太陽がみえない
『カゴノ、コトリ』との関連作品になります。先に御一読戴ければ幸いです。
「みっちゃん、ごめん」
一体、何度聞いた台詞だろう。私の冷ややかな視線を浴びると、条件反射のように出でくる彼女の十八番の決まり文句。私はその台詞を耳にすると溜め息を吐く以外、もうどうしようもない。
私達は解りあっていると、この光景を目にするまで本気でそう思っていた。
今までにも何度か疑問符が頭上に浮かぶことは多々あったけれど、それでも打ち消して信じてきた。
なのに、彼女ときたらどうだろう。私の彼女に対する態度は、何一つ間違ってはいない筈なのに。まるで虐められたような視線を此方に返してくるではないか。
いつもと同じように、許しを乞うだけの偽りの眼差しを。
今私は疲れて仕事から帰宅した。帰宅した其処に、彼女がいた。
彼女がいるだけならよい。例え彼女が下着姿であろうと、私もそう冷たくはしないだろう。
彼女には家の合い鍵を渡していて、放蕩癖のある彼女がいきなり姿を現すことなど、初めてではなかったのだから。
問題は、何故私のベッドに半裸の男が無遠慮に寝息を立てて眠っているかだった。
**********
「みっちゃん怒ってる?」
「怒ってないよ」
「ホントに…?」
彼女さえ素性の知らぬ男を部屋から追い出して、私達はさっきの気まずい空気の余韻の中にいた。
だって此処は私の部屋だ。私のテリトリーをあの男が侵しただけなのであって、逃げる理由もない。
こんな沈黙の中で吸う煙草は不味さが際立つ。彼女は私の機嫌を損ねたことを危惧しているのか、不安そうに小さな声で問うてきた。こういうときにばかり、おどおどとした小動物のような呼吸をするのだ。今日の私には馴れているその癖すら、癪に障った。
そんな彼女を尻目に、私は思いきり紫煙を吐いてやる。失望はしてるけどね、という決して彼女には届かない台詞を織り混ぜて。
「アンタが誰と付き合おうと、それはいいよ。けどね、こんなのはおかしいでしょ?」
「うん…ごめんね?」
「謝るくらいなら、最初からこんなことしないでよ。私が今、どんな気持ちかわかる?」
苛立ちが表立って、語尾がきつくなっているのに自分でも気が付いていたが、抑えられない。私がただ怒っている、と彼女が思い込んでいるのが目に見えて判ってしまえば尚更だ。
「うん。最低なことしたって思ってる。みっちゃんが怒るのも当然だと思う」
予想通りの回答に、自身へと空々しい拍手を送る。同時に、酷い喪失感が私を襲う。
これは怒りなんかじゃない。明らかな失望なのだ。
彼女の勘違いを今正すべきか私は考え倦ねてしまうが、おそらくそうすべきではないのだろうと踏み止まる。
彼女は色んな部分が脆すぎる。精一杯虚勢を張って生きている彼女に、真の強さを見出すことなど僅かにも出来ない。少なくとも、私には。
「もういいよ」
本当は何も良くなんかなかった。けれど私はこの一件を放棄することにした。
私が失望しているという事実と、それに気付こうともしない彼女。だから私は匙を投げたのだ。理解を示そうとする意欲すらみせない相手に問題提起したところで、何の意味があるものか。
「私、何か飲み物買ってくる。先にお風呂入ってなさい。カラダ、冷えたでしょう」
「うん、ありがとう。みっちゃんごめんね」
スリップ姿の彼女はすっかり冷えきった身体を私に巻きつけ、子供のように甘えた声を出した。
冷たい皮膚の下に温かい血が流れている、彼女の小さな躰。私の大切な“彼女”の入れ物。
骨の浮き出た背中に手を回し、ぽんぽん、と軽く叩くと、猫のような仕草で私に絡まったまま、彼女は私の首筋に唇を寄せる。湿り気を帯びた吐息が、彼女の生を感じさせる。
そんな彼女の体温を感じると、私は今という時を余計に感じ、やるせなくなる。
どうして自分はこんなにも彼女に甘いのだろう。何故他の人と接するようにもっときちんと物が言えないのだろう。何をそんなに恐れているのだろう。
そう思ったら、自分が情けなく、途端に不憫になり、鼻の奥がすん、と痛んだ。
**********
近くまでのつもりが、ぼんやりしていた私はいつの間にか深海色した地下に身を潜めていた。
「今日はひとり?」
「ん。あのこ家で待ってる。だからこれ飲んだら帰るね」
素早くカクテルを作ってくれた彼へ合図するように、目の前に出されたグラスを軽く挙げた。いつか彼女に連れてきてもらったクラブはたまに足を運ぶ程度だったが、不快なくらい身体に響く重低音と、特段興味のない音楽と、この場所で唯一好感が持てる、今目の前にいるバーテンの彼との妙な調和が好きだった。
「なんだ、せっかく来たのに。残念だな」
「ごめんね。でも待ってるから。って、寝てるかもしれないけど」
「あー、確かに。アイツなら寝ちゃってるかもね」
彼と私は静かに笑いながらお互い肩を竦める。私は彼の台詞に少し気持ちが楽になった。彼は彼女の性格を他の人よりはよく知っている。だから私は今此処にいるのかもしれない。
「大変だね」
「え?」
「アイツのお守りだよ」
「好きで一緒にいるのよ。お守りなんかじゃないわ」
「うん。だから余計に勿体ない。周りには隙を窺ってるのが沢山いるのに」
そう言って、彼は眉尻を下げながら零した。そんな彼の労うような微笑みが私が一番気に入るところだった。きっと、彼のような笑顔を見せる人と同じ時を過ごしていれば幸せなんだろう。そして同時にそれは決してそうではないとも思う。今でなければ決してそんな風には思わない。今、私が抱えている喪失感がなければ。
深い海の中で人工色の青が際立つチャイナ・ブルーをほとんど一気に飲み干すと、私は席を立った。
「今度はゆっくりおいでよ」
「ありがと。近いうちに。またね」
彼につられるように少し微笑んで手を振ったあと、私は別れを告げ、出口へと向かった。すると、今まで背後にあったダンスフロアの方で妙なざわめきが起こっていることに気付く。
あまり騒がしい出来事は好きではない。けれど、人だかりの隙間から見えた、おかしな二人の組み合わせを目にして、何となく側で見てみたくなった。
だらしない服装の緑髪の美しい青年と黒尽くめの服装の、同じく美しい青年。そんな二人にどうしてか近寄ってみたい衝動に駆られた。
人の間を縫って至近距離までどうにか来ると、緑髪の青年は右腹を刺されているのが目に入った。すぐ側では顔をぐちゃぐちゃに歪めて泣きわめく女の子がいる。たぶん、事の顛末は男女関係の縺れというお粗末な内容なのだろう。
「泣くくらいなら最初からやるな、っつうの」
舌打ちしながら血を流す青年は、最低な暴言を吐いた。反面、それはそうだと納得する自分がいて、泣きじゃくる愚かで浅ましい女の子を見ながら、私も血を流す青年と同類だ、と思う。
最低な青年の頭を腿に乗せた真っ黒な青年は呆れた顔をして、それでも慈しむような表情を時々垣間見せながら、素早く救急車の手配を済ませる。
その時、私を襲った感情といったらなかった。何故いきなりこんな風になってしまったのか、自分でもよく解らないでいた。しかし、青年達の言葉を必要としない意思の疎通は私を釘付けにした。そこには、羨望と感動に値するものがほのかに光を帯びて存在していたような気がしたのだ。
「カゴ、ともしてるぜ」
意識が現実に引き戻された時、息も絶え絶えに眼下の美しい青年がそう呟いた。
最初、意味を解せずにいたが、どうやら“カゴ”が彼を支えている青年の名前で、“ともしてるぜ”が“友してるぜ”だということに気が付いた。それに気が付いたのは、苦しそうにそう告げる青年がとても安堵し、愛情に満ちた表情でいたからだった。
程なくして、救急隊員に刺された青年は運ばれていった。騒ぎの大本が去ったフロアに血生臭さを置き去りにして。
さっき刺されたばかりの彼の影がくっきりと残っている深海の底に、現実に残された青年が佇む。温もりが冷めないフロアで一通りの介抱を終えた青年はひとこと、友してるぜ、と呟く。
そして、青年は少しだけ血溜まりのできた床に視線を落とし、その残像を脳裏に焼き付けるよう言葉を置いて何処かへ消えてしまった。私は、まだそこから誰も立ち去っていないような気がして仕様がなくて、二人が去った痕跡からなかなか目が離せずにいた。
深海色のフロア、緑色の髪、白い肌、黒い洋服、真紅の血液、そして、流れる血液。
私の中に住み着いた太陽が突然現れて、すべての色を溶かす、溶かす、融かす。
滅茶苦茶な色彩の配合が、私が頭で勝手に描いた真っ新なパレットの上で共存を始める。不思議な感覚に囚われて、幼子が困惑するような戸惑いを覚えた。
そんな私の目の前には、既に姿を眩ました二人の余韻がいつまでも残り続けていた。
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目に焼き付けられた極彩色を鮮明に脳裏へも流し込んで、私は帰路の道を辿った。
二人の間に流れていた空気。あれこそまさに私が彼女との間に求めていたものだったのだと、自分なりの解答を得る。
激しい嫉妬を覚えたのは、その温度を膚で感じた時だった。私にとって完璧なあの二人が作り出す温さ。彼等はきちんと調和していた。決して同じではないのに、どこまでもずっと一緒だった。
「バカみたい…私、本当に馬鹿だ」
狼狽と敗北感が私を襲って、思わず声が漏れる。
彼女と私は所詮太陽とイカロスなのに、何を勘違いしていたのだろう。
彼等が目に見せて知らしめてくれたことで、私は目を背けていた事実にやっと向き合う。
私はただ太陽に近づきたくて、私の中にそっくりな幻影を描いていた。やがてそれは本物になって、私の胸を焦がした。太陽に近づき過ぎて、結局命を落としたイカロスとまるで同じ末路を辿っているのを知りながら、私は知らないふりをしていたのだ。
そんなことは随分前から承知していたのに、今更こんなに傷つくなんて。
彼女は何も変わってなどいない。出逢った頃からずっとそのままだった。
彼女に私が背負っていた蝋の翼を見抜ける力があったのかはわからない。確かなものは、私に憧憬を抱かせる存在であったことだけだった。ただ、ひたすら。
彼女の心は実に自由であった。そして自分本位であり、見えない寂しさに溢れていた。
そんな彼女が何より大切で愛しく想っていた自分。その終焉があまりに皮肉過ぎて、一笑してしまう。
彼女はきっと、もう眠ってしまっているだろう。
私はたぶん、その安らかな寝顔を見て、そっと瞼に口づけをするだろう。
そうして、彼女が目を覚ますまでその姿をずっと眺めるのだ。
真っ暗闇にはっきり浮かぶガードレールをリズムをつけて軽く叩きながら、まるで愉快なことを考えるようにそんなことを思った。
深海目掛けて墜ちている真っ只中の私は、彼女の骨の浮き出た背中にどうか蝋の翼が生えますように、と有り得ない事を願いつつ、足を速めて真夜中の太陽を目指した。
夜は尚、更けてゆく。