第一話 冗談にも程がある。
ジャンマルコは今年二十歳の青年だ。この国ではよく見かける焦茶の短髪に褐色の肌。ただ一つ珍しい点を挙げるとしたら表情だろう。周りからの印象は常に笑顔を絶やさない好青年。しかしその髪色と同じ茶色の瞳は暗く濁っており、至近距離で微笑まれた者は皆委縮するような恐ろしさがあった。まるで“死”を垣間見たかのような。それ故、彼はあまり人に好かれていない。が、それを哀しいとも寂しいとも思ったこともなかった。
夜明け前に自宅に戻りさっき就寝したばかりだというのに、さっそく邪魔者の気配を感じてジャンマルコは気だるげに身を起こした。その直後、玄関の扉が叩かれる。彼が住む家は狭く、たったの二部屋だ。しかしジャンマルコはこの閉塞感が心地よかった。
「ジャンマルコ・デ・ニコラ! 司教様がお呼びだ。直ちに支度をしろ」
突然の来訪にも関わらず偉そうな客人に唾を吐きたくなる。
「すぐに伺いますと」
「……チッ、急げよ!」
おやまぁ、高尚なる聖職者が舌打ちとは。ジャンマルコは喉の奥でくつくつ笑った。それから白の寝衣から黒のローブを手に取る。まったく、先ほど着替えたばかりだというのに。と思ったら血の跡を見つけてゲッと毒つく。
(まぁ……よく見なきゃ気づかないことも、ない、か? うん。黒だしな。よし)
別に正装はそれしか持っていない訳ではないが、彼は極度の面倒くさがり屋だった。寝る前に無造作に放っておいたそれに着替えると家を出る。
(あー……朝日が眩しい)
司教になぜ呼ばれたかはだいたい予想はつく。が、出来れば少しくらい寝かせて欲しかった。
「おお、来たか」
「おはようございます。お待たせして申し訳ございません」
辿り着いた聖堂にて、取り巻きに囲まれる司教に深く頭を下げる。
「畏まる必要はない。顔を上げなさい。悪いが彼と二人きりにしてくれ」
後者の台詞は取り巻きに向かって言ったものだ。これから話す内容を知られる訳にはいかないのは解る。が、もう少し要領よく話し合いの場を設けられないものか。おかげで司教様のお気に入りとやっかまれてとても面倒な目に遭っている。なんなら夜中寝室にでも忍び込んでも構わないが、それをするとさすがにオレの首が飛ぶ。物理的に。
「いやすまない。おぬしの顔を見たくなってな」
「私も《《無事》》、司教様のご尊顔を拝したてまつり光栄でございます」
お互いニコニコと腹の内を探らせない会話をする。傍から見たらなんてことのない挨拶として目に映っただろう。
「今後も長く見ていたいものだ」
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
つまり、これからもしくじらず自分に尽くせという意味だ。ジャンマルコは正確に意図を察して微笑む。まったく、人使いが荒い。
「では私はこれで」
「待ちなさい。戻る前に検邪聖省に寄っていきなさい」
これにはさすがに眉をしかめた。マジか。今ひと仕事終えたばかりだぞ?
顔に出たのだろう、司教が可笑しそうに笑った。
「おぬしには苦労をかけるな」
……まったくだ。しかしそれは呑み込み、ただ「いいえ」と首をゆるく振った。
検邪聖省とは、いわゆる異端審問所のことである。最近他国との大きな戦に負けた自国はオーストリアのハプスブルク家の預かりとなった。ルネサンスで栄光を手にしたイタリアだったが、今は神聖ローマ帝国と名乗っている。そして同じく宗教戦争にも敗れ、力が弱まったカトリック教会は、元の権力を取り戻そうと必死だった。その一つが異端の取り締まりだ。異端、つまり異端者とは、キリストの教えから外れた考えを持つ者のことである。この者たちを捕らえ、裁判にかけ、判決を下す場所が検邪聖省である。そして彼、ジャンマルコこそ、その役職に大きく貢献している青年であった。
ジャンマルコ・デ・ニコラは聖職者であると同時に刺客であった。
異端者一人ならまだしも、組織を作っている場合に彼は動く。集団で牙を剥く者たちには裁判の余地なしと見なされ、影で暗殺の命が下されるのだ。礼拝堂の前に捨てられた赤子は物心つく頃にはそう躾けられ、武術の訓練に明け暮れた。そうして今の彼がある。もちろん、彼がその役割を負っていると知っている者は少ない。育ての親でもあるデ・ニコラ氏と、武の師匠、そして司教。検邪聖省の人間でも彼の正体を知っている者は極わずかである。ちなみに育ての親も聖職者であったが、最期まで彼の未来を案じたまま病で早世した。その為に拾ったのではない、名前を与えたのではないと、死ぬまで抗議してくれた優しい男はもういない。ジャンマルコが十六の時だった。彼の死に際に立ち会うことを許されなかったジャンマルコは、彼の死は己のせいだと後悔した。手を汚す自分を哀れみ、上に苦言を呈していたせいだと。そのせいで排除されたのだと。
大切な人を護れなかった悔しさ、哀しみ、そして怒りを一度に味わったジャンマルコは、今日も従順なふりをして仲間を裏切る。――彼はとっくに神を見限っていた。
検邪聖省を訪れると人垣が割れた。
「おう、来たかマルコ」
「いつも言ってますけど、勝手に人の名前を略さないで貰えます?」
「だってなげーんだもんお前の名前。それより次の仕事だ」
太い眉と大柄な体躯に反して中々茶目っ気のあるこの男は、ジャンマルコの上司にあたる。そして上からの命を彼に下すのも、またこの男の役目だった。
「一応オレ、朝方まで仕事だったんですけど」
若干くだけた口調になるのは、珍しく素の自分を見せられる相手だからだ。
「俺に文句垂れても仕方ないだろ。ほら、これが次の標的だ」
男から受け取った紙を広げる。次は誰を殺せというのか。本当に人使いが荒い職場だ。眠そうな目でそこに書かれている字を追っていたジャンマルコは一度目をつむった。どうやら起きながら夢を見たようだ。一人納得し、再び目を通しても変わってない中身に思わず紙を握りしめる。
「おいおい、一応特命だぞそれ」
「すみません。あまりにもふざけた内容に我慢が出来ませんでした」
「……まぁ、気持ちは解らんでもないが」
「なぜオレがパリに行かなければならないんですか。しかも神父見習い? は?」
要約すると、パリで立ち上がった悪の教団を潰して来い。という内容だ。
「うちでもいっぱいいっぱいなのに、他所の面倒まで見てる場合っスか」
「俺もそう思うが、その教団がやってることが、えらく法王様の癇に障ったらしくてな」
「法王様の?」
ローマ法王はカトリック教会の最高位の聖職者であり、その権力は他国の王をも凌ぐ。更に民衆から選ばれることもあり、誰からも慕われる人柄も持ち主だ。そんなお方を怒らせるなんてよほどの事態である。
「確かあっちも内紛が終わったばかりじゃないですか。いったい何やらかしたんですか」
「ちょっと耳かせ」
聞かれたらヤバいほど? え? そこにオレ単身で向かえと?
大人しく耳を貸すと、これがまた信じられない内容だった。
「はああああ? 人が人を創ってるうううう?」
「おまっ、静かにしろっ。人払いはしてはいるが安心はできん」
「いや、どうせ聞かれても、は? で終いですよ。何ですかその馬鹿げた話は。ありえませんって」
「ただの噂ならそれで構わない。しかし人は神の子であるべきだと法王様がお怒りなんだ。パッと行って真相を掴んで来てくれ」
「いや、潰せって書いてありますけど」
「本当にそうだったら遠慮なく潰して来い」
「嘘でしょ」
そんな馬鹿げた噂で国境を越えるとか。
「だいたいこの神父見習いって何ですか」
「あっちでのお前の身分だ。パリでは今聖職者が不足しているらしいしな。そこでお前をうちから派遣した。という設定だ」
「初めて聞きました」
「ついでにもう早馬で知らせは行っている筈だ」
「初めて聞きました」
「喜べ。最高権力者の直筆サイン入りだ。万が一にも断られることはないぞ」
「出来れば聞きたくありませんでした」
に、逃げ場がねぇ!
ジャンマルコは頭を抱えた。
「たまには殺伐した日常から離れて、若者らしい青春を謳歌して来い」
「怪しい教団が跋扈する国でどう謳歌しろと!?」
さすがに男も同情しているらしい。何か出来ることはあるか? と訊かれたから「代わって下さい」と答えれば秒で断られた。
こうしてジャンマルコはパリへ旅発つ羽目になった。
(ただの噂ならいい。けど)
もし本当なら完膚なきまでに叩きのめす! オレを面倒ごとに巻き込んだ罪は重いぞ!
もう一度言おう。ジャンマルコ・デ・ニコラは、極度の面倒くさがり屋である。