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EVIL TARGET~標的の宿命~  作者: 深井陽介
第一章 生者を弄する死者の罪
9/53

その9 推理PART.2

 <9>


「監視カメラに細工の余地はない。だったら、トロフィーが盗まれた時刻は、今日の六時ごろと考えるしかないでしょう。その時点で外は雪が薄く積もっていたでしょうし、一方で降る雪の量も少なくなっています。足跡を一切つけずに入り口近くまで行くのは不可能です」

 キキはそのように前置きした。ここにいる誰もが知っている事だ。

「まあ、事前につけた足跡に沿って歩くという手もあるが、それでは戻る方法が説明できないからな」と、中道刑事。「後ろ向きになってそんな歩き方をするのは面倒だし、何より時間がかかる。やっている最中に、誰に目撃されるか分からんし」

「確かに犯人の心理としては、目撃されるかどうかは気になるでしょうが、トロフィーが消えた事による騒動の中にあっては、誰も建物の外には注意を向けません。さすがにそんな怪しい動きをすれば目立つでしょうが、数秒で済ませられる事なら、あるいは誰にも目撃されずに実行できるかもしれませんね」

「ずいぶん意味ありげな事を言うな、君は。すると何かね、犯人はものの数秒で、トロフィーを遠く離れた会場入り口まで運んだというのか」

「というより、状況を整理したらそう考えるしかないんですよ。そもそも犯人は、なんで未明の頃に盗んだのでしょう。夜中のうちに盗んだ方が、事件が発覚するまでに長い時間が確保できて、その後の作業もやりやすくなるのに」

「む、言われてみれば……」

「ここまで説明したように、犯人は内部の人間で、しかも外部犯の仕業に見せかけたがっています。あまり早いタイミングで盗んでしまえば、内部の人間にも犯行が可能だったのではないかと思われる……犯人はそれを危惧したのです。裏を返せば、十分な時間が確保できない事を承知の上で、外部犯の仕業に見せかける工作をした事になります。ならば、ほんの短い時間でトロフィーを遠くに運ぶ、そんな仕掛けを施していたと考えた方が筋でしょう?」

 一度推理を始めたらどこまでも理路整然となる奴だ。わたしはすでに、こういうキキの姿も見慣れているので、今さらこいつの豹変ぶりに困惑する事はない。

「犯人としては、未明の午前六時ごろに盗む事には、れっきとした意図がありました。犯行に及んでから、発覚し、騒ぎが起きるまで一時間ほど。同じく、石膏で型を取り、トロフィーを取り出すまで、やはりそれくらいの時間がかかるでしょう。つまり、トロフィーを運び出すまでに必要な作業を全て終わらせた時点で、タイミングよく騒ぎが起きる……未明の犯行には、そうした意味があったのだと思われます」

「そうした騒ぎが起きていれば、誰がどこで何をしていようと気づかれない。目立たない事をしていればなおさら、という事か……」

「とはいえ、騒動が沈静化するまでの時間も短いですから、やはり時間はかけられないわけですけど。さて……犯人は最初から、トロフィーを運び出すのに十分な時間は得られないと分かっていました。だから昨日のうちに、仕掛けの準備をしておく事も可能でした」

「仕掛けの準備?」

「この建物から会場入り口までの距離はおよそ百メートル。犯人が事前に確保していた三階の部屋と、入り口近くの入場門は高さに差があります。この状況で、トロフィーを数秒で運び出す方法は、一つしか考えられません」

「そうか……」

 思わず声に出てしまった。分かってしまったのだから仕方ないけど、少し目立ってしまったな。ここはキキを主役にし続けるべきだったのに。

 引っ込みがつきそうにないので、わたしは思いついた事を素直に言った。

「ロープウェイだね?」

「正解」

 キキは柔らかな笑みをわたしに向けた。ああ、言ってよかった。

「ロープウェイだって?」と、部下の刑事。

「そうです。といっても、問題の空き部屋と入場門の間にタコ糸を渡しただけの、即席の簡単なものですけど。実際にどんな糸を使ったかは分かりませんが」

「いや、それはどうでもいいが……そんな簡単な仕掛けで運べるのか?」

「運ぶのはトロフィー一つですから、タコ糸くらいの強度があれば十分ですよ。少し高低差があれば、重力に従ってスルスルと移動していきます」

「だけど、そんな糸なんてどこにもないぞ? 回収するのは容易じゃあるまい」

「そうでもないですよ。入場門の所で折り返すように糸を往復させておけば、トロフィーを入場門まで運んだ後に片方の糸を切ってトロフィーを地面に落とし、同時にもう片方の糸を引けば回収できます」

 逞しい想像力だ。実際にその方法が使われた根拠はどこにもないけれど。

「仮にその方法が可能だとして、どうやってここから入場門まで糸を張ったのだ?」中道刑事が訊いた。「百メートルの隔たりも三階の部屋との高低差もあるし、位置的には監視カメラに映っていてもおかしくないのだが……」

「ああ、その事を確かめていませんでしたが、怪しい動きをする人物はいなかったみたいですね」

「しっかり見たわけではないがね。ただ、そんな怪しげな行動をしていれば、雪像制作の作業員や運営スタッフの記憶に残るかもしれない。それに、張った後のタコ糸が目撃される恐れもあるだろうし……」

「犯人としては心理的に避けたいところ、という事ですね。もちろん最初は目立たないように、太さが一ミリにも満たないような細い糸を張っていたはずです。それなら、よほど注意して見ない限り、ばれる事はありません。空き部屋に行った後、その細い糸の片方の端にタコ糸を結んで、もう一方をゆっくり引っ張れば、同じようにタコ糸を渡す事ができます。そして、それだけ細くて軽い糸なら、入場門と建物を歩いて往復するまでもなく、こんな物で運ぶことが可能です」

 そう言ってキキが視線を向けた先にはあさひがいた。彼女が手に持っている物を見て、ここにいた誰もが「あっ」と声を漏らした。

 あさひが持っていたのは、キキに言われて部屋で作っていた、あさひ自作の紙飛行機だった。事務室から借りてきた厚紙を、精巧にカットして組み上げたものだ。器用な上に計算も得意な彼女だからこそ、再現できたものだ。

「ドローンなどのラジコン飛行機では、音ですぐに気づかれますが、紙飛行機ならほとんど気づかれることなく糸を運べます。まあ、見つかる可能性もゼロではありませんが、気に掛ける人は皆無といっていいでしょう。少なくとも、すぐにトロフィーの盗難事件と結び付けるほど、記憶に残るものではないはずです」

「ま、まさか……紙飛行機なんて、百メートルも飛ぶものなのか?」

「ええ。普通に一枚の紙を折って作る紙飛行機でも、腕のいい人なら六十メートルは飛ばせるそうです。あっちゃんが持っているのは厚紙で作ったものなので、空気抵抗で乱れる事も比較的少なくて軌道も安定しますし、ゴムで飛ばせばさらに真っすぐ、優に百メートルは飛ばせます。あっちゃん」

 キキに言われて頷くと、あさひは左手の人差し指の先に輪ゴムをかけて、紙飛行機を手前に引いてゴムを伸ばした。右手を放すと、紙飛行機はゴムに引っ張られて勢いよく飛び出し、ほぼ直線を描きながら飛んで行き、ロビーの奥の壁に衝突した。おぉー、という声があちこちから湧いてくる。

「もちろん、事前に調整する必要はありますけどね」

「そうか、外の監視カメラの映像にあった鳥のような影は、ロープウェイ用の糸を運んでいた紙飛行機だったのか!」

「ええ、恐らく。昨日は風もなかったので、正確に紙飛行機を飛ばすには絶好のコンディションだったでしょう」

「しかし、風が弱いかどうかは天気予報で事前に知れるが、本当にその日になってほぼ無風の状態になっているとは限らんぞ」と、中道刑事。

「紙飛行機による工作ができなくてもいいんですよ。日が沈んで夜になって、雪が降り始める前に、普通に地面を歩いて糸を渡してもいいんです。建物の中の誰かに見られたり、あるいは外の監視カメラに映ったり、多少のリスクはありますが、犯人にとって決定的なマイナスにはなりません。ロビーの監視カメラの映像と同様、顔が見えなければ、外部から忍び込んだ人物だと思われるのがせいぜいでしょうから」

「うむ……」

「まあ実際は、皆さんが確かめた限りで外のカメラの映像にそんな人影はなかったようですし、風が弱まったタイミングを狙って紙飛行機を飛ばす方法を、取ったみたいですが」

 続く反論はなかった。もはやキキの仮説は、全ての不可解な状況を矛盾なく説明する、唯一の考えだと認めざるを得ない。すっかりそんな空気に変わっていた。

「おい、署への応援要請はどうした」中道刑事が部下を睨みつけた。

「え、あっ、はい、ただいま……」

 部下の刑事が、ずっと持ったままだった携帯を、ようやく操作し始めた。キキの推理に信憑性があると認めて、本格的に警察が動き出すようだ。

「はあ〜……」

 キキが突然ふらつき出した。わたしは慌ててキキを支えた。

「ちょっと、大丈夫?」

「やっぱ、慣れない事はするもんじゃないね。話しすぎてくたびれた……」

 並外れた推理力によって大小様々な事件を解決に導いた実績があっても、必要に迫られるような事態がそんな頻繁に起きるものではない。名探偵のように見えて彼女は、実のところ普通の中学生だから、他人に自分の推理を筋道立てて話す事に慣れているわけでは決してないのだ。それ以前に、誰かが真相を語る必要に迫られたところで、キキがその役目を担う義務はないはずである。キキが慣れない推理の解説をする時は、少ない体力を代償にして自己責任でやっているのだ。

 友人の美衣が以前にこぼしていたが、好奇心と推理力でもって名探偵の如き実績を作ってしまった人の末路は、得てしてこんなものなのだ。全部のしわ寄せが自分にかかってくる事を覚悟できないうちは、推理の披露などするべきではないという事だろう。

「いやいや、なかなか面白いものを見せてもらったよ」

 体力を消耗してろくな会話ができそうにないキキに、金沢都知事が部下を引き連れて接近してきて、そう告げた。言われた本人は少しも面白くなさそうだが。

「見たところ君はまだ中学生くらいみたいだが、素晴らしい知性を持っているな」

 昨日は目も合わせなかった相手に対して、金沢は柔和そうな表情で褒め称えている。都政のトップである人が調子のいい性格だとは断じたくないが、腹に一物ありそうで油断ならない雰囲気を感じる。

「いや、わたしは別に素晴らしい知性なんて持ち合わせていませんよ?」

 はい言うと思いました。キキは謙遜しているわけではなく、本気で言っているのだ。小説にあるような“推理”に触れる機会のない人間は、概してこれを謙虚な姿勢以外には解釈しないのだけど。

「ははは、私に向かって謙遜はしなくても結構だよ。私としては、警視庁の一部門が必要な捜査を怠ったせいで、新たな事案が発生してしまうような事態を、他人事で済ませられないからね。未然に防ぐことができた事は、素直に喜ばしいと感じているのだよ」

「警視庁の怠慢を他人事で済ませられないって……?」

「おや、これは困ったね。中学生には私のことがまだ分からないかな」

「はい」

「おい!」わたしは力強く突っ込んだ。「即答してどうする。ちょっとは思い出す素振りくらい見せろよ」

「もっちゃんは知ってる? このひと」

「都知事の前でも構わずそう言うのか! 少しは自重しろ!」

「というか、誰の前でもそんな調子なのか……お前ら本当に仲いいな」

 あさひが呆れながら何やら呟いたが、聞こえなかった事にしよう。

「そっかぁ、都知事でしたか。これはどうも失礼なことを」

 キキはようやく思い出して敬礼をするが、気持ちがこもっていないこと甚だしい。

「棒読みじゃねぇか。自省の色が微塵もねぇよ」

「うぅむ……面白いのは先ほどの、警察に方針転換を促す説明だけではなかったか」

 世の人々が“推理”と表現する事を、金沢都知事はそう呼ぶのか。それより、都知事の中でわたしが面白いだけの人だと思われる事は、なんとしても避けたい。

「えっと、警視庁って確か、東京都の下にある組織なんですよね」

「そうだよ。正確には、都知事の直轄にある東京都公安委員会の下部組織で、私は警視庁の上のそのまた上の立場という事になるね」

「あれ、思ったより偉い立場の人だった」と、すました顔のキキ。

「当たり前でしょ。都知事は東京都の行政機関のトップなんだから」

 昨日からそうだったけど、キキは都知事を相手にしてもかしこまる態度を一切見せようとしない。単純に都知事がどういう人なのか知らないだけだったのか。

「いやあ、難しいお話は一晩寝たらほとんど忘れちゃったし、トロフィーの事件で頭使い過ぎて色々吹っ飛んじゃった」

「都知事、こんな奴を捕まえて素晴らしい知性をお持ちだと勘案なさるのですか」

 別に親友を(おとし)めるつもりなどないが、親友について誤解を与えたままというのは耐え難い。何よりわたしが、キキが高尚な知性ありと評される事に違和感を禁じ得ない。

「えっと……」金沢都知事は明らかに戸惑っていた。「そういえば、君たちはどこから来たんだい? この村の子か?」

「いえ、わたし達は星奴町から来たんですよ」キキが答えた。「友達のお父さんが、このイベントに出資している会社の社長さんで、その縁で招待されたんです」

「ほお、そうだったのか。私の次男夫婦も星奴町に住んでいてね、ちょうど中学生くらいの孫がいるのだが……まあ君たちと違って不出来な子供だよ。言葉遣いは粗暴だわ、時間にはルーズだわ、なぜか誠実な次男ではなく長男の方に似てしまったよ」

 わたし達をダシにして、さらっと自分の長男と孫を貶したよ、この人。祖父としての素の姿だと思っていいのだろうか。

 それはともかくとして……わたしは、ぼうっとしているキキを見た。彼女は時間にルーズではないけれど、それ以外の色んな事に関してルーズである。他の人ならともかく、キキは比較対象として間違っていないだろうか……。

「上のご子息は、その……時間に無頓着で言葉遣いがよろしくないと?」

「そういうわけではないんだが、あいつは賭け事にすぐ飛びついてしまうたちでね、濡れ手で(あわ)の大儲けばかり考えているのだよ。どうも私は、ああいう手合いは好かんのだ」

 存じていますとも。都知事はギャンブルの類いが嫌いなのだ。

「知事、そろそろ……」金沢の部下が耳打ちした。

「おお、そうか。では翁武署の捜査も解決の目処は立ったみたいだし、私どもは先に失礼するよ。他の仕事が溜まっているのでね」

「それはわたし達じゃなく刑事さん達に話された方が……」と、わたし。

「彼らの方はまだ落ちつきそうにないし、私は午後までに都庁舎へ戻らねばならん。すまないが君たちから彼らに伝えておいてくれ。では失礼」

「あっ……」

 わたしの力ない呼び止めなど意に介さず、金沢都知事とその取り巻き達は、事件の真相が明るみになった事による周囲の興奮が冷めやらぬまま、早々に帰っていった。都知事なら都庁職員の誰かがスケジュールを把握しているだろうし、彼だけは先に帰ってもほとんど問題ないだろうけど……。うん、それ以上に、警視庁の一所轄署が都知事をいつまでも足留めしておくことの方が、何倍も問題があるからな。

「いやあ、厳格な人っていうイメージだったけど」ずっと黙っていたみかんが言う。「意外に物腰の柔らかさを見せるね、金沢都知事」

「子供にも分け隔てなく接する事で、表向きは誠実さをアピールしてるんじゃないの」

「あさひ、そういう邪推に等しい見解は……」

 わたしが呆れながらたしなめていると、中道刑事が戻ってきた。

「おや、金沢都知事が見当たらないな……」

 絶好のタイミングだ。「先ほど帰られましたよ。解決の目処は立ったからって」

「何だって? まあ仕方ないか。これ以上拘束するわけにもいかんし……ああ、それより君らには礼を言わねばならんな」中道刑事は軽く頭を下げた。「多大な協力に感謝する。我々の落ち度から詐欺師を野放しにしてしまうところだった」

「あの……今さらですけど、わたしの推理が正しいという保証はどこにもありませんからね?」キキは遠慮がちに言った。「証拠はまだ全部揃っていませんし、石膏の型が見つかるまでは、確かなことは何も言えませんから」

「君が言った説の他に、この状況を矛盾なく説明できる話など思いつかん。今はとりあえず君の推理に従って調べてみるさ。それに、君が思いつかなければ、誰もが見逃していた可能性だったんだ、礼を言われるだけの価値はあるさ」

「は、はあ……」

「それより、署からの応援はいつになったら来るんだ。鑑識も呼べと言っただろう」

 これは部下の青年刑事に向かって放たれたセリフである。

「すみません、係長がまだ状況をよく呑み込めていないらしくて……」

「ええい、物分かりの悪い小僧め。おい、その電話ちょっと貸せ!」

 なんだか唐突に小競り合いが始まったぞ。これが翁武署の日常なのだろうか。

「あの老刑事、係長の事を小僧と呼んだわよ」と、あさひ。「あの中道って刑事さん、あれで六十歳は超えていないはずだけど、係長にも臆さないほどのベテランなのね」

「なんで六十歳を過ぎてないって分かるの?」と、キキ。

「警察官の定年が六十歳なのよ。それを過ぎたら嘱託職員になるから、普通は捜査員として現場に出る事はない」

「ああ、なるほど」

「でもキキすごいね」みかんが後ろからキキの両肩に手を添えた。「そんなベテランの刑事さんから褒められるなんて」

「えー、あんまり嬉しくないよ。せめて金一封くらい貰わないと割に合わないって。慣れない説明でどんだけ体力使ったことか」

「中学生のガキが贅沢いうな」

 わたしは突っ込みつつキキの頭を平手で叩いた。意外にせこい一面もあるキキである。


 思いがけず巻き込まれた盗難事件のせいで、二日目はほとんど下見ができなかった。キキの推理によって事件の複雑な内面が浮き彫りとなり、翁武署の捜査が本格化した事で、ここにいる全員に警察の手が及ぶ結果になったのだ。何しろ、証拠となりうる石膏の型は犯人自身が所持している可能性が高く、全員の持ち物検査までしなければ見つけられないかもしれなかったのだ。

 あさひが教えてくれたことだが、所持品検査を強行するために必要な令状は、警部以上の階級の人でなければ裁判所に請求できないらしい。所轄署でいえば警部以上とは課長以上である。今回の場合、中道刑事から係長へ、そして刑事課長へと伝達して、裁判所に令状を請求してそれが届くのを待っている間は、所持品検査は完全な任意となる。しかし、こんな事態を想定していなかった犯人が、素直に検査に応じる可能性は低く、令状による所持品検査が妥当と判断されたのだ。

 結果から言えば、建物内の捜索の段階で、証拠品である石膏の型は発見された。見つかった場所は、建物の裏手にあるプレハブの倉庫だった。問題のトロフィーと照合したところぴたりと一致し、キキの推理は完全に裏付けられた。トリックに使われた他の道具はすでに処分されている可能性が高く、これで所持品検査の必要はなくなった。あとは例の空き部屋を予約して当日キャンセルした人物を、ネット上で探すのみとなったが、複製と詐欺は元より、窃盗の方も立件は難しそうだとの事だ。ただ、中道刑事いわく、未遂だから厳重注意で済ませておくつもりらしい。

 全員の身分証明を警察に提供した所で、わたし達は解放された。この時点で昼の十一時が迫っていた。わたし達ももう星奴町に帰らなければならなくなった。ろくに下見はできていない気もするが、みかんから頼まれたプロモーションに支障はないだろう。

 当初の予定が滅茶苦茶になってしまったが、キキは満足そうだった。巨大な人工降雪機を見る事ができて、体力と引き換えの調査と推理が結実して事件が解決したのだ。すでに彼女の中では、雪像まつりなどどうでもよくなっているのかもしれない。

 昨日の集合場所になっていた星奴町内の駅まで戻り、泊りがけの会場下見はこれでお開きとなった。行きと同様、みかんが家の車で他がバスという事になると思われたが。

「えっ、そんな、どういう事?」

 みかんは携帯で話しながら、何やら血相を変えている。

「ちょっと、二人とも大丈夫なの? ……そう、よかった。え、でもそれじゃあ須藤さん、迎えに来られないの?」

 みかんの家で何かトラブルでもあったのか、どうも様子がおかしい。一番気にしそうなあさひは、なぜか仏頂面でスマホを操作していて、全く気にする素振りを見せないが。

「えー……それじゃあ何時ごろになりそうなの? わたし、バスなんて使った事ないから勝手が分からないのに」

 無自覚なお嬢様発言。みかんはもう少し、公共交通機関に慣れた方がいいな。

「どうした?」

 スマホをカバンに仕舞ったあさひが、ようやく事情を尋ねた。

「それが……いちごとりんごが公園で遊んでいる時に揃って怪我しちゃって、近くの診療所で手当てをしていて、須藤さんもそっちに行っちゃったらしいの」

 いちごとりんごとは、みかんの妹たちの名前である。

「ああ、それで迎えの車が出せないというわけか。ちょいと貸してけろ」あさひはみかんから携帯を受け取った。「もしもし。……はい、あさひです。……いえいえ、こちらこそ仲良くさせていただいて。みかんの事ですが、わたしの付き添いでバスに乗せて帰らせようと思うのですが、どうでしょう」

 そう来ましたか。あさひが一緒ならみかんも安心だろう。商売人としての資質はあっても、やはりみかんは一人だと何かと不安だ。

「はい……任せてください。ちゃんと送り届けますよ。ってことで」あさひは携帯をみかんに返した。「話はまとまったよ」

「ありがとう、あさひぃ」みかんは涙目であさひに抱きついた。「もう一生涯のパートナーになってくれないかなぁ」

「わたしゃ生命保険か。バスの乗り方くらいちゃんと練習しようよ」

 みかんが一般庶民の生活スタイルを学ぶための手伝いは、あさひに任せる事にしよう。わたしはキキのフォローだけで手一杯だ。

 絵笛地区を通るバスが先にやって来て、あさひとみかんは一緒に乗り込んだ。みかんは入り口で乗車券を危うく取り忘れそうになって、早速あさひから指導を受けた。どうも前途多難ではあるが、あさひよ、辛抱強く付き合ってあげてほしい。

 ……気配を感じて、わたしはキキを顎の下から軽く殴った。

「理由もなく抱きつくな、アホ」

「もう、ケチ」

 キキはわたしに後ろから抱きつく寸前の体勢のまま、不満をこぼした。


 この時、わたしを含めて誰もが察しえなかった。あさひが言ったような、キキが動かざるを得なくなるような事態が、このわずか数時間後に起こる事を。そしてその予兆を、ここにいた全員が、知らないうちに目にしていた事を……。

 ずっと続くはずもない日常は、音も立てずにゆっくりと、崩れていたのだ。

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