その27 罪と罰PART.2
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金沢は公用車で、怜弥が拉致されているという現場に向かった。星奴町なので多少の距離はあったが、土曜日で比較的道路がすいていたので、三十分ほどで到着できた。
警備部長から知らされた住所にあるアパートは、すでに多数の警官や狙撃隊に包囲されていて、物々しい雰囲気と化していた。アパートの他の住人や近隣住民は避難しているようだが、明らかに警察官でない一般人が、カメラを構えて規制線に迫っている。キキという少女が言っていた通り、マスコミもこの件を嗅ぎつけたようだ。
バリケードテープギリギリの所で公用車を止める。拉致されているのが現職の都知事の孫となれば、公用車から出てくる人物にも見当がつくだろう。案の定、金沢が後部座席から降りた途端、記者とカメラマンがどっと押し寄せ、一斉にフラッシュをたき始めた。
「知事、お孫さんがこのアパートで拉致されているそうですが、どう対処しますか?」
マイクを差し出した女性レポーターが訊いてくるが、相手にしている暇はない。金沢は記者たちの群れを掻き分けて進み、バリケードテープをくぐって内部に入った。パトカーのそばで指示を出していた刑事のひとりが、金沢に気づいて駆け寄った。
「金沢都知事ですね。警視庁捜査一課特殊犯捜査一係の、安角警部です」
「ご苦労。状況はどうだ?」
「問題の部屋はあそこです」安角はアパートのドアのひとつを指差す。「ドアノブと連動していて、手動でも動かせる爆弾が仕掛けられています。カメラもあって容易には接近できません。窓際でお孫さんが椅子に座らされ拘束されている事は確認できましたが、奥に大きな鏡が置かれていて、ベランダの様子は筒抜けになっています」
「強行突入は厳しいというわけか……で、交渉の結果は知らされたとおりか」
「ええ。金沢都知事と直接話をして、満足に話ができたと向こうが判断すれば解放すると言っています。それができなければ、その……お孫さんの首につけた爆弾を、爆発させるとか」
是が非でも金沢との直接交渉に持ち込みたい構えだ。機動隊も容易には突入できない状況を作っているが、交渉が始まれば変わってくる。恐らくは電話での話し合いになるだろうが、それで少しでも犯人の気を逸らせれば、突入の機会はいくらでも望める。
強権力を相手に自分が無力である事を、思い知らせてやる。金沢は決めた。
「よかろう、話を聞いてやる。犯人にもそう伝えたまえ」
「えっ、しかし……」
「これはいわばテロだ。怜弥の命を楯に自分の主張を押し通すのが目的だ。正々堂々と話をして、断じて屈しないという強気の姿勢を見せれば、相手は引かざるを得まい」
「そ、そう上手く運ぶでしょうか……」
金沢も内心では、そう上手くはいかないと分かっていた。だがここで要求を跳ね除けて犯人を殺害すれば、冷酷な一面をマスコミにさらすことになる。表向きは交渉に応じるふりをして、別行動のSATに殺害させれば、自分へのダメージは少なくなる。それが金沢の考えだった。
「私に任せておけ。とにかく君は、私に話す準備ができていることを、早く犯人に連絡して伝えたまえ」
「は、はあ……」
都知事の直接の命令ともなると、さすがに戸惑わざるを得ないようだ。金沢としては、警視庁の人間は都知事の命令に忠実であるべきと考えているのだが。
安角が地面に置かれた電話の受話器を取って、交渉の再開に臨もうとした、その時。
「お待ちしていましたよ、金沢晋太郎」
問題の部屋のドアが開かれ、スウェット姿の女性が出てきた。右腕を中学生くらいの少年の首元に回して無理やり立たせている。喉元にはナイフの刃先を当てていた。少年は眠らされているのか、頭部も両腕もだらんと下がっていて、長い前髪のせいで顔もはっきりとは確認できない。首に巻いていた爆弾は外したようだ。
都知事の孫を拉致した犯人が、狙撃隊も大勢いる状況下で堂々と姿を現した事で、警察やマスコミに困惑の空気が漂いだした。なぜ都知事が来たことに気づいたのか。恐らくドアスコープにもカメラを仕掛けて、外の様子が見られるようにしていたのだ。
「あの女……人質連れて出てきやがった」と、安角。
「フン、面と向かっての交渉とは、いい度胸じゃないか」
予測とは少し違ったが、これでも優位には立てると金沢は考えた。犯人の対話に真摯に応じれば、それだけマスコミや民衆の心証はよくなる。この女がどうやって『ボット』の事実を公表するつもりか分からないが、口に出したところで誰も信憑性があるとは思わない。一方でこちらは、相手が妄想に囚われていると主張し続け、あくまで怜弥の解放のみを訴える。何しろ証明の材料などまるでない上に、向こうは子供を人質にするという暴挙を働いている。先に追い詰められるのはこの女のほうだ。
そして相手が冷静さを失ったところで怜弥を奪還し、予定通りSATの狙撃隊に彼女を射殺させる。金沢への疑いがグレーゾーンに留まれば、勝利も同然だ。
金沢は揺るぎない勝利の予感を抱きながら、なおも緊張感を装って、横村という女に歩み寄っていく。一方、破滅に進んでいるとも知らない女のほうも、怜弥を抱えたままアパートの建物を離れ、こちらに接近していた。
「お初にお目にかかる。私が東京都知事の金沢晋太郎だ」
「無駄な挨拶は不要。本題に入るから」
会話で攻略する隙を奪う腹積もりだろう。それこそ無駄な足掻きだ。
「そうか……君が私に対して何らかの主張をしたい事は理解できる。だが私は政府の役人とは違う、話も聞かずに跳ね除けるようなことはしない。そちらも、私が君の主張を聞き入れればそれで満足なんだろう?」
もちろんそれが犯人の真意でない事は分かっていた。だが、少しでも犯人の予測からずれた事を言えば、犯人は動揺せざるを得ない。冷静さを奪えばこちらが優勢になる。
横村という女の表情は変わらなかった。焦りを隠すので手一杯なのだろう。
「不満があるのは私の政策か? それとも発言か? どちらにしても話は聞いてやる。批判や反論があるなら受け入れよう。満足したら、約束どおり怜弥を解放してほしい」
金沢はあくまで寛容な態度で交渉していた。犯人はどうやら金沢を動揺させてボロを出させようと企んだみたいだが、目論見が外れたと思えば逆に犯人が動揺する。攻め口が分からなくて狼狽える姿を、マスコミにさらすがいい……金沢は内心で嘲笑した。
ところが。
「……言ったわね」女はそう言うと、急に声量を上げた。「ならば主張しよう! 金沢晋太郎は、自らの悪評を拡散前に潰す有能なクラッカー集団を率いている! 彼らは金沢に都合の悪い情報を、発信元にクラッキングを仕掛けることで抹消している! 金沢は、この実態に気づいた都庁の職員を殺害し、痕跡を潰すと同時に捜索の手を封じた! これを第一の批判とする!」
……あんなにピリピリしていたアパート周辺が、水を打ったように静まり返った。
ここまで声高に主張するとは思わなかったが、ほぼ金沢の想定通りだった。マスコミも彼女が何を言っているのか理解できず、誰も近づいてこようとしない。
「……君は妄想にでも囚われているのかな。そんな事実はないと、私は断言できるが」
「このクラッカー集団の存在は、警察内部でも知っている人間がいる! 表に出ない事を前提に集められた、悪意に満ちた集団である!」
金沢は少し苛立ったが、すぐに気持ちを整えた。こっちの言い分など無視して、言いたい事を言うだけとは……よほどこちらの反論が恐いのか、と金沢は思った。
「都庁職員の抹殺は四年前、前回の都知事選を控えた時期に実行された! そしてその遺体は翁武村にある森の中に埋められた! 残念ながらこの件に金沢が絡んでいる証拠はないが、偶然その場に居合わせた十歳の少年に、その瞬間を見られたと判断した金沢は、そのハッカー集団のメンバーを利用して、その少年を殺害した! これが第二の批判だ!」
「ははは……」金沢は余裕を装った。「そんな事実無根の妄想を、さも見てきたかのように主張するとは、かなりの重症と見える。まずは精神科医に行くべきだな」
金沢は彼女を挑発して焦らせようとしたが、なぜか相手は揺るがなかった。それどころか、金沢も予想しない事を言い始めた。
「断っておくが、これは断じて妄想ではない。その少年が亡くなる前、私はすべての事情を少年の口から聞いている!」
「えっ……」金沢は一瞬、空耳だと感じた。
「私は他ならぬ、その少年の母親なのだからな!」
ざわめきが、この場にいる全員に波及した。それは警察も、狙撃隊も、そして金沢も例外ではなかった。なぜなら……。
「ば、馬鹿を言いなさい! そんなデタラメを……」
「デタラメではない! 調べればすぐに分かる事だ」女は引かなかった。
「調べるまでもない。母親は精神を病んで療養中のはずだ!」
言ってすぐ、金沢は自らの失言に気づいた。だが遅かった。女の突然の告白にマスコミ連中が釘付けになっている中での失言は、全員が聞いてしまっている。
自分を動揺させようとしている犯人を逆に動揺させるつもりが、いつの間にかやっぱり自分が動揺する事になっている。金沢が関知している事実を並べたてた上で、絶対に事実とは思えない事を堂々と口に出す……まさに言葉の奇襲攻撃だった。こんなやり方は想定外だった。
「では第三の批判だ」金沢の動揺など意に介さず、女は続けた。「現場を目撃した少年を殺害したのは、当時彼をいじめていた五人のグループだった! 彼らは問題のクラッカー集団のメンバーの息子たちであり、金沢の指示で少年を精神的に追い詰めようとした!」
「いい加減にしろ! 名誉毀損で……」
「全員よく聞くように!」女は金沢の反駁を遮った。「この二週間で、中学三年生の少年が立て続けに銃殺されている。今からその名を言う。燦環中の平津卓也、殺害場所は燦環区の繁華街にあるビルの路地裏! 能登田中の室重翔悟、殺害場所は能登田区にある公園の砂場! 絵笛中の真鍋俊成、殺害場所は能登田区の商店街! 璃織中の音嶋隆、殺害場所は璃織区の立体駐車場の半地下階! すべて警察が握っていながら、マスコミに対しては統制されている情報である! 今は星奴町内の各中学校も把握している!」
「おい、キサマ……!」
「そして彼らこそが、四年前、ひとりの少年をいじめの末に殺害した張本人である!」
横村という女はふっと息を吐いた。言いたい事はすべて言い終えたらしい。これだけでもインパクトは強く、マスコミはまたざわざわと騒がしくなってきた。
まずい……流れが犯人の想像通りの方向に傾いている。自分の犯行までは言わないだろうと高をくくっていたが、豈はからんや、何もかも白状してしまっている。おかげでマスコミも、彼女の話に信憑性があると感じ始めていた。このままでは、グレーゾーンに収まることさえできない。
「デタラメだ!」金沢は声を張り上げた。「誘拐犯の戯れ言を真に受けてはならんぞ。彼女の言っていることはすべて、嘘かあるいは根拠のない妄想だ! 私を貶めるために組み上げた空想の産物にすぎん!」
冷静に考えれば金沢の主張の方がもっともらしいが、人間はより印象の強い方に耳を傾ける生き物だ。誰も金沢の言葉を聞き入れようとはしていない。下等な民衆め、金沢は舌打ちをしたくなったが、カメラがまだあるのでこらえた。
こうなったら論点をすり替えるしかあるまい。
「そんなことより、君は言いたいことをすべて言い終わったのだろう? 君がどんな妄言を並べたてようが、身に覚えのない私は否定するしかない。君としてはこれ以上に満足できる状況などなかろう! さっさと怜弥を解放したまえ!」
怜弥をどうするか、そちらに周囲の連中の興味を向ければ、一時的とはいえ女の主張した内容から意識を逸らせる。女のほうも、話すことが無くなった以上、怜弥の扱いを考えざるを得ないが、恐らく解放などしないだろう。女がわずかでも抵抗する素振りを見せたなら、予定通りに金沢が怜弥を奪還し、狙撃隊が彼女を射殺する。
もっとも、彼女もこの企みは想定しているかもしれない。それでも彼女に選択肢は残されていない。金沢は最初から彼女の発言を封じるつもりだったから、そのタイミングが少し遅れただけであり、金沢の読み通りに進んでいることに変わりはない……。
ところが、またしても。
金沢が怜弥の解放を迫って十秒もたたないうちに、彼女は怜弥の喉元に当てていたナイフを放り出し、怜弥を突き飛ばした。この騒ぎでも目を覚ましていない怜弥は、抵抗なく俯せで地面に倒れた。
予想外にあっさり人質を解放したことで、最初は何が起きたか分からなかった警察だったが、すぐ我に返って動き出した。三名が倒れた怜弥に駆け寄って無事を確かめ、そして別の三名が女を取り囲んで両手を背中で押さえつけた。……拉致事件の犯人はあっさり捕まったのである。相手はまるで抵抗の意思を示さなかった。
何だったのだ……金沢は呆然となりながらも、いずれ逮捕・収監される誘拐犯に、引導を渡してやろうと思って歩み寄る。
「なんだ、口ほどにもなかったな。こうも安々と解放するとは……とはいえ、怜弥を拉致して身の危険にさらしたのは事実、自分の罪はちゃんと……」
「安角警部、これは金沢怜弥ではありません!」
…………なん、だと?
金沢は、ひとりの隊員の言葉に、精神を掻き乱された。
「どういう事だ!」慌てて駆け寄る安角。
「これは人形です! 金沢怜弥の衣服や靴を着せるなどして、肌や顔を上手く隠していますが、精巧に作られた布製の人形ですよ」
「レイヤって名前なのよ」
女が口を開いた。柔らかく微笑む彼女を、呆然と見返す安角たち。
「れ、レイヤ……?」
「ごめんなさいね。あなた方がフルネームを言うまで、ずっとこの人形の事を言っているのだとばかり思ってたわ」
「じゃあ、本物の金沢怜弥はどこにやった!」
「分からないわ。拉致したのは私じゃないし。私は単に騒ぎを起こしたかっただけで、本物がどこにいるかなんて知らないわよ。そもそも、私がその金沢怜弥という少年を誘拐した証拠はあるのかしら?」
……あるわけがなかった。精巧に作られた人形を見て、この横村という女が怜弥を誘拐したのは歴然だと誰もが思っていた。だから他に証拠など必要としなかった。告発してきた電話も、特殊犯捜査係に直接かけてきたものだから、録音もしていないという。
金沢は混乱していた。すべて偽装だったというのか。だったら……金沢は女の眼前まで近づいて言った。
「キサマ、何のつもりだ……?」
すると女は、金沢にだけ聞こえるような小さな声で答えた。
「私の目的は初めからひとつ……あなたは私をテロリストとして葬り去ろうとしていたみたいだけど、私の目的はテロじゃない、真実の解放よ」
「さっき大声で言ったことがその真実だと? 根拠がなければただの空想話だろう」
「そう……どうやらあなたは、すでに自分が罠にかかっている事に、気づいてすらいないみたいね」
「なに?」金沢は神経を逆撫でされた気がしていた。
「私が何のために、クラッカー集団のことや四年前の出来事を、あんな大声で言ったんだと思う? 集まったマスコミに、そのクラッカー集団に興味を抱かせるためよ。都知事が悪評を潰すためにクラッカーを集めていた……たとえ信憑性が低くても、マスコミは注目せざるを得ないわ。それはあなたが嘘だと主張しても同じこと。先ほどの失言で、四年前の事件に都知事が絡んでいるという疑惑を得たから、あなたが何を言ったところで、ごまかしているようにしか見えない」
横村は何が言いたいのだろう……金沢はまるで想像がつかなかった。得体のしれない恐怖感に襲われているようであった。
「その状況で、さっき私が大声で伝えた四人の犠牲者……その少年たちと同じ名字と住所の人物が含まれている、何らかのリストがマスコミに送られてきたら?」
……決まっている。マスコミは『ボット』の存在を確信する。リスト内の人物を徹底的に洗い出すだろう。そうなれば『ボット』の全容が明らかになる。
「ま、まさか……!」
金沢はようやく、自身に降りかかった恐怖の正体に気づいた。
同じ頃、都庁第一本庁舎でその異変は起きていた。
七階の知事室の前に、清掃用ワゴンを押して接近してくる一人の男。清掃員のつなぎを身にまとい、帽子とマスクで顔はそれほど見えていない。
知事室の前の金属探知機には引っ掛からない。ワゴンの骨は塩化ビニルのパイプ、キャスターもゴム製のタイヤとプラスチック製の軸を使っているのだ。常に大勢が出入りする知事室に赤外線センサーは設置しないだろうが、金属探知機は十分考えられたので、探知されないワゴンを作っておいたのだ。強度は落ちるが構わなかった。どうせ中身は清掃用具じゃないのだから。
知事室の前に到着すると、男はワゴンにかけていた布を払いのけた。ワゴンの中には、大きく膨らんだゴム袋と、袋の口と繋がっているゴムホースが入っていた。ホースのもう一方の口は一ミリ幅の細長い穴の開いた器具を取りつけ、途中をゴム紐できつく縛って閉じている。もちろんこの器具もプラスチック製だ。
男はホースを引き出して、ホースの先の器具をドア下の隙間にねじ込んでから、ゴム紐をほどいた。そして、袋を上から両手でゆっくり押し潰していく。ゴム袋の中に詰まっている笑気ガスが、知事室の中に少しずつ入っていく。
知事室に一人残っていた秘書の男性は、気を失って椅子から倒れた。
男はつなぎのポケットに入れていたゴーグルを装着した。マスクは防護性の高いものだから二十分はもつだろう。それだけあれば余裕で工作を済ませられる。
知事室に入り、男は真っすぐ知事室の机に向かい、パソコンを立ち上げた。起動画面にはパスワード入力用のウィンドウが表示されるが、想定内だった。男はつなぎのポケットからDVDの入ったケースを取り出し、そのDVDをドライブに挿入した。中身はパスワード解除プログラム、そしてロックのかかったファイルを選んで中身を指定先に送信するウィルスだった。
パスワード解除とウィルス感染を確認すると、すぐDVDを取り出し、男はそのまま知事室を出ていった。もちろんワゴンは布を被せて移動させる。これらは事前に都庁舎のワゴン置き場に紛れ込ませていたもので、男はまたワゴンを元あった位置に戻した。
ちなみに偽のワゴンを紛れ込ませたときは清掃員の恰好をしていたが、きょうの出入りは違っていた。男はつなぎから普通のセーターに着替えると、庁舎に入った時と同様、受付で軽く挨拶をして出ていった。少し都知事に用事があって訪問したが、やはり不在だったのでメモだけ残して帰った……という名目だ。
都庁舎を出た後、男は庁舎を見上げながら恨めしそうに呟いた。
「フン……都知事だからって偉ぶってんじゃねぇぞ、くそ親父が」
男は、都庁から少し離れた所にあるゴミバケツから、大きめのバッグを取り出した。それが今回の報酬、現金で三百万円、間違いなく本物だった。
「これくらいで三百万か……割高な仕事だったな。にしても、噂程度には聞いてたが、親父があそこまでのクズだとは思わなかったぜ……ま、地獄に落ちるべくして落ちたってとこだな」
そう言って男は、バッグを携えて悠然と去っていった。その後、男がどこへ消えたかは定かじゃない……。
都庁の知事室に侵入して、マルウェアなどで『ボット』の名簿を流出させる……ようやく犯人の企みに気づき、驚愕と恐怖で顔全体を歪めている金沢を、横村は心の底から憐れに感じていた。無論、同情などしないが。
「分かった? マスコミという第四の権力を利用して、あなたとクラッカー集団の実態を白日の下にさらす……すべてはそのための布石よ。事前に誘拐を予告して、警察が拉致事件に関わるよう仕向けたのは、私が本気であなたの孫を手にかけようとしていると見せかけて、本当の目的から目をそらすためよ。思ったとおり、あなたは私の言動にすっかり気を奪われて、都庁での警戒が疎かになってしまった」
「ぜんぶ……周到に仕組まれた罠だったっていうのか」
「ふふ、確信犯に罰が下ったわね」横村は微笑んだ。「既得権益にしがみつき、人命を蹂躙したのもまた事実、自分の罪はちゃんと贖わないとね……」
金沢が言いかけていたセリフを、横村はお返しとばかりに言った。金沢は今にも横村に掴みかからん様相だったが、ここは踏みとどまった。
「こ……これ以上好きにはさせん!」
捨てゼリフともいえる言葉を残し、金沢は駆け足でその場を離れた。そしてマスコミの群れを掻き分けて公用車に戻ると、すぐさま発進させた。知事室への侵入者を捕まえるために取って返したのだろうが、恐らく手遅れだろう。……距離がありすぎる。
警視庁特殊捜査班の安角という警部が、横村に歩み寄ってきた。
「と、とりあえず……調べたら爆弾は偽物だったし、自作の人形にナイフを当てていただけだから、危険物所持や傷害未遂の罪には問わないが、騒乱罪は適用されるだろう。それと、ここ最近の銃殺事件についても話を聞かせてもらおうか」
「可能な範囲で」
安角は顔をしかめた。
「……連れていくぞ」
踵を返して先を行く安角に続けて、隊員は横村を連れて歩きだした。そして、アパートの敷地を出て、パトカーに乗せようとした時だった。
「すまないが、その女性の取り調べは私に担当させてくれないかね」
どこから現れたのか、紳士然とした初老の男性が安角の前に出てきて告げた。刑事だろうか。さっきまでいなかったような気がするが……。
「誰かと思えば、殺人犯捜査四係の高村警部じゃないですか」
「お久しぶりですな、安角警部。畑が違うとなかなか会う機会もなくて」
「あなたの場合は畑の違いも関係なく、気まぐれでいつでも会いにくるでしょう」
どうやら警視庁でも変わり種の刑事らしい。高村という警部は横村に顔を向けた。
「詳しい話はほとんど、キキちゃんという女の子から聞いていますよ」
キキの知り合いなのか……この場で彼女の名前を出せば話が通じると思ったなら、多少は信頼できるだろう。キキが事情を打ち明けているならなおさらだ。とはいえ、鎌をかけるくらいのことはするべきだろう。
「誰ですか、キキというのは。サンリオのキャラクターですか」
「鎌をかけるような真似はよしてください」高村は苦笑した。「昨夜、璃織区にある展望台でキキちゃんともみじちゃんの二人と、お話をしたのでしょう。もっとも、一人ずつ交代でやったみたいですが……先生が警戒してはならないということで、あなた方しか知らない事も聞いていますから」
「そうですか、非礼をお詫びします」横村は頭を下げた。
「分かっていただけて安堵いたしました。それで、取り調べは私が担当したいのですが、あなたはそれでも構いませんか。もちろん、安角警部にも取り調べの詳細は伝えます」
「当たり前でしょう」
安角は少し苛立った様子で言った。高村を疎んでいる人は少なからずいるらしい。
もみじには大事な生徒ということで事情を打ち明けたが、この奇妙な警部にも同様に打ち明けていいものか否か……横村は考えた。この男性の人柄が知りたい。
「警部さんは……ゲオルグ・カントールという人物をご存じですか」
「はい?」安角は眉をひそめた。
「カントール……というと、集合論を創始した数学者ですな」
その程度のことを知っているくらいには、高村は教養があるらしい。
「そうです。全単射対応を用いて無限集合の性質を解き明かし、対角線論法を生み、神への道に続く公式として連続体仮説を提唱した、十九世紀末の数学者です。彼の理論は、当時とても独創的でした。そのため、同時代の高名な数学者で、自然数を『神の与えし数』と崇拝していたレオポルト・クロネッカーから、たびたび攻撃を受けていたそうです」
「ふむ……」
「しかし、彼の創始した集合論は今や、現代数学の重要な礎となっています。かつて名の知れた数学者が否定した理論が、その後の数学を飛躍的に発展させた……本当に正しいことは、どんなに時代や権力が否定しても、必ず残るんですよ」
「なるほど……都知事のやり方は間違っていたから、最後には残らなかったと」
「すべての過ちが最後に消えている保証はありません。しかし、消えてしまったのなら、それは確実に間違っていたのでしょう」
「論理的帰結ですな」高村警部は頭をぽりぽりと掻いた。「歴史上、優生学を引き合いに推し進めたファシズムは、ことごとく崩壊しています。キリスト教の影響力が強い時代にあって、一神教の理念を否定しかねない地動説は弾圧されたが、現在では地動説を誤っていると主張する方が異端とみなされている……どこでもありうる話です」
「警部さん、地動説はあくまで状況をうまく説明している一つに過ぎません。それが正しいという保証はありませんよ」
「これは失敬、私ごときではその程度の引用がせいぜいですからな」
「いや、よく分かりませんが……地動説の方が正しいのでしょう?」
安角が何か言っているが、高村は無視した。
「あなたからは、興味深い話が聞けそうです……私が取り調べてよろしいですかな」
「構いません」
十分にこの男性の人柄は知れた。横村のほうに迷いはなかった。高村は目をギラリと輝かせて口角を上げた。
「それはよかった。何しろあなたは四年前の事件の重要な証人です。それも含めて、じっくりと話を聞かせてもらいますよ……」
どうも楽な取り調べでは終わりそうにない。しかし、これでいいのだろう。罰を受けるのは宿命であっただろうし、命を取られるよりはずっとマシだ。
横村は清々しい気分を味わっていた。これで、もみじとの約束は果たせる。私は最後まで、先生でいたい。