その28 真相PART.4
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都知事の孫の金沢怜弥が誘拐され、その件に関わる一連の騒動がテレビを通じて全国的に知らされたわけだが、キキとわたしはまだ、その顛末が耳に入る状況になかった。とはいえ、キキがこの件に深く関わっている以上、予想通りになったと考えていいだろう。彼女が本気で作戦を練れば、都知事だろうが相手にはならない。
さて、わたしとキキは翁武署に来ていた。都庁を出てから、若干の寄り道を経て、車で軽く二時間半を超える行程である。ちなみに星奴町で寄り道をしていたため、途中まで金沢とほぼ同じルートを辿っていたことになる。
昨日の時点で、翁武署には中道刑事を介してアポを取っていた。キキの調査に協力的だった中道刑事はすぐに了承し、森で見つかった白骨の遺体を、解剖前に見せてもらえることになった。これには相応の理由が必要なのだが……。
「……これが、英司くんなの?」
翁武署の遺体安置室、薬品で腐食を防ぐ処理が施された白骨は、緩衝剤に囲まれた状態で箱の中に置かれていた。中谷雪奈は、遺体に被せられた布をそっと外し、物言えぬ姿となったかつての恋人に目を落とした。
「……こんなふうになったら、私にも、英司くんかどうかなんて分からないわよ」
「ですよね……もしかしたら、と思ったのですけど」
遺体を見て中谷がどんな反応を示すのか、少し離れた所からわたしとキキは見ていた。安置室にはこの三人しかいない。中谷にあまりプレッシャーを与えたくなかったので、キキが中道刑事に頼んで、用意が終わったら管理担当者も席を外すようにしたのだ。
「期待に沿えなくて悪いわね」中谷の口調は以前と変わりなかった。「わざわざうちに来て、英司くんらしき遺体が発見されたって報告してくれたのに」
都庁を出てから、わたし達は舛岡の車で星奴町に戻り、中谷の住む璃織区のマンションに向かった。中谷はまだ何かの作業を続けていたらしく、昨日と同じくセーターにハーフケットという女子力低めの恰好だったが、キキから遺体の事を聞くと、すぐまともな服に着替えて出てきた。谷中英司の遺体が見つかったと知れば、さすがに中谷も積極的に動かざるを得ない……キキの予測どおりだった。
「中谷さん」キキが言った。「こちらの遺体の死因はまだはっきりしていませんが、森の中に埋められていて、所持品が極端に少ないことから見て、第三者の関与は明らかです。ですから、この遺体が谷中さんだと分かれば、四年前の事件について警察を動かせます。罪に問うのは難しくても、都知事に致命傷を与えることはできますよ」
「だから……この骨が英司くんだという証明がほしいの? そのために私の協力が不可欠ってこと?」
「写真があれば骨格を比べることができますし、谷中さんのDNAを採取できるものがあれば、さらに確度を上げられます。遺体が見つかった以上、あなたに協力を拒む理由はないはずです」
「…………」
中谷は答えなかった。迷っているのか、それとも断る口実を探しているのか……何ら判然としなかった。
都知事を罠にはめて『ボット』の存在を表に引きずり出す、主犯である横村先生の作戦はすでに実行されている。口には出さなくても、都知事や『ボット』に恨みを抱いている中谷が、この状況を望んでいないはずはなかった。ただ、慎重な先生のことだから、最終段階になって中谷が関わるような事態は避けようとするだろう。中谷もそれを分かっているから、協力しにくいのかもしれない。
「ねえ……」中谷が口を開いた。「あなたはどこまで気づいてるの、もっちゃん」
「ですからわたしはもみじです」
わたしはすかさず突っ込んだ。やっぱり本名インプットしてなかったのかい。
「冗談よ」真顔で答える中谷。
「冗談でもやめてください。というか、なぜわたしに?」
「昨日、妹の唯那をうちに送り込んだでしょう。本人から聞いてる」
そういえば、川谷唯那の潜入作戦は早々に姉にばれたのだった……この事は結局キキに言わなかったけど、キキは何も尋ねてこなかった。よかった。
「私が事件に関わっていると思ったから、わざわざ唯那を使ってあの先生との繋がりを探ろうとしたんでしょ。唯那に免じて教えてあげたけど、あなたはいつから気づいてたの」
「いや……」わたしは頬をぽりぽりと掻いた。「実をいうと、わたし自身は中谷さんの関与に確信があったわけじゃないんです。ただ、あなたの話を聞いていて、なんとなく無関係には思えなかっただけで」
「ふうん……つまりただの勘?」
「わたしは、そうですね……でも、キキは違うみたいですよ」
中谷の視線はキキに向けられた。キキは真顔で見返す。
「じゃああなたは……どこまで気づいているの」
「すべてです」キキはためらいなく答えた。
「へえ……ためしに聞かせてもらおうかしら」
昨日から変わらず、中谷はキキに興味を示している。心を開かせるなら今だ。
「最初は事件の構造そのものを勘違いしていましたが、犯人の目的が都知事や『ボット』への復讐だと気づいた時、真っ先にあなたの関与を疑いました」
「ふうん?」
キキの説明に、中谷はまだ調子を崩さない。
「都知事を直接殺害するのは難しいし、『ボット』は全容が分からないから手の出しようがない。ならば、『ボット』の存在を白日の下にさらし、世間からの疑いの目を都知事に向けるのが一番です。権威を失墜させるとともに、近く行なわれる都知事選で落選させて政治家のプライドを傷つける……復讐としては申し分ないですね。
そのためには、都知事のパソコンに入っているであろう、『ボット』の名簿や通信記録などをマスコミに送る必要があります。都知事や『ボット』のしていることは明らかな犯罪行為です。いくら圧力をかけようが、報じないわけにはいきませんからね。マスコミに送る作業は短時間で済ませたいでしょうから、直接パソコンにマルウェア……いわゆるコンピュータウィルスを仕込むのがいいでしょう。そんなものを作れるのは、コンピュータに精通した中谷さんくらいです」
「作れるのは私だけじゃないと思うけど? この場合は標的型のマルウェアだから、新たに作る必要はあるでしょうけど」
「ええ。最初は共犯者候補としていたんですが、中谷さんの部屋にあったある物を思い出して、疑いを強めたんです」
「ある物?」
「その話の前に、押さえておきたい事があります。実際に都知事のパソコンにマルウェアを仕込むなら、メールは真っ先に警戒されるので使えない……だからマルウェアの入ったディスクを直接パソコンに入れて、感染させるしかありません。当然、都庁舎の知事室に入る必要があります。誰にやらせるのが一番適切か……これについて、横村先生がヒントを出してくれました」
「ヒント? 先生が出したの?」中谷の表情に変化が起きた。
「ええ。ちょっとした数学の問題ですけどね。天秤と分銅を使って、一グラムから四十グラムまで一グラム刻みですべて量りとるには、最低何個の分銅が必要になるか、という問題です」
「ああ、四個でしょ。一、三、九、二十七の四種類」
即答した……プログラマーには簡単な問題だったか。
「そうです。両方の皿に分銅を載せると考えれば、四種類でいけますね」
「三進法の考え方ね。でもそれの何がヒントに……あっ」
中谷は瞠目した。やっぱり横村先生の計画は知っていたのだ。
「そうです。より少ない分銅で量りとるために、両方の皿に分銅を置くように、より危険度を下げるために、両方の陣営に自分の味方を置いたんです。早い話が、敵である金沢都知事の身内に味方をつける事です」
「スパイみたいなもの?」と、わたし。
「というより、もっちゃん的には調略って言った方がしっくりくるかな?」
ずいぶん前に教えた言葉をさっそく使ってきたな。調略ね……金沢の身内を取りこんで味方につけたわけか。まるで戦国時代の戦法だ。
「先生は、キキに気づいてほしくて、こんな問題を出したの?」
「真意は分からないけどね……横村先生は、理解者がほしかったのかもしれないよ。色々協力者を得られて、計画も順調に進んでいたけど、本当にこれでいいのかという迷いがあったんじゃないかな……」
迷いのない復讐なんてないか……この作戦が成功して、先生が死なずに逮捕されて、面会できるようになったら、その時に出題の真意を問うてみようか。果たして彼女は心の内を話してくれるだろうか。
「じゃあ、その味方っていうのは?」中谷が尋ねた。
「想像にすぎませんが、恐らく都知事の長男だと思います。名前は知りません」
「うん……私も知らないわ」
中谷も先生の協力者なのに知らないのか。それとも金沢の長男殿はただの捨て駒に過ぎないのか。
「雪像まつり会場で都知事と会ったとき、長男と反りが合わない様子を見せていました。その人なら都知事のスケジュールも都庁舎の構造も把握しているから、相手方に警戒されることなく侵入して、マルウェアのソフトを仕込む事もできます」
「それができるのは長男だけじゃないと思うけど。それに、どうやって味方に引き込むのかしら?」
「彼は賭け事とか、濡れ手で粟の大金稼ぎが好きらしいです。そこは大きな攻め口になると思うんですよ。もし彼が……少し前まで上昇していたエイトコインの株を買って、大金を得ようと考えていたとしたら? 結果としてエイトコインの運営会社は破綻し、株価は急落しましたから、彼は大損をしたはず……付け入る隙が生まれるでしょう?」
中谷の顔から表情が消えていた。例によって例のごとく、想像にすぎないと言ったキキの推理は、やはり的を射ていたようだ。
「エイトコインは、このためだけに作られたんですよね。最初から金沢都知事の身内の誰かにエイトコインの株を買わせ、大きな損失を与え、つけ込む動機を作るための……それは名前も暗示していました」
「私が出したヒント……エイトコインの名前の由来に気づいたのね」
「気づいたのはわたしの友達ですけどね。辞書を引いたらすぐに気づいたそうです」
「まあ、中学生程度の英語の知識でも辿り着けるものね」
わたしはそれさえ怪しいレベルなのだが……。
「エイトと読める英単語は『8(eight)』の他に、eatの過去形の『食べた(ate)』もあります。これと同じスペルの『アテ(Ate)』は、ギリシャ神話に出てくる、人間を破滅的な愚行に導く狂気の女神の名前です。つまりエイトコイン(Ate Coin)は、それ自体が破滅を暗喩する名前なんですよね」
「…………」
「中谷さん。あなたは初めから破綻させる前提で、エイトコインという穴のあるシステムを作り、それを匿名でネットに流したんですね。あなたが会社を辞めたあと、エイトコインの欠陥が見つかっても会社は適切な対処ができなかった。中谷さんは自分を駆け出しと言っていましたが、お世辞にも専門家といえない人たちが集まった会社で技術コンサルタントを任されるくらい、本当は卓越した技術を持っているのではないですか」
「……買いかぶりすぎよ、キキ」
「ただの想像ですから……本当の所はわたしにも分かりませんよ」
とはいうが、中谷の憂鬱そうな表情を見ていると、キキの評価はあながち間違っていないのではないかと思えてくる。
「話を戻しますが、エイトコイン株で大損した金沢都知事の長男を味方に引き込むには、長男の側にも何らかのメリットが生じるような取引を、持ちかける必要があります。といってもそれほど難しくありません。自分たちの指示に従いさえすれば、報酬として損失を補填できるくらいの大金が手に入る……これで十分です」
「私も先生も、そんなたいそうなお金があるとは思えないけど?」
「もちろんポケットマネーから出したら、どこかで足がつくかもしれません。だからあなた方も、あらかじめ大金を一時的に稼ぐ必要があります。その稼ぎを直接長男に渡せば、表向き収支はゼロになりますが……脱税にはなりませんか?」
「ちゃんと税金納めて、残額を渡せば脱税にはならないわよ」
「ですよね」キキは笑った。「まあ、そちらもエイトコイン株を使って儲けを出したみたいですから、税務署とかのチェックは当然入りますよね。もっとも、その儲けを都知事の長男に渡す時は、第三者にばれない形にしたでしょうけど」
「でもキキ……」と、わたし。「エイトコインの株は暴落したんでしょう? 紙切れ同然になった株でどうやって儲けを出すわけ?」
「それも美衣が教えてくれたよ。『空売り』という方法があるって」
……おお、まったく聞いた事のないワードが出てきたぞ。
「空売りって?」
「まず、将来下落すると見込まれる株を証券会社などから借りてきて、その株を下落する前に売ってしまう。その時の儲けは自分の懐じゃなく、株を貸した証券会社が握ることになるんだけどね」
「はあ……」
「ちなみに借りた株は決められた期間内に返さないといけない。で、予想通り株価が下落したら、売った株を期間内にすべて買い戻し、証券会社に返すの。すると、下落した値段で買った分は損をするけど、期間内に返したことで、証券会社が持っていた最初の売却額が戻ってくるわけ」
「なるほど……売却額は下落する前の値段だから、戻ってくれば差額の儲けが生じるというわけね。ということは、株価が上がっても下がっても、やり方次第で儲けられる仕組みが株の投資にはあるんだ」
「それが市場をさらに複雑にしたんだけどね。それにこの空売りは、株を発行している会社の信用にも関わるから、問題視されている方法でもあるんだよ。まあ、それでもやっている人は大勢いるみたいだけど」
そうか……上昇している株を売るということは、いずれ下落する可能性があると思われている事になるんだ。もしその可能性を考えて大勢の投資家が株を売れば、本当に株価が下がって会社が損失を被るかもしれない。確かにそれは問題だ……。
「……って、ちょっと待って。その方法で儲けを出せるのは、エイトコインが下落すると知っていた人物だけじゃない?」
「そうだね。エイトコインの欠陥を知っていて、なおかつそれが、借りた株を返す期間内に発覚すると知っている人物なら、この方法が使える。とりもなおさず、それはエイトコインの所有者をクラッキングして個人情報を盗み出した張本人ということになるね。特定の期間を狙って欠陥を暴露したのなら、実際に空売りで儲けた人物に他ならない。タイミングから見ても、その人物は最初から欠陥の存在を知っていたんじゃないかな」
だから中谷に疑いの目を向けたのか……ここまでくれば、キキが中谷の部屋で見た“ある物”の正体も分かる。わたしも見ている。彼女の部屋の本棚には、株式の本が数冊ほど置かれていた。
「横村先生はあなたを含め、四人を味方に引き込みました。銃の製造や射撃に長けた北原に、コンピュータ関連に長けた中谷さん、そして金沢都知事の動きを探るために都知事の長男をも引き入れました。そして……もうひとりいますよね?」
「…………」
「金沢怜弥くんを誘拐した後、当然ながら先生は彼を殺害しようとするでしょう。とはいえ、北原が亡くなった今、自分が手を下すのはあまりにリスクが高い。多少確率が下がっても、樹海みたいな深い森の中に置き去りにした方が安全でしょう。何しろ怜弥くん、そういう時の生活力はなさそうですからね」
まあ、都知事の孫としてかなり甘やかされただろうからな。
「これも足がつかないように、先生は方法を考えたでしょう。計画の他の部分は専門性が必要だったので、北原や中谷さんに任せるしかないですが、中学生を樹海に運ぶのは誰でもできます。なるべく、都知事が手を出しにくい人に任せるのがいいでしょう。そう考えると、陽動作戦を実行する先生以外では、ひとりしか考えられません。……山田聡史くんの事件は、金沢都知事にとって掘り返されたくないものですからね」
「そっか……聡史くんの父親に、最後の復讐をさせたんだ」と、わたし。
「聡史くんの関係者に作業をさせた方が安全だし、実の父親が怜弥くん達を憎んでいないはずがないもの。それに、あの人は横村先生が来ていた事を隠していたしね」
やはりそうだったか……聡史の母親は「そういえばさっきも……」と言っていた。間違いなく、例の“女の先生”が来ていたのだ。わたし達が来る前に、聡史の霊前に線香をあげていた……それが横村先生だった。
「たぶん、今ごろは役目を終えて、奥さんと一緒にカナダのトロントにでも渡ったんじゃないですか」
キキも気づいていたようだ。あのパンフレットに……。
「あーあ」
中谷が突然、部屋の中に響くほどの声量で言った。諦めたのか、吹っ切れたのか、元からそれほど整っていない髪をくしゃくしゃに掻き乱した。
「ヒント出しすぎたかなぁ……ここまで見抜かれるなんて想定外だよ。他にもやたら頭キレる友人がいるみたいだし、いったい何者なのよ、あんたたち」
「何者でもありませんよ」キキは迷わず答えた。「一人じゃ何もできない、弱い一本の矢のような存在です」
「……なーんかいろいろ混ざっていそう」
その通りである。色んな格言や教えを混ぜ合わせたのが、この決めゼリフである。あまり決まっていないけど。
「そこまで分かっているのに、警察には何も言ってないの?」
「わたしの本来の目的ではありませんから……まあ、知っている警察官もいないわけじゃないですけど」
「ああ、そういえば言ってたわね。あなたにとって大切な人たちが、誰ひとり傷つかないように事件を解決する、それがあなたのやり方だったわね」
「ええ……横村先生には、無事にもっちゃん達の元へ戻ってくるよう、約束を取りつけました。そして恐らく近いうちに、『ボット』はその素性を明かされ、瓦解するでしょう。わたし達にできる事はすべてやりました。後は、あなたがた次第です」
キキはそういう奴だ。他人のテリトリーに土足で上がり込む事はしない。本人が判断しなければならない問題に、いつまでもこだわることもないのだ。もし四年前の事件の捜査に弾みをつけられれば満足だろうが、横村先生の作戦で都知事が大きなダメージを負い、『ボット』の壊滅も見えたから、すでに目的は果たしたのも同然なのだ。
しかし……いまの中谷を放置しておいて大丈夫だろうか。
「それじゃあ、わたし達はこれで失礼します」
一礼して遺体安置室を出ようとするキキ。後ろ髪を引かれるが、わたしにもできる事はもうないので、結局わたしもキキの後を追うことにした。
「待って!」
中谷に声をかけられる。振り向いたが、声をかけた本人はこっちを見ていなかった。中谷は震える口を開く。
「……押し入れの中の箪笥、上から二段目の右の引き出しに、英司くんの両親から預かった、彼のへその緒がある」
「……DNAの検体、提出してくれるんですか」
キキは特に喜ぶ素振りを見せなかった。
「警察に知らせてくれる?」中谷は手持ちのポーチに手を入れた。「それと、あなた達も回収の現場に立ち会ってほしい。警察はともかく、二人は信用しているから」
そう言って中谷は、ポーチから取り出したアパートの鍵を、キキに手渡した。キキはその鍵をじっと見てから、中谷に告げた。
「……やっぱり、捨てられませんよね」
「……当たり前よ」
中谷は携帯電話を取り出し、その画面を寂しげに見つめた。そこに映っているものが何なのか、わたしには、想像するべきでないように思えた。
もう少しここにいたいと中谷が言うので、わたしとキキだけで遺体安置室を出た。
谷中英司の両親が亡くなって、実家にあった遺品はすべて中谷が預かっていたが、すべて処分したと彼女は言っていた。でも実際は、本人確認のために必要な遺品を、しっかり取っておいたのだ。谷中がどこかで見つかるかもしれない……そうした希望は、四年経った今でも捨てていなかったのだ。
冷静沈着、あるいは泰然自若を絵に描いたような人でも、やはり見た目には分からない一面がある。そもそも、わたし達は昨日初めて会ったのだ。ちょっと言葉を交わした程度で中谷のことを知った気になるのは、やはりおこがましいというものだ。
キキはこの事を、誰に知らせるだろう……中谷のマンションがあるのは星奴町だが、今ごろ星奴署は混乱しているだろうから、星奴署の人間に頼むのは得策じゃない。鑑識の城崎に頼むなら問題ないかもしれない。あるいは、翁武署の中道刑事に伝えるか……でも管轄外だと難しそうだ。
まあ、その辺はキキの直感に任せてもいいだろう。それよりも、わたしには、キキに早く言わないといけない事があるはずだ。
立ち止まる。先を進むキキの背中に向けて、わたしは言葉を放つ。
「キキ、ありがと……!」
振り向いたキキは、状況が呑み込めないと言わんばかりにきょとんとしていた。
「何が?」
「事件……約束通りに解決してくれて」
「わたしは今回、たいした事はできなかったような……」
「そんなことない」
そう、そんな事はなかった。キキがしっかりと真相を見抜き、大切な人を誰も悲しませずに解決しようと心に決めていたから、何ひとつ後悔なく解決できたのだ。たとえ真相が分かっても、それだけじゃどうしようもない。現実の事件は、推理だけで解決できるものではないのだから。
「キキのおかげだよ……本当に」
心の底から湧きだす思いは、うまく言葉にできなくて、それでも伝えたくてたまらなかった。この親友に、解決を委ねてよかった。憎しみの連鎖を断ち切り、すべての悲劇に終止符を打つ、その役目を負ってくれる相棒が、彼女でよかった。
まあ、そんな事を言っても、キキはまた謙遜してしまうんだろうけど。
「うーん……でもなあ」キキは視線を宙に漂わせる。「今だから言えるけど、わたしにはたぶん解決できない事件だったよ」
「解決した今になってそれ言う?」
「だって今回、わたしの知らない事が多すぎだし。この間の事件もそうだけど、わたしが調査に乗り出して結果としてうまくいっても、それはわたしの功績じゃないし、わたしもそんなふうには思いたくない」
過大評価を嫌がるのは今に始まった事じゃないが……。
「そりゃあ、わたしの望む形で解決したいとは思ってるよ。でも、うまくいく保証はいつもないんだし、期待されて頑張るのはわたしに向いてないと思うんだ、たぶん。わたしにできる事なんて高が知れている……だから、もっちゃんが必要なんだよ」
「わたしが……?」
キキが何かとわたしを頼りにしてくれるのは気づいていたけど、面と向かって言われたのは初めてかもしれない。
「もっちゃんがいてくれるから、わたしは何も不安に思わない。エネルギーがもらえる。わたしにできない事ももっちゃんがやってくれる。そう信じられるから、いつももっちゃんが相棒なんだよ」
「…………」
……おい、なんて答えればいいんだ。
「だからね……もっちゃんがいつも一緒で、本当によかった」
キキは、屈託のない笑顔を、わたしだけに向けた。いつもそうだ……自分がどれほどすごい事をやったって、キキは他の誰かのおかげとしか言わない。わたしは、事件の解決をキキに全任せにしているつもりだった。それが嫌だと思うこともあった。でもキキも、大事なことはわたしに委ねていたんだ。そして、それがどんなに照れくさくても、キキが笑顔を向けてきたら、何も言い返せなくなる。
ずるい奴だ。おかげでわたしは、親友への思いが膨らむ一方だ。
「もっちゃん、また泣いてる」
また……? だって、とっくに覚悟は決めていたよ。それはキキを信じているからこそじゃないか。
ちょっと、これ以上情けない姿は見せたくない。わたしは必死で落涙を拭う。なんかこれこそ情けない姿に思えるなぁ。
でも、キキは、笑わずわたしを抱きしめてくれた。
知っている。いつだって、彼女の優しさは温かいのだ。