その8 推理PART.1
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キキは階段を三階まで上がっていく。そして予想通り、上がりきったところで立ち止まり、ぜいぜいと息を切らして四つん這いになった。
「も、もう駄目……」
「わたしも少しくたびれたけど、駄目というほどでもないぞ」
確かにあさひは呼吸こそ速くなっているが、まだ十分に動けそうである。一階から三階まで一気に階段を駆け上がれば、心臓に負担をかけて息が荒くなるのは当然だ。それが全くないわたしは異常なのだろうけど、立つこともできないほど疲弊するのもかなり異常な気もする。
親友として少し、こいつの事を体力面で鍛えた方がいいだろうか。でも絶対、途中からついて来られなくなるだろうなぁ。
「んで、キキはどこに行きたいわけ?」
わたしはキキの肩を支えて立たせながら訊いた。
「えっと……昨日、キャンセルになったツインの部屋があったでしょ。あそこに」
「昨日使われなかった部屋に、何かあるっていうの?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。調べるまでは分かんないよ。でも可能性があるとしたらそこしかない」
詳細な説明とは言いがたく、わたしにはまるで事情が呑み込めない。もっと詳しく、などと要求しても無駄だということは承知していたので、とりあえずキキの要望通り、キャンセルされた客室という場所に連れて行く。確か三階の廊下の端だったな。
この施設で、廊下の端の片方は荷物用エレベーターやリネン室なので、問題の客室は、わたし達が使っていた部屋の真上か、その向かいの部屋だ。旧財閥の屋敷を改築しただけの施設にオートロックなど当然なく、宿泊者がいる場合は事前にスタッフが客室を開錠する決まりだ。だから予約されていない部屋だけが施錠されている。
キャンセルされた客室は、わたし達の部屋の真上だった。もちろん施錠されている事は明白なので、調べようにも調べられない。
「ふむ……あっちゃん、鍵借りて来てくれない?」
「なんでわたしが……って、わたししかいないよね、やっぱ」
使う予定のない部屋の鍵を借りるとなれば、相当な交渉力が求められる。自分しか適任者はいないと、あさひは即座に察したらしい。少し肩を落としながら、あさひは来た道を戻っていく。
「あの子も大変だな……」
「他人事みたいに言うね、もっちゃん」キキは自分の事を棚に上げて言った。「まあ、何かの間違いでここの鍵が開きっ放しだったら、あっちゃんも面倒な役目を負わずに済んだだろうけど……」
そう言いながら、恐らくは何気なくドアノブに手をかけるキキ。すると、ドアノブはいともたやすく回り、あっけなく扉は開いた。……わたしの口も開いて塞がらない。
「あれぇ、何かの間違いがあったよ」
「おい」あさひは遠くで振り向いて短く突っ込んだ。
「もしかしたら、ここを使った犯人も、施錠する余裕がなかったのかもね」
肝心なところで間の抜けた犯人だ……恐らくここを使う時には、事前に作っておいた合い鍵で入ったのだろうけど、事件発覚後の人数確認があって慌てていたのだ。なまじっかの空き巣より詰めの甘い窃盗犯である。
「キキ……」あさひが戻ってきて睨みつける。「わたしは何のためにここから離れようとしていたのかな」
「さぁて人が来る前にさっさと調べるかぁ」
基本的に空気を読まないキキだが、今のあさひに返答すべきではないと、本能的に察知したらしい。冷たい視線から逃れるように、キキは部屋の中へ入っていった。場の空気を変えようと必死なのが丸わかりである。
「それで? ここで何を調べるの」と、わたし。
「とりあえず……」キキは部屋を見渡しながら言った。「さっきの白い欠片と同じようなものが床に落ちてないか、探してみようと思う。落ちてなかったら何とも言えないけど、あればわたしの仮説はかなり強固になるはずだよ」
「白い欠片って、さっきキキがトロフィーからほじくり出したやつ?」
「そうだよ」
「あんな小さなものを探せっていうわけ?」
「犯人が気づかないくらいだから、もっと小さいかもしれない」
相変わらず、他人を協力させれば無茶な要求をする奴だ。白い欠片ならまだわたしが持っているけど、確か二、三ミリほどの大きさしかなかったから、これより小さいとなると一ミリくらい……それを、わたし達の客室と同規模の広さがあるこの部屋で、あるかどうかも分からないのに探すというのか。
「もっちゃんの視力なら、一時間もあれば探し出せるんじゃない?」
「一時間も使えば普通の人でも部屋の中ぜんぶ探せるわい。それとその呼び名はやめろ」
「視力のことについては何も突っ込まないのだな……」
あさひが呆れたように呟いたが、人並み以上の五感の事はわたしも自覚しているので、反論のしようがないのだ。
一応、目につく所は見てみるけれど、内心では無駄だと思っている。
「大体ね……あるかどうかも分からない上に、相当小さな粒なんでしょ? いくらわたしの視力がよくたって、そう簡単に見つかるわけが……あ、あった」
「はやっ」と、キキ。「いとも簡単に見つけちゃったよ」
しかも一時間どころか五秒で見つけた。ベッドの脚の付近に、ベージュのカーペットに紛れているが、間違いなくあの白い欠片と同じものだ。拾って見比べてみても、大きさや形こそ違え、色や質感は全く同じだった。
「本当にあったわね」
「何なんだ、さっきから……」
あさひが脱力するのも無理はない。拍子抜けする事ばかり起きているからな。先ほどから運が引き寄せられているような感触がするが、これもキキの天然のなせる業……ということはさすがにないか。
コントみたいな展開はさておき、キキはわたしが拾った白い欠片をちらっと見ると、今度は窓に近づいて、躊躇なく開いた。少し身を乗り出して外を眺める。少しずつ、推理が固まりつつあるキキの視線の先には……。
「入場門が見える」
キキが呟く。入場門といっても、昨日と同じく骨組みのままだが、ここの窓からだとはっきりと確認できるみたいだ。二階からだと森の木が邪魔になるのだ。リムジンで通過した時には分からなかったが、割と背の高い門らしい。
「ねえ、あの入場門ってここからどのくらい離れてる?」
「ざっと見た感じは百メートルくらいって所じゃない?」
「百メートルか……そのくらいなら何とかなるかな」
意味深長な独り言を発しているが、後でちゃんと説明してくれるのだろうな。ただ呆然と窓の外を眺めているだけに見えるけど、キキの脳内はフル回転で動いていて、着実に仮説を完成形に近づけている……と、信じていいよね?
「あー、こんな所にいた」
みかんがやって来た。そういえばキキに何か頼まれていたな。
「もう、ロビーにいないから屋敷じゅうを探し回ったよ。ていうか、なんでキャンセルされた部屋にいるの?」
「それは追々と……それよりみかん、頼んでおいた事は?」
「あの土を火にかけて水分を飛ばしてほしい、ってやつでしょ? 厨房のコンロと小型のフライパンを借りて試してみたら、なんかこんなものが……」
みかんは、水分を蒸発させた土を小皿に載せて、わたし達に見せた。乾いて薄い茶色になった土に混じって、細かい結晶が至る所にあった。
「ちょっといいかい」
あさひは指先で器用に結晶を土から出した。その結晶を凝視した後に言った。
「これ……たぶん塩の結晶だ」
「塩の結晶?」と、わたし。
「舐めてみればはっきりするけど、そういうわけにもいかないな」
土の中にあったものだからな。火を通しているから雑菌は死んでいるだろうが、念のために口へ入れるのは避けた方が賢明だ。
「うん、やっぱり塩だね。思った通りだ」
なんて常識的な考え方をしないキキは、迷いなく結晶を指先でつまんで舐めた。何でも自分で確認しないと納得しないらしい。ちょっとは自愛というものを……。
「キキ、この土は確か、犯人の足跡の下にあったものだよな」と、あさひ。「キキはその土に塩が溶け込んでいた事を、最初から予想していたのか?」
「まあね。あっちゃんも、どういう事なのか分かったでしょ?」
「凝固点降下」あさひは返事の代わりにそう言った。「物質が水などの溶媒に溶けた時、液体の凝固点が下がる事で凍りにくくなる。例えば土に塩をまいておけば、零度で凍りにくくなっている地表の塩水に触れる事で、降った雪は自然と融けてしまう。融雪剤として同じ中和塩である塩化カルシウムが使われるけど、それと同じ原理だ」
「うーん……改めて聞いてみてもピンと来ない」
キキは目を細めた。彼女の推理に難しい理屈は必要ないのだろうが、中学生としてそのくらいは知っておいてほしいものだ。
「ちなみに、本来なら熱の発生源を持たない雪の結晶が融けるには、周囲から熱を奪わなければならない。だから塩がかかっていない部分は熱を奪われて逆に温度が下がる。塩が冷却材にも使われるのはそれが理由なの」
「あー……だから、パラパラとまく程度なら塩で雪が固まるってこと?」
「そういうこと」
あさひの説明のおかげで、わたしもキキが推理した事が理解できた。
「つまり、こういう事だね。靴跡の形になるように地面に塩をまいておけば、そこだけ降った雪が融けて、まるで人が通ったかのような足跡ができる」
「ああ、そうやって犯人が外に逃げたように錯覚させたんだ。キキの言う通り、犯人はまだこの建物の中にいるみたいだね」
キキはこのトリックが使われた事を早い段階で予測し、トロフィーを盗んだ犯人がまだ内部にいる事を察知した。昨日の、雪像に使われる塩の話から、瞬時にこのトリックに発想が及ぶあたり、さすがは鋭い閃きを持つキキである。
「しかし、あの足跡にトリックが使われていると、よく気づいたな」と、あさひ。
「ああ、足跡をよく観察したらすぐに分かったよ。これ見て」
キキはスマホの画面を見せた。中道刑事にも見せた、足跡の写真である。
「薄く積もっただけの雪にこれだけくっきりと足跡があって、周りに泥水が飛んだような跡はなく、そして歩幅が五十センチ。こんな足跡をつけるには、不自然なくらい両足を開いて慎重に歩かなきゃいけない。トロフィーを盗んで逃げようとしている犯人が、そんな歩き方をするはずがないでしょ?」
「確かに。歩幅はともかくとして、慌てて逃げようと走ったのなら、もっと足跡は乱れているはずだ」
「そう。だからこれは逃げた時の跡じゃなく、別の手段でつけられたミスリードだと考えたの。だったら昨日聞いた塩の話が使えると思って、土の中に塩が溶けていないか調べてもらったってわけ」
つまり雪の上の足跡を見た時点で、キキは内部の人間の犯行だと見抜いていたのか。他の誰も気づかなかったというのに。
「ひょえぇ。噂には聞いていたけど、これが、キキがたまに見せる名推理かぁ」
キキが推理するところを始めてみるみかんは感心したが、なんだか引っ掛かる言い方をするものだ。
「たまに……うーん、間違ってはいないけど」
「それで?」あさひが訊いた。「犯人の目星はついたのか」
「いや、そこは警察に任せるしかないと思ってるよ。どうすれば特定できるのか、それを進言する必要があるけどね」
「じゃあなるべく急いだ方がいいよ」と、みかん。「さっきロビーを見たら、特に被害も出ていないってことで、刑事さん達も簡単に話を聞いて帰るつもりみたいだから」
「そうだね、急がないと。でも……」
何か言いたそうな顔をしたかと思うと、キキのお腹がうめき声をあげた。本当に聞こえるものなのか、空腹の合図。キキは泣きそうな顔でお腹を抱えた。
「その前に何か腹ごしらえしていかない……?」
「あ、そういえば朝食がまだだったね」と、わたし。「もう八時になりそう。みかん、朝ご飯の方はどうなってるの?」
「この騒ぎでコックさんも駆り出されて、ようやく作り始めたところ。一応、昨日よりはまともなものをわたし達にもくれるそうだけど」
「何を作ってもカップ麺よりはまともだと思うけどね」
「待っている余裕はないな」と、あさひ。「一度部屋に戻って、残っている夜食用のお菓子を食べておくか」
現状ではそれ以外に腹ごしらえの手段はなさそうだが、夕食にカップ麺ときて翌日の朝食が夜食の残りのお菓子……不健康極まりない食事だなぁ。こんな事は二度もあるものじゃないだろうけど。
「はい決まりね。それじゃあさっそく胃袋に詰め込みます」
キキはそう言ってお腹を抱えたまま廊下へ向かった。猫背で腹を押さえながらよろよろと歩くと、年寄りみたいに見えるからやめた方が……。
「あ、そうだ」キキは振り返った。「あっちゃん、手先は器用な方だよね」
あさひは答える代わりに、ルービックキューブを取り出して動かし、色がランダムになっていたキューブを瞬時に揃えた。おー、と拍手が沸き起こるが、そもそもなんでルービックキューブなど持っているのだろう?
「では手先の器用なあっちゃんに、作ってほしいものがあります」
キキはにこやかに言った。うむ、嫌な予感がするぞ。
翁武署の中道刑事とその部下は、全員の聴取を終えて帰ろうとしていた。
「それじゃ、ご協力ありがとうございました。次は盗まれんよう気をつけてください」
中道刑事は軽く頭を下げながら言った。
「一応、監視カメラの映像から窃盗の事実は明らかなので、窃盗犯、もとい窃盗未遂犯を探す事はできますが、本当に引き上げてよろしいですか?」
部下の刑事の質問に、スタッフたちは頷いた。
「ええ、盗まれたものは運よく戻ってきましたし、これ以上事を荒立ててはコンテスト開催に支障が出かねないので……。被害届を出す理由もありませんし」
「それもそうですね」部下の刑事は微笑んだ。
「では我々はこれで……」
中道刑事が玄関のドアノブに手をかけたところで、一人の声が響き渡った。
「待ってください!」
全員が声のした方向、つまりわたし達がいる場所に顔を向けた。声の主であるキキは、慌てて走ったためにまたぜいぜいと息を切らしている。
「おい、しっかりしろ」わたしはキキの背中を叩いた。
「す、すみません、突然呼び止めて……でもまだ帰っちゃ駄目です」
「え?」部下の刑事が眉を上げた。
「まだ刑事さん達には、やってもらわないといけない事があります」
キキは変な所で度胸がある。すでに事件は終わったと感じている警察とお歴々の目の前で、無謀にも単身で状況を引っ掻き回そうとしているのだから。ここにいる犯人も、ましてそれ以外の人も、突然しゃしゃり出てきたキキの事を邪魔に感じて、無下に追い払ってきてもおかしくないのに。
「何をまだやっていないというのかね」と、無表情の中道刑事。「それ以前に、盗まれたものは戻ってきたのだから、それで事件は終わっとるだろう」
「いいえ……」
キキは深呼吸をすると、さっと顔を上げて言い放った。
「事件はこれから起きるんです」
ざわめきが生じ、瞬時に広がっていく。事件がまだ終わっていない、という反論ならば誰もが予想したかもしれない。しかし、まだ起きてすらいないと断言されるとは、想像もしていなかっただろう。
中道刑事は表情をほとんど変えることなく言った。
「まるで予言者だな。何か根拠があってのことか?」
「根拠はこれです」
そう言ってキキは右手を差し出した。掌の上には、あの白い欠片があった。中道刑事はキキに歩み寄り、その小さな粒をじっと見た。
「なんだね、これは……」
「少し大きい方は、盗まれたトロフィーの飾りの隙間にあったもので、小さい方は、昨日突然キャンセルされた部屋に落ちていたものです」
「ふむ、見た感じは同じものだわな。これは……まさか石膏か」
「そうです。犯人がトロフィーを盗んだのは、お金に変えるためじゃありません。石膏で型を取るためです」
「石膏で型取り……?」中道刑事は眉をひそめた。
「盗まれたトロフィーは、もし換金できたとしても二万円がせいぜいですが、同じものが五十個もあれば、軽く百万円が手に入ります。石膏で本物の型を取り、その型を元に複製品を大量に作っておけば、十分な稼ぎになります」
再び周囲がざわめきだす。複製品を本物と偽って売るために、石膏で型を取るためだけにトロフィーを盗んだ、そんな事は思いつきもしなかっただろう。
「ははは、それは無理だろう」中道刑事は苦笑した。「本物のトロフィーはここにあるんだ、本物と偽って売ったところで、すぐに偽物だとばれてしまうじゃないか」
「そうですね。でも、売りつけるための偽のトロフィーが十分に用意できた時点で、本物のトロフィーが再度盗まれたら、話は違ってきますよね?」
「何だと?」
「本物が誰の手に渡ったか分からなければ、偽物を本物と言いくるめてもばれる心配はありません。むしろ、盗品だという事でさらに付加価値がつくかもしれない。有名細工師の一点物となれば、盗品でも欲しがる人は何人もいる事でしょう」
「それはそうだが……今回の一件で運営側も警備を厳しくするだろうし、今回みたいに簡単には盗めなくなるぞ」
「確かにここから盗むのは厳しいですが、コンテストが終わって優勝者に手渡された後なら、いくらでも方法はあるでしょう? 運営委員も警備のしようがありませんし」
「うむ……」
中道刑事もだんだん、反論がやりにくくなっている。相手が小さな子供だと思って、少し侮っていただろうか。今度は部下の刑事が反駁に及んだ。
「だけど、一度トロフィーが盗まれた以上、また同じ事がないように、運営側も優勝者にトロフィーを授与した後は、警戒を促すんじゃないか? そうなったらどちらにしても盗むのが困難に……」
「そう言っていますけど、本当のところどうですか」
キキは運営委員のスタッフたちに尋ねた。スタッフたちは一様に視線を泳がせていた。痛い所を突かれたと感じているようだ。
「まあ、できないでしょうね。賞品の準備に費やした資金の三割を入場料で賄って、そして今後も同じようなイベントを続けたい運営委員が、今日の事態を誰かに漏らせるはずがありません。トロフィーが無事に戻ってきて、事件が終息しそうな雰囲気にあれば、なおさらそんな事はしないでしょう」
「石膏で型を取った後にわざわざ本物を放り出したのは、今日の事件を内輪だけで片付けさせるためか。優勝者の手に渡った後、盗みやすい状態にするために」
「そうです」キキは中道刑事の言葉に頷いた。「ここには大企業の重役や政界の人も来ていますから、そういう雰囲気になる事は犯人も予測できたはずですからね」
ありうる話だ。政界や経済界のお歴々は秘匿主義に走りがちだ。自分たちが出資しているイベントでそんな事件が起きれば、イメージダウンを恐れて確実に隠そうとする。そうした階級の人たちの体質を、逆に犯人は利用したのだ。
「その石膏の欠片の一つは、使われていない客室にあったと言ったな?」
「ええ」中道刑事の質問にキキは頷いた。
「犯人は最初から、その部屋でトロフィーの型を取るつもりだったのか?」
「事件の前日の夜になって突然キャンセルしていますから、その可能性が高いです。たぶん、かなり以前にその部屋の鍵の複製を作っておいて、いつでも侵入できるように準備を整えていたでしょう」
「だが、石膏で型を取るなら、何もこの建物の中でなくてもいいんじゃないのか。第一、優勝者の元に手渡されると分かっていたなら、そこから盗んだ後に型を取ってもいいはずだろう。わざわざここで盗めば、優勝者も警戒を強める事だって、万に一つくらいあってもおかしくない」
それはキキの推理を聞いている最中に、わたしも考えていた。犯人の目的が何であれ、今ここでトロフィーを盗む理由が何かあるのだろうか。
キキはまだ、余裕の笑みを浮かべていた。
「それは簡単ですよ。この場で盗んで、外部犯の仕業に見せかけておけば、後で優勝者の元から盗まれたとしても、自分が疑われる事がなくなると踏んだのです。皆さんも疑問に感じていた通り、換金できてもせいぜい二万円のトロフィーを盗む人なんて、そうそういるものじゃありません。二度も同じものが盗まれれば、一度目に盗み損ねた犯人が再び盗みに来たと考えるのは自然なことです」
「なるほど、二度目に盗まれた時に自分を容疑から外すためか……ん? それじゃあ、犯人はまだこの建物の中にいるという事か?」
「そうです。あの足跡は、犯人が外に逃げたと思わせるためのミスリードです」
「でも、一歩も外に出ることなく、どうやってあんな足跡を?」と、部下の刑事。
「足跡の形に塩をまいておけばいいんです。そうすれば、えーと……何だっけ」
キキはわたしを見ながら訊いた。高度な用語はすぐに忘れるのだな。
「凝固点降下だよ」
「そうそう、そのギョーコテン効果で雪が融けやすくなるから、綺麗に足跡が残るわけですよ。足跡の下の土の成分を調べれば、立証できると思いますよ」
すでにキキ自身が軽く調べたけどね。というか、口頭では判別しづらいが、キキはちゃんと凝固点降下を正しく変換できているのか。ドップラー効果みたいな感じに変換ミスをしていないといいのだけど。
「そんな手段を使っていた以上、犯人は間違いなく内部の人間だわな」中道刑事は唸りながら言った。「しかも外に逃げたと思わせたなら、姿を隠さず堂々と我々の前に出て、全員が揃っている事を確認させる必要がある。つまり犯人は、スタッフと招待客、そしてこの施設の従業員の中にいるって事になるな」
最初こそキキを邪険に扱っているように見えたけど、すっかり中道刑事はキキの推理に信を置くようになったみたいだ。完全に考えが変わっている。
「それで、誰が犯人か分かるのか」
「今はまだ分かりません」と、キキ。「でも、犯人は客室の一つを予約しておき、犯行直前にキャンセルしています。満室になる事を懸念しての措置でしょうが、ここの予約は公式のウェブサイトからアクセスしなければできませんから、その筋で追っていけば犯人の正体は必ず分かります」
だからキキは、犯人特定を警察に任せようとしたのだ。そんな調査ができるのは、警察以外にいないのだ。
「それに、石膏で作った型も、この建物のどこかにあるはずです。探して回収すれば、次の犯行は確実に防げます」
「よし」中道刑事はしっかりと頷いた。「署から応援要員を招集してくれ。サイトから予約に使われた端末のアドレスを調べると同時に、この建物内を徹底的に捜索しよう」
「それはいいのですが……」部下の刑事は携帯を取りだすが、まだ不満そうだ。「彼女の話には、まだ抜けている箇所がありますよ?」
そう、キキはまだ一つ、肝心な部分の謎を解いていない。本当に内部に犯人がいて、一歩も外に出ていないのならば、どうやってトロフィーを、会場の入り口近くまで持って行ったのか。その疑問が解けなければ、捜査は停滞するかもしれない。
しかしその心配は無用だった。キキの双眸にはまだ、煌めきが宿っていた。