……」
他に知っている者といえば、まずは本人たちである。
そういえばあの直前、伯爵夫人と目が合って、クレールは妙な感覚に襲われたことを思い出していた。
何か、身体が自分のものではなくなるような。
もし、目が合ったことと関係があるのなら……あの光景はもしかしたら、伯爵夫人の―――
「―――とにかく!今はそんなことどうだっていいのよ」
ベアトリスの言葉で、クレールの意識は再び家族会議へと引き戻されてしまった。
そしてここまで、父が一切言葉を発していないことがクレールには気がかりだった。
普段から寡黙な父ではあるが、今日は確実に怒られると身構えていただけに、何も言わないことが逆に恐ろしくて仕方なかった。
「それにしても衝撃だわぁ〜フェルナン様が伯爵夫人とあんなことになってたなんて……」
エミリーはテーブルに肘をつき、組んだ手に顎を乗せた。百年の恋も冷めたといった様子だった。
「だって何歳離れてるのよあの二人……恥ずかしくないのかしら」
エミリーがそう言うと、ベアトリスがすかさず反論した。
「歳は関係ないわ。色仕掛けで援助をもらおうとしてた事が音楽家として恥ずかしいわよ」
「ベアトリスだって援助のために伯爵や夫人に媚びへつらってたじゃないの」
クレールがすかさず反論すると、ベアトリスは思わず声を荒げた。
「単なる社交辞令の範囲でしょ!?色仕掛けなんかと一緒にしないで!」
「同じよ。お金のために何言われてもへこへこするなんて自分に恥ずかしくないの!?」
「なんですって!?好き放題やって生きていけるとでも思ってるの!?まったくどこまでも子供なんだから!!」
クレールの中で、何かが弾けた。
ずっと、ずっと胸の奥に押し留めてきた思いを、今なら言えるかもしれない。
言ってしまえ。全部。
もしかしたら何かが、変わるかもしれない―――!
「……自分に誇れない仕事やって生きていくなんて死んだも同然じゃない!私は嫌……誰も聴いてやしない歌を、自分に嘘ついてまで歌うなんてもう嫌なの!私は……私の歌を本当に必要としてくれる人のために、本当の気持ちを歌いたい!本当の歌が歌いたい!!」
―――ドンッッッ!!!
「……そんなに好きな歌だけ歌いたいなら、野っ原ででも歌ってくればいい!!!」
拳でテーブルを叩く鈍い音と、父の怒りのバリトンが部屋中に轟いた。
久し振りの父の一喝は効いた。
その後は誰も口を開かず、家族会議は有耶無耶のままお開きとなった。
―――
まだ夜の明けきらないうちに、クレールはミモザの丘に来ていた。
背には竪琴、手には最低限の荷物を持って。
真昼は金色に輝いていたミモザの花も、今は薄青く染まり夜風に揺れていた。
東の空はうっすらと白み始めていた。この時間から出発すれば、夜までには着けるだろう―――アルジョンテに。
本当に必要としてくれる人のために、本当の気持ちを歌いたい。
夕べ家族に初めて告げた思いを、クレールはもう抑えきれなくなっていた。
きっと、どこかにいるはずなのだ。
自分と同じ孤独を抱えた人が。
自分のように他人に心を開けない人が。心から笑えない人が。
そんな人の心が、自分にはよくわかる。
そんな人のために、この竪琴を鳴らしたい。
ひんやりとした風がツンと鼻に抜ける。何か新しい世界が幕を開けるような新鮮さに満ちた匂いがした。
「歌ってやるわよ、野っ原で」
不安な気持ちを打ち消すように、クレールは強気な口調で独り言ちた。
アルジョンテに何か当てがあるわけではない。どうせ家を出るなら、憧れの地を目指そうと思ったのだ。
アルジョンテなら、行く当てのない竪琴弾きでもきっと受け入れてくれるだろう。
アルジョンテなら、本当に自分の音楽を必要としてくれる人に出会えるかもしれない。
クレールの胸には不思議と、根拠のない期待が満ちていた。
―――きっと、大丈夫。私は私の音を奏でればいい。
クレールは竪琴を背負うと、アルジョンテを目指して歩き始めた。
まだ見ぬ誰かに向けて、この竪琴を鳴らすために。