病院にて
真冬の夕方、病院。
窓越しに見えるどんよりとした分厚い曇天は、まるで俺の心情のようだった。
今にも崩れかかって来そうなそれの真下をカラスがわめき声をあげながら飛んで行く。そんなカラスたち睨みながら、薄茶色の廊下を靴底を磨り減らすような重い足取りで進んでいた。
カラスが鳴くとき、人が死ぬと聞いたことがある。もし連中が彼を殺したとしたら、俺はカラスを憎むだろうか。無意味な事だというのは明瞭だし、むしろそんなことを考える自身の精神状態に嫌気がさした。
彼の入院している部屋は六階、奥の右手。部屋を間違えない様に注意深くネームプレートを確認し、目的地の前にたどり着く。
今となっては見慣れたスライド式のドアだった。
鈍く光る銀の取っ手に手をかけて、俺は少したじろいだ。
怖かったのだ。
彼に会う資格なんて、まだ俺にあるのだろうか。
唯一無二の親友、淳一。彼の事故の原因は些細な口論がきっかけだった。口論の内容は確か、進路だ。
高校二年生の秋。
学校からの帰り道、俺達はてくてくと歩きながら将来について語り合っていた。
少子高齢化、リストラ、ブラック企業、話の内容はどれもこれも将来に不安を抱かせるような話題ばかりだった。それでも、友人とする会話というのはどんな内容でも楽しかった。
会話が続く中で、淳一は少し、照れ臭そうに鼻を擦りながら自身の夢を俺に告げた。
「俺さ、将来は漫画家になりたいんだ」
そして俺は、冗談混じりに彼の夢を否定した。
漫画家で食っていくつもりか、もっと他に適した職があるのではないか、そもそもお前そんなに絵を描くの上手かったか、我ながら散々な言い様だったが、淳一のためを思って発言しているつもりだった。
中途半端な覚悟で夢と向かい合っても破滅するだけだというのが、当時の俺の持論だったからだ。
しかし、どれだけ俺が漫画家の夢を否定しても、淳一は夢を取り消そうとはしなかった。否定を重ねる度に、淳一が少し、また少しと悲しそうな顔になる。
いつもの冗談だと思っていた俺は、その様子を見て段々と不安になってきた。まさか、本気で漫画家なんかになろうとしてるのか?冗談だろ?なあ、冗談だと言ってくれよ、なあ。
揺れ動く俺の心情に反して、淳一は真剣な表情になっていた。
しばらくの間やり取りが続き、次第に不安が苛つきへ変貌した。何故淳一は話を聞き入れようとしないんだ?俺は疑問と動揺で頭の中が混乱しきっていた。
いや、違う。いつ人生の谷底へ転落するか分からない朽ちた橋を、我が親友が渡ろうとしている。中年になっても夢を追いかけ、ズタボロになっている彼の姿を想像すると、俺は胸を圧迫されるような途方もない苦しさを感じるんだ。
それだけは避けねばならない。改めてそう確信した俺は、その後勃発した口論でも全く引けをとらなくなった。
淳一は夢を求める自由を説き、俺は現実を生きる義務を説く。
夢か現実かの応酬が続き、口論がピークに達する。我慢の限界を迎えた俺は、怒鳴り散らした。
「現実を見ろ!」
その一言を皮切りに口論は取っ組み合いの喧嘩へと発展した。車や人の往来なんて歯牙にもかけず、髪の毛を引っ張り合い、殴り合い、どつきあった。口の中が切れて鉄の味が広がった。
普段お互いに喧嘩なんてしないから、痛かったし、泣きそうにもなった。それだけなら、十年後、二十年後に笑い話に出来たのだろうか。
淳一の事故の原因は、トラックとの衝突。
頭に血が上っていた俺は淳一を道路へ突き飛ばし、トラックに轢かせ、意識不明にした。
そう。淳一を事故に遭わせたのは、紛れもなく俺なのだ。淳一の語った夢も、命も、全て台無しにしてしまった。
あれからまともに寝付けた日はない。
目を閉じると一番最後に見た彼の笑顔が浮かび、罪悪感と自己嫌悪が心の中で目まぐるしく暴れまわる。
どうしてあの時、と自己嫌悪に陥る度に、決まって頭の中で『どうせお前は悲劇のヒロインを気取っているのだ』『だって自分が間違っているなどと微塵も思ってなかったではないか』『本当はあいつなんてどうでも良かったんだろう?』とどこかの誰かに責められている気がしてならなかった。
暗い思考は底無し沼にずぶずぶとはまってゆくように悪化し、俺は学校に行かなくなった。間接的にしろ何にしろ、親友をあんな目に遭わせてしまった。みんなが否定しても俺にとっては揺るぎない事実だった。
「あのー……」
ふと気が付くと、背後に真っ白な看護服を着たナースが立っていた。
一体何用かと目を丸くしていると、ナースは続けてこう話した。
「先程からずっとお部屋の前に立たれていますが、何かあったんでしょうか?」
「ずっと?」
「ええ、たぶん十分……くらいは」
さっきからナースの目が訝しげだと思っていたが、納得した。随分と長い自己問答をしていたようだ。彼女からすれば俺はまさに不審者だろう。
「そうですか。あの、すみませんでした」
「ああ、はい。それでは」
素っ気ない返事をして、ナースは然程忙しそうでもなく廊下をのんびり歩いていった。
彼女の態度へわずかな苛立ちを覚えたものの、少しだけ緊張感が薄れた。それを機に改めて取っ手を掴み、重い開閉ドアをゆっくりスライドさせる。
目に入ってきたのはピッピッと無機質な音を放つ心電計、天井や床が白で統一された部屋。エアコンの稼働と酸素マスクの音。お見舞いの品々が入っているであろう段ボール箱などの荷物。
そして、ベッドに包帯まみれで横たわる男。
ここは病室だが俺と淳一以外に人は居ない。それは決して彼に人望が無いのでは無く、そもそもこの部屋は個室で、あえて俺が混雑時や彼の両親を避けていた為だった。
「今日も寒いなあ」
そう言って誰かが片付け忘れたのであろうほったらかしの丸椅子に座り込んだ。当然返事は無く、俺はため息をつく。喧嘩して互いに口を利かなかった時も、こんな感じだったろうか。
「……恨んでるよな……」
それから俺は手を組んでみたり、焦ってもないのに貧乏ゆすりしてみたり、部屋をちらちらと観察していた。
ふと視界の端に紙袋を捉えた。
そこまで遠い位置では無かったので、丸椅子から身を乗り出しその紙袋を手繰り寄せる。袋の中には赤いスケッチブックが六冊入っていた。両親が弔いのつもりで家から持ってきたのだろうか。
スケッチブックにはそれぞれ1、2、3…と番号が記され、どれもかなり使い古してある。
「なんだろ、これ」
手に取ったスケッチブックを膝にのせ、赤い表紙をめくる。
「……聖騎士シルヴェスタ?」
でかでかと鉛筆で描かれたタイトルの下に、真っ白な鎧を纏った青年が装飾の施された剣を高らかに掲げている。細部まで描きこまれた達者な絵だ。これなら漫画家も夢では無かったかもしれない。
スケッチブックの中身は、大半が漫画だった。その内容は、悪の組織に拐われたヒロインを助けるため、聖騎士シルヴェスタが仲間たちと共に旅へ出るという話。
道中で現れる強敵、心の悪しき村の住人達、竜の住む山、悪の組織の手先など、様々な困難が行く手を阻む。それを、「こんなものか」が口癖のクールなシルヴェスタ率いる一行が、圧倒的な強さで道を切り開く。
悪く言えばありきたりで、良く言えば王道的な展開だった。しかし、ただの一般人が一朝一夕でここまでの作品を仕上げるのは不可能だろう。画力、コマ割、何をとっても相当研究したに違いなかった。
「……努力、してたんだなぁ」
急に視界がぼやけ、両目から涙が溢れ出す。涙は頬をつたい、スケッチブックを濡らした。
何も、何もかも分かってやれなかった。淳一はただ、俺に背中を押して欲しかったんだ。ただそれだけだったんだ。
震える身を屈め、声を押し殺し、俺は泣いた。ああ、情けない。俺はただ踞ってメソメソ泣くことしか出来ない。後悔を募らせるばかりで、無力な俺はお前に何もしてやれない。
話したい、謝りたい、またもう一度笑い合いたい。
出来ることなら、もう一度――
「おい」
何の前触れもなく、背後から嗄れた老人の声がした。突如発されたカラスのような身の毛のよだつ恐ろしい声に、俺の涙は一瞬で引っ込む。
ドアはキチンと閉めていた。窓も開いてなどない。衣擦れの音も足音も聞こえなかった。なのに声がした。
人間の可能な行為の範疇を超えている。
唾をのむ。冷や汗が吹き出す。全身の震えが止まらない。より強く自分の体を抱き締め、震えを堪えようとしても、俺の体は脳の指令を無視するかのように震え続けた。
その一方で、これは何かのトリックだ。天井を外して蜘蛛みたいに上から降りてきたに違いない。と納得しようともした。しかし、微かな機械音しか鳴っていない病室で、音を全く立てずに侵入する事など果たして可能なのか?
「おい、聞いているのか」
ああ、間違いない。背後の老人は間違いなく俺に話し掛けてきている。嫌だ、止めてくれ。この世のものとは思えない恐ろしい声で俺に何を語るというんだ。
声からでも想像できるその風貌は、小心者の俺を何の躊躇も少しの力も無く、いとも容易く首を千切り心臓を穿ち胴体を切断し殺す場景を想像させるのに充分すぎる程。と言っても過言ではないに違いない。彼の正体は何だろうか、悪魔か大悪魔か魔王か大魔王か、それとも死神か。もし、彼が悪魔や死神だとすれば一体全体誰を迎えに来たのだろうか。
「……淳、一……」
そうか。そういうことか。こいつの目的は淳一の魂か何かだ。もしこいつが死神ならば、生死の瀬戸際に佇む彼の尊き生命に、終止符を打ちに来たに違いない。そちら側の勝手な都合で死期なんぞを決めつけて魂を貰っていこうとしているのだ。もしこいつが悪魔ならば、きっと昏睡状態の淳一の意識に語りかけ、甘言を語り魂を奪おうとしているに違いない。
「……ええ……なにこの子……」
ならば今、俺が淳一への手向けに為せることはただ一つ。命を挺してでもこの老人に立ち向かう事だ。
圧縮されていたバネが解き放たれるように、純白のタイルを踏み締め起立。
間髪入れず振り返る。
座していた丸椅子を華麗なるインサイドキックで窓際へ蹴り飛ばし、目標すら定めずに正面の悪鬼羅刹へと突貫するのみ。
「先手必勝ォォォォォォ!」
我がの渾身の頭突きは、ヤツの禍々しく恐ろしいであろう顔面にクリーンヒット。
「んがああああああああ!」
死ぬほど恐怖していた対象に不意打ちを仕掛けた事で、俺はようやく我に返った。
覚悟を決め、命を懸けた突撃に反し、目の前で痛みにのたうち回っているのは――。
ヨボヨボの爺さんだった。
痛々しい悲鳴を叫び白いタイルを転げ回る様を人は滑稽に思うかも知れないが、頭突きをかました当の本人にそれを笑う余裕は無かった。
うわ、なんてこった。
こそこそと様子を伺い、爺さんに近づいてみる。
「こ、この野郎!なんと非常識なガキじゃ!」
つい先程の威圧感はどこへやら。俺が近づいた途端がばりと起きあがった爺さんは、血が溢れて止まぬ鼻を押さえ、親の仇のように俺を睨み付けた。
「ひぃっ!すんませぇん!」
俺は咄嗟にぺこぺこと平伏するが、爺さんの怒りは未だ収まらなかった。
この後、俺は爺さんに数時間にも及ぶ長い長い説教を聞かされたのだか、ここに書き記すのも億劫になるほど長いので省略させてもらおう。
「ったくもう、散々じゃわい!」
説教を終えてスッキリした爺さんは窓際に置かれた丸椅子に腰掛け、血がどばどば流出している鼻にティッシュペーパーを詰め込んでいた。
「ほんとに、すいませんでした……」
一方で俺は床に正座させられていた。そう、説教中ずっと。恐らく、一度この脚を解いてしまえば、俺は阿鼻叫喚の痺れ地獄へとまっ逆さまに墜ちてしまうだろう。
「……まあいい。用件は別にあるからのう」
爺さんは咳払いをする。
「お主、そこに眠っておる、……ええと、名前は、何と言ったかな」
「あ、淳一です。浅間ヶ峯淳一」
「そう、そうじゃ!その、あさ……うんたらかんたらジュンイチ」
結局分かってないじゃないか、と口を滑らせそうになるのを懸命に堪える。
「そのジュンイチならば生きておるぞ。こことは違う世界で、だがな」
「……は?」
俺は思わず眉をひそめ、爺さんを睨み付けた。不謹慎な冗談でも言っているつもりならば、この病室から追い出してやろうかとも思った。
先程は……生命の危機を感じるほどの威圧感だったが、改めて見ればぼろ布を纏うホームレスの様なただの爺さんだ。
何故このような爺さんに怯えていたのか、自分でも理解できない。
「まあまあ、そう怪訝そうな顔をするでない。最初は信じられんじゃろうが……」
「止めてくださいよ。俺のことおちょくってるんですか?」
淳一は別の世界で生きている?何故、意識不明の淳一が、あたかもこの世界では死んでいるような言い方をするんだ。
友人を貶されていると感じた俺は、怒りを孕んだ声でそう言った。
「大体……こことは違う世界って、どこなんですかそれ?」
「異世界じゃよ」
爺さんは平然とそう口にした。
俺は唖然として何も言えなかった。否、喋る気力が失われた。
「はは、そうですか。異世界ですか。そうですね、異世界だったらどんなに良かったことか」
「む、信じておらんな。それも当然かのう」
当たり前だ。むしろ信じるとでも思っていたのかこの爺さんは。
「うーむ、とはいえなぁ……今のワシに魔法らしい魔法は使えんからなぁ……」
「はあ……」
どうやら爺さんは異世界とやらを証明するために、魔法とやらを見せようとしているらしい。
しかし、此方としてはそのような茶番劇に付き合う気にはなれない。話の最中、俺はひたすらこの爺さんをやんわりと病室から追い出す方法を考えていた。
「かといってアレは疲れるからのう……さっきは手加減したが、そもそもアレ一日三回が限度じゃし……む?お、そうじゃ、簡易な転移魔法ならば魔力の消費も……」
「あの、もういいです」
ブツブツと考え事をしていたであろう爺さんは、目を丸くして嬉しそうな声を上げる。
「おお、そうか!信じてくれるのじゃな!ならば早速、異世界転移の準備を……」
「違います!……大体、異世界とか魔法とか、そんな突飛なこと話されても信用できません。俺を笑わせようとしてくれるのはありがたいんですけど、もう充分なので……」
自分なりに弁解し、やんわりと爺さんとの会話を終わらせようとする。しかし。
「……異世界に行けば親友を助けられるというのに。お主にとってジュンイチは、その程度の存在じゃったのか?」
その一言で、俺は堪忍袋の緒が切れた。
目前の爺さんへ飛び掛かるように立ち上がり、胸ぐらを鷲掴みにした。俺は脚の痺れすらかき消える程の怒りを覚えていた。
「……ブツブツ、ブツブツと、下らないジョークも大概にしろよお前。淳一はな、異世界じゃなくてあの世に逝きかけてんだ。痴呆症だか何だか知らんけどな、もううんざりなんだ。頼むから出てってくれ」
爺さんの胸ぐらを突き放し、二、三歩後ろへ下がる。ぶん殴ったり突き飛ばす勇気は俺にはなかった。俺は相変わらずの臆病っぷりを遺憾なく発揮していた。
それでも爺さんは、何事もなかったかのように、ぽつりと呟いた。
「そうか。ならば奥の手といくかの」
刹那。
全身が火炎に覆われるような痛み、落雷に撃たれたような衝撃、心臓を掌握され弄ばれているかのような胸の苦しさが全て同時に俺を襲った。目の前が真っ暗になるほどの威圧感。それは、もはや威圧などという次元を超えていた。背後から受けた威圧よりも、真正面から受けたそれは格が違った。人間が体感しうるあらゆる苦痛がそれに凝縮されていた。
催した吐き気を堪えきれず、吐瀉物をぶちまけ、その上に倒れ踞る。あまりの苦痛に胸や頭をかきむしっても、症状は変わらない。変わらない。変わらない。今度は割れそうな痛みを抱えた頭を地べたに何度も打ち付ける。何度も、何度も、何度も。頭からは血が流れ、血は眼球をひりださんばかりに切り開かれた瞼の上を流れ落ちる。
地獄のような瞬間は永遠のように思われた。永遠であって欲しくない。早く終わってくれ、もう沢山だ、誰か助けてくれ、ああああ。お父さん、お母さん、神様、仏様、誰でも良いから、助けてくれ――。
爺さんはパチン、と指を鳴らした。
その瞬間、気の狂う一歩手前で、この世のあらゆる万病に侵されているような苦痛が引いていく。
威圧感の放出を止めたのか、それすら考えることは不可能だった。
「はー……疲れた……む、すまん。少しやり過ぎたかの。じゃが、これで証明出来たじゃろ?……おっと、それどころではないな……まあ、うん。もう充分理解できたじゃろ。じゃあ、準備を始めるとするかの――」
おい、ふざけるな。勝手に話を進めるな。そう叫ぼうとした。しかし疲労困憊で動けず、何も出来ない。
意識が遠退き、視界が霞む。これから俺は一体、どうなってしまうんだろう――。