第二楽章~悩める竪琴弾きと貴婦人の秘密
伯爵夫人のサロンでの不本意な仕事をやり過ごした夜、クレールは自分の部屋で竪琴を弾いていた。
一日の終わりに、気兼ねなく自作の曲を歌うのがクレ―ルの息抜きであった。
―――まるで籠の中 捕らわれた小鳥のよう
クレ―ルが歌い始めると、目の前には薄っすらと光が現れ、やがて鳥籠とその中にいる小鳥の姿が浮かび上がってきた。ぼんやりとしていた幻影は、次第にくっきりと鮮やかな色形を成していく。
―――同じ景色 眺めるだけの日々
浮かび上がる幻影は昼間の光景へと変わる。
豪奢な調度品や絵画が飾られた大広間、演奏そっちのけで談笑に興じる貴婦人たちが、まるでその場に実在するかのように立ち現れた。
歌いながら思い浮かべた情景が幻影となって立ち現れる。家族の中でクレ―ルだけが持つ特殊な力であった。伝え聞くところによると、父方の曾祖母からの遺伝らしい。
人前で観せることは父から固く禁じられていた。何かと面倒なことはわかっていたので、クレールもそれに従っていた。
ただ、辛いとき、嫌なことがあったとき、逆にとても嬉しいことがあったとき、誰もいない場所でこっそりと好きな歌を思いきり歌って、自分だけの幻影上演会を開くのがクレ―ルの密かな楽しみであった。
―――この声は深い痛みも癒せるはず 遠くまで届けるの 闇に迷う誰かのもとへ
この歌を誰かに届けたい。人生に迷う者へ。不遇に打ちのめされそうな者へ。私と同じ孤独を抱えた者へ。
それなのに現実は、何不自由ない暮らしの中で恵まれすぎて退屈な人生を送る者たちへ、聴かれることもない歌を垂れ流すだけの毎日。
こんな消耗されるだけの薄っぺらな音楽ばかり弾いていたら私まで擦り減ってしまいそう。
私にはもっと奏でたい音がある、伝えたい歌があるのに……
「うわっ!!!」
突然の大声に驚いたクレ―ルが振り向くと、ベアトリスが部屋の前で腰を抜かしていた。
色鮮やかな幻影たちは、さらさらと風に舞う砂のように崩れ落ち消えていった。
「ちょっと、びっくりするから変な幻出して遊ばないでちょうだい」
「そ、そっちこそノックもなしに入ってこないでよ。何の用?」
「ノックしたわよ失礼ね…お父様がお呼びよ。演奏会の出演依頼ですって」
家族が集う部屋の大きなテーブルでは、父が食前の葡萄酒を嗜んでいた。すでに席についていたエミリーの隣に、クレールとベアトリスも座った。
三姉妹が揃ったところで、父はおもむろに話を始めた。
「ルロワ伯爵が近々、若い音楽家を集めた音楽祭を催すそうだ。新しい才能を発掘しようという主旨らしい」
ルグラン家の当主ジョゼフはジョールの町の中央にある大教会の合唱長を務めており、町では一目置かれた存在であった。
町の有力者であるルロワ伯爵とは旧知の仲であり、ルロワ伯爵主催の演奏会などには度々呼ばれている。伯爵夫人であるマチルダのサロンに三姉妹が呼ばれたのも、父の縁故があっての事だった。
「音楽祭には来賓としてバルザミン公爵がいらっしゃるとの事だ」
「バルザミン公爵……って、たしか王族の遠縁に当たる方よね」
ベアトリスの言葉に父がうなずくと、ベアトリスは大きく目を見開いた。
「バルザミン公爵の目に留まれば、ゆくゆくは王族の方々にお目にかかれる機会があるかもしれないわ……うまくいけば、お父様が宮廷楽長に任命される、なんてことになったりして……!」
ベアトリスは夢のような展開を思い描いて空を見上げた。
また暇を持て余した貴族たちにお決まりの曲を演奏するのか……と、クレールは早くもうんざりしていた。
ベアトリスの夢物語にも表情を崩すことなく、父は続けた。
「ここでお前たちが功績を残せば、遠方の貴族から声がかかる事があるかもしれん。バルザミン公爵の領地であるアルジョンテの演奏会などにも―――」
「アルジョンテ!?」
クレールが思わず声を上げると、父は驚いたように目をしばたたいた。
「どうした急に」
「い、いえ何でも……」
クレールが口ごもる横で、ベアトリスは声高らかに宣言した。
「お父様、私たち必ずやこの音楽祭を成功させます!ルグラン家の繁栄のために!!」
椅子から腰を浮かせ、握りこぶしに力を込めた姿は既に臨戦態勢といった雰囲気である。
「そうか、よろしく頼む。他にも実力ある音楽家が多数出演するそうだ。隣町で評判のアンドレ兄弟、近頃この町でも話題の吟遊詩人フェルナン―――」
「ええぇ!!フェルナン様も出るの!?」
それまで退屈そうに聞いていたエミリーが突然大声を上げ、父はまたしても目をしばたたいた。
「またフェルナン様を間近で観られるなんて……私出る!絶対に出るわ!!」
エミリーは完全に目的を誤ってはいるものの、ベアトリスに負けないくらいやる気に満ちていた。
「若い人たちはいいわねぇ活気があって」
母マリアンヌは夕食の支度をしながら、盛り上がる娘たちをのほほんと眺めていた。
「クレール、エミリー、そうと決まれば今日から猛練習よ!」
ベアトリスはさっそく妹たちに指令を飛ばした。
「……いいけど、別に」
気のない素振りでそう答えたクレールだったが、アルジョンテと聞いて、密かに心は浮き立っていた。
――――――
音楽祭当日。会場となるルロワ伯爵邸に着いた三姉妹は、出迎えた侍従に控え室へと案内された。
控え室には多くの出演者たちが待機していた。エミリーは部屋中をくまなく見回してから言った。
「あ―んフェルナン様がいないわぁ。でも良かった、いたら緊張しちゃうもの」
「残念なのか喜んでいるのかどっちなの」
エミリーの言動に、複雑な乙女心を持ち合わせていないベアトリスはただ呆れるだけだった。
出演者たちは音出しをしたり、楽譜を見直したりしながらそれぞれの出番を待っていた。どの出演者も澄ました顔をしてはいるが、その裏側にはここで爪痕を残さんとする激しい闘志が見え隠れしていた。
その空気に、クレ―ルは息苦しさを覚えた。
「ちょっと、お庭を散歩してくる」
そう言うなり、姉妹を残してそそくさと控え室を出た。
庭に出る扉を探しながら、クレールはぼんやりと考え事をしていた。
(みんなどうしてあんなに殺気立ってしまうんだろう……認められたい気持ちはわかるけど、それは私にだってあるけど、でも……音楽って、闘うものじゃないのに、ただ自分の気持ちを乗せて、それを必要とする誰かに届けたいだけなのに……どうして競うような気持ちになってしまうの?そもそも何を基準に優劣が決まるっていうの?こんな所で……私、誰のために、何のために歌えばいいの……?)
うつむいて歩くクレールの目の前にふと、黒い靴を履いた足が現れた。
ゆっくりと顔を上げると、そこには見覚えのある金髪の男が立っていた。
「おや、ルグラン家の……クレールといいましたね。どうしました?こんな所で」
(げっ!フェルナン……!)
突然の登場に、クレールは思わずのけぞった。
「またご一緒できるなんて光栄です。あなたの竪琴、楽しみにしていますよ」
以前と同じくにこやかな笑顔を向けるフェルナンを前に、クレールは内心慌てふためいていた。ここにはベアトリスもエミリーもいない。この前ベアトリスに叱られたし、またしても無愛想な振る舞いではさすがにまずい。しかしどうすれば……
(な、何か言わなくちゃ、何か…………)
「あ、あの…………」
「?」
不思議そうな顔で、フェルナンは次の言葉を待っている。
「あ………………アルジョンテ、って……どんな所ですか……?」
「………………???」
思いもよらぬ話題を振られ、フェルナンはきょとんとした顔でクレールを見つめた。
(うっ!しまった……!変なこと言っちゃったかも……)
ますますうろたえるクレールを前に、意外とでも言いたげな表情でフェルナンが口を開いた。
「へぇ……アルジョンテに興味がおありなのですか?」
「…………は、はい……どんな所か……知りたくて…………」
「そうですね……その昔は戦いの多い城塞都市だったようですが、平和になった今は商業と芸術が盛んな街ですね。大きな広場では画家が絵を描いていたり、吟遊詩人が演奏していたり、夜はあちこちの酒場から歌ったり踊ったりする音が聞こえて……とてもにぎやかですよ」
フェルナンの言葉を聞きながら、クレールはまだ見ぬアルジョンテの街を思い浮かべていた。
「演奏会などもたくさんあるし……そうだ、いつかご一緒することがあれば、その時はアルジョンテの街をご案内しましょう」
「え……」
「おっと、そろそろ控え室へ戻るとしますね。それではまた」
最後に極上の笑顔を残して、フェルナンは去って行った。
(……ど、どうしよう変に思われたかな……でもとりあえず無愛想な態度ではなかった、はず……)
苦手な相手との遭遇をどうにか切り抜け、クレールはほっと胸をなで下ろした。
(それにしても、フェルナンと二人で話したなんてエミリーが知ったら烈火のごとく怒りだしそう……)
ふと、庭に出ようとしていた事を思い出してクレールは窓の外を見た。
すると、窓の向こうにぼんやりと背の高い人影が見えた。
(あれ……フェルナン?控え室に行ったんじゃ……)
フェルナンらしき影は注意深く辺りを見回すと、物置場と思しき簡素な小屋の裏へと消えた。
何となく気になる、怪しげな仕草だった。
後を追ってみたくなったクレ―ルは、近くにあった扉から庭へと出た。
足音を立てないようにゆっくりと小屋に近づくと、そっと裏を覗いた。
そこにはフェルナンと、きらびやかなドレスを身に纏った女性の姿があった。
一見したところ、母と息子ほどの年齢差があるように見える。
(あれは……伯爵夫人?)
先日フェルナンと初めて会ったサロンの主催者、伯爵夫人マチルダの姿がそこにあった。
「フェルナン、約束通りあなたの事をバルザミン公爵に推薦するよう夫にはお願いしておいたわ」
「貴女のような、芸術を深く愛する慈悲深い聖母のような女性に出会えてこの上ない喜びです、伯爵夫人」
「私の方こそ……!私、何だか恥ずかしいの……貴方に出会えて、初めてこんな気持ちになってしまって。こんな……少女のような……」
「ええ、貴女はまるで少女のように可愛らしい。伯爵夫人……いえ、マチルダ」
「……フェルナン……!」
二人はしばらくの間見つめ合い、そして、ゆっくりと顔を近づけた―――
(………………!!!!!)
突如目の前で起こった衝撃の光景に、クレ―ルは踵を返すと一目散に控え室へと走った。
庭を駆け抜けながら、クレールの頭はひどく混乱していた。
(何あれ…………何なの?どういうこと?約束通りって……バルザミン公爵に推薦って…………あいつ、あんなやり方で貴族たちに取り入ってたわけ?あんな色仕掛けで、吟遊詩人がここまでのし上がってきたってわけ!?)
驚きと呆れと怒りとその他諸々の感情が、クレールの中をぐるぐると渦巻いていた。
(冗談じゃないわ!真面目にやってるこっちが馬鹿みたいじゃないの!こんな所で、誰のために、何のために歌えばいいかなんて……誰かに何かを届けたいなんて……悩むだけ無駄だった!!)
控え室の扉の前に着いた時、渦巻いた感情はやがて静かな深い絶望へと変わっていた。
いつもと同じ。何歌ったって、誰も聴いてなんかいない。
貴族の好きな薄っぺらな歌と同じ。恋だのなんだのって綺麗事言ったって、ここにあるのは、ただの醜い欲と嘘のかたまりだけだ。