その5 イベント会場の邂逅
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翌日を迎えた。昨日あんな事が起きたというのに、意外にも安眠できた。部活のない土曜日なので、ちょっと遅めの起床である。
十時になった辺りでわたしは、一泊分の着替えと昨日買ったお菓子類を入れたリュックを背負い、家を出た。財布はリュックの中で、すぐに取り出せるように衣服のポケットに入れたのは、スマホと電車のICパスだけである。
同じ地区にいるキキとは、燦環小学校近くのバス停で待ち合わせた。キキはわたしが来る少し前に到着していた。彼女は天然だけど、少なくともわたしとの待ち合わせで遅れたことは一度もない。他の子と同じように待ち合わせをした事があるのかは知らないが。
バスで星奴町内の電車の駅に向かう。到着したのは約束の十分前だった。あさひは先に来て、外のベンチに腰かけて本を読んでいた。
「あさひ、お待たせ」
バスから降りて声をかけると、あさひは徐に顔を上げた。
「お、来たな。まあバスで来るならそろそろだと思ってたよ」
そう言ってあさひは文庫本を閉じてウェストポーチに仕舞った。一瞬見えたが、文庫に折りたたんだ白い紙が挟まれていた。しおりの代わりだろうか。
「なに読んでたの」
「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』。世界的に有名な哲学書だよ」
「ごめん、聞いてもピンと来ないや」
「そう?」
「あっちゃん、みかんはまだ来てないの?」キキが尋ねた。
「絵笛からのバスは十時着だから、たぶん車かタクシーで来るんじゃないかな。……あ、来た」
あさひの視線の先を見ると、銀色のボディの車が一台、こちらへ近づいて来た。ボンネットのエンブレムは、車に詳しくないわたしでも見覚えがあった。車種は分からないけど、あれは間違いなくメルセデス・ベンツの車である。
開かれた後部席のドアから、淑やかな仕草で金髪の少女が降り立った。紺色のロングスカートに純白のコートをまとい、薄いピンク色のマフラーを巻いている。お嬢様らしい上品な輝きを放っていた。
あれが普段のみかん……思わず唖然となるわたしとキキ。あさひはどうやら見慣れているらしく、興味なさそうにスマホを操作していた。「向こうは午後から曇りか……」と呟いているので、どうやら行き先の天気を確認しているらしい。
「それじゃあ須藤さん、明日のお迎え、よろしくお願いします」
運転席に向かってそう告げた後、みかんはこちらを見て大きく手を振った。
「みんなー、お待たせぇ」
さっきまでの淑女的雰囲気から一転して、無邪気な子供みたいな振る舞いを始めた。頼むから、その上品な恰好で大仰に手を振って声を張り上げるのはやめてほしい。家政婦の須藤が運転するベンツはそのまま遠ざかっていった。
「みかん……ずいぶんおしゃれだね」キキが呆然としながら言った。
「えへへ、よそ行きの恰好。お父さんの会社の人もいるから、こういう恰好じゃないと顔パスが効かないんだよ。パッと見てわたしだと分かる感じにしたのね」
なるほど、社交場ではいつもそんな恰好をしているから、父親の知人とかだとみかんはいつもこの姿だと思っているわけか。お嬢様も大変だなぁ。わたし達の前では庶民的な恰好だって抵抗なくするのに。
「さ、早く電車に乗ってみようよ」
みかんはICパスを取り出して言った。……なんか日本語が不自然じゃないか。
「乗ってみよう?」
「わたし、電車って今日初めて乗るから」
「そんなんでよく電車使うルート選んだな」
「だって、翁武村に行くには全部車で行くか、途中まで電車で行くかのどっちかしかないんだよ。でも須藤さんは妹たちの面倒を見なきゃいけないから、車で一時間半かかる翁武村まで一気に向かわせるわけにいかなかったんだもの」
「車で一時間半……」
キキは愕然としていた。本当にアクセス悪いんだな、翁武村。
「おーい、早くしないと電車来ちゃうぞ」
あさひにそう言われて、わたし達は慌てて駅へと駆けこんだ。
十時半発の電車で、雪像まつりの会場に一番近い駅へと向かう。その間、みかんは目を輝かせながら窓の外を眺めていた。電車の窓から見る景色の流れは、初めての人には相当に新鮮味があるらしい。何度も電車に乗った事のあるわたし達は、小さな子供のように景色を楽しんでいるみかんを眺めている事にした。
目的の駅に到着したが、他にここで降りる人はいなかった。駅舎の外に出てみると、一面に畑と田んぼが広がっていた。念を押しておくが、ここは東京都内である。
「……すごい田舎。民家はおろか人さえ見当たらない」
「一応、駅周辺の道路はしっかり舗装されてるけど、肝心の駅に人がいなかったね」
キキの言うように、この駅は無人駅だった。切符の券売機も改札機もあるが、どちらも一台しかない。そもそもこの駅を使用する人が少ないためだろう。普段から駅員が常駐していなくてもほぼ問題はなさそうだが……。
それより、こういう状況だと別の不安要素が出てくるのだが。
「みかん、本当にここで合ってるの?」と、あさひ。
「間違ってはいないと思うけど……あ、来たよ。迎えの車」
みかんが指差した方向、近づいて来た一台の車を見て、わたし達はぎょっとした。さっきのベンツより数段目立つ、ムラのない黒塗りの長いボディ。洋式の霊柩車ではない。ここは火葬場じゃないし、死者を納めた棺桶もない。
「みかん……あれはもしかして、ストレッチ・リムジンではないか」
「そうだよ」
みかんは平然と答えた。一面の田園を背景に走る黒塗りのリムジン……あまりにミスマッチが過ぎる。あさひは両手で顔を覆った。
「ああ……もう訳が分からないよ」
前にも見たことがあるなぁ、この反応。ふとキキを見ると、漫画みたいに目が点になっていた。驚愕して呆然となるキキもなかなか見物である。
みかんの父親の会社の専務だという男性が、運転席から降りてきてみかんに挨拶し、わたし達にも車に乗るよう促してきた。……従わないわけにはいかない。しかし、元からフォーマルな恰好をしているみかんと違って、わたし達は思い切り普段着だ。場違い感が甚だしいのである。目的地に到着するまで、わたし達が無言にならざるを得なかったのは、それが理由という以外にない。
雪像まつりの会場が近づいて来た。まだ木材のフレームがあるだけの入場門をくぐり、リムジンは敷地の中の駐車スペースに入った。他にも五台ほど車が停まっているが、いずれも高級感漂うものばかりで、来客の気高さは推して知るべきだろう。
車を降りて会場を見渡す。
「おー、これは…………全く雪積もってませんな」
敷地のあちこちに、雪像の芯になると思しき木材の細工物があって、必死に何かの作業をしている人たちが走り回っている。その事を除けば、何の変哲もないただの土壌が、一面に広がっているだけだ。雪の塊はどこにもない。
「みかんの会社で用意したっていう人工降雪機、出番が来る可能性大だな」
「一応夕方過ぎからこの辺で雪が降るって予報だけど」と、あさひ。「たぶんそれほど積もらないだろうね」
「じゃあ、今夜はぐっと気温が下がるね」と、キキ。「でも、今は風がないせいでもあるかな、そんなに肌寒さは感じないね」
「雪像づくりには風があった方がいいと思うけどね。それにしても……」
あさひは会場を見回しながら言った。設置されている像の骨組みはすでに十体を超えているみたいだ。
「思ったよりは規模が大きい大会だな。東京で開催する雪像のイベントなんて、高が知れていると思ってたけど」
「当日はこれの倍くらいが設置される予定だよ」と、みかん。
「まあ、さすがに雪国の大会には及ばないだろうけど、趣向を凝らしたものはいくらか期待できるかもね。そういうの、写真でしか見たことがないから、楽しみだな」
お前も楽しみなら前置きで飾らずに素直に言えよ。何かと余計な一言が多い所は、さすがにキキの友人になりうるだけの事がある。まあ、あさひ以上に皮肉の多いセリフを飛ばす奴が、同じく友人の中に一名いるのだが。
「でしょ? 楽しみだよね」嬉しそうなみかん。「本当はあれから美衣も誘ったんだけど、勉強で忙しいって言って断ったんだよね。昨日も学校の図書室に籠って、一人で本を読んでいたらしいし」
「ははは、いつものことだ」
あさひは美衣の事が少し苦手なので、話題に出るとこうして苦笑しがちだ。
中沢美衣はわたしやキキと同い年で、これまた星奴町内の別の学校に通っている。青みを帯びた黒のセミロング、女子中学生としては低めの身長に、白磁を思わせる透き通った肌の少女。黙っていれば可愛らしい美少女だが、口を開けば毒舌の攻撃が放たれる。見た目に騙されて近づいて、精神をズタズタにされた男が何人いる事か……。
基本的に美衣は出不精なので、よほどの事がない限り、友人に誘われても外に出る事は滅多にない。甘いものがあればついて来たかもしれないが。
「ところで」キキが言う。「雪像って、彫刻みたいに雪の塊を削り出して作るものだと思っていたけど、芯になる骨組みが必要なんだね」
「ああ、ここではそうみたいだな。でも雪の塊を削って作る方法もあるよ」
「そうなの?」わたしはあさひに尋ねた。
「雪像の作り方に一定のルールはないからね。どう作ろうが自由。ここの場合、最初に木材で概形を作っておいて、その周りに雪をつけて塩で固め、細かい所をヘラなどの道具で調整して作るみたいだ」
「あー、雪に塩をかけると固まるんだっけ」と、キキ。
「少量の雪だと逆に融けるんだけどね。押し固めた雪の表面に少しだけ振りかければ、ちゃんと固く丈夫になるよ。というか、あまり塩を使い過ぎるのは、土壌に塩害をもたらして植物が育ちにくくなるから、環境の面でもよくないんだ」
「なんで塩をかけると雪が融けたり固まったりするの?」
おいおい、と言いたくなった。中学生ならそのくらい知っていろよ。
「凝固点降下が原因でしょ?」わたしは言った。
「そうそう」
「ごめん、難しい言葉で言われても分かんないから」
「ねぇ、みんなぁ」みかんが不満げに言った。「せっかく休みの日に遠出しているんだから、お勉強は後回しにしようよ。それより、お父さんの会社の資金で作った人工降雪機、早く見に行こうよ」
「おお、そうだった。よし行こう!」
天然の二人は理科のお勉強を放り出して駆けていく。そういえばキキ、雪像よりそっちが楽しみだって言ってたな……。仕方ないからわたしとあさひもついて行く。
問題の人工降雪機は、想像以上に規模の大きい代物だった。一戸建ての家屋にも匹敵する直方体の箱があって、一枚の壁の上部に直径一メートル幅の円筒が迫り出し、反対側の壁に人が出入りできるドアがある。これ全部が、人工雪を降らせるための機械……?
「あの円筒の所から、雪を散らすんだよ」みかんが説明している。「反対側で細かい水滴を作って強風で飛ばして、こっちの氷点下十度のスペースを通過して、小さな雪の塊になって出てくるという仕組み。ちなみに低温の空間は、氷点下五十度まで冷やしたグリセリンを循環させて作っています」
「みかん、その理屈は理解できているのか」と、あさひ。
「車のエンジンを冷却する機構と同じだって、専務から聞いたよ」
「……まあ、それでもいいと思うけど。しかし、これも想像以上の大きさだな。氷点下になる事の少ない地域で雪を作るんだから、これくらいの設備は必要なのかもしれんが」
「見てよ」と、わたし。「派手さに惹かれて興奮している奴がいるよ」
それはもちろんキキのことである。自分がそうなる事は決してないのに、なぜかキキは派手なものに夢中になる性質らしい。たぶん、普段見る事がないために、好奇心が刺激されているのだろう。これも彼女の純真さゆえなのだ。
「当日が楽しみだなぁ……」と、キキ。「ここからブワーと雪が飛び出してきて、あっという間に一面が銀世界になるような」
「いやいや、どんな性能のいい人工降雪機でも、あっという間に雪原を作るのは無理だから。どう考えても」
「もぅ、もっちゃんは夢がないなあ」キキは唇を尖らせて言った。
「やかましい。ていうかもっちゃんと呼ぶな」
非現実的な想像に反論しただけで夢のない人呼ばわりとは、ずいぶんな扱いだ。
「まあ、人工降雪機の稼働も楽しみだけど……」みかんが言う。「わたしは、それよりもっと楽しみなイベントがあるんだよね。雪像まつりのハイライト」
「なに?」あさひが訊いた。
「大会が終わった後の、雪像が壊される瞬間」
「…………」
「すごく見応えがあるよ。これは出資者ならではの特権なんだよねぇ」
可愛らしい顔立ちして、なんて趣味の悪い奴だ。こういうことを笑顔で平然と言えるくらいでなければ、商売の世界で食っていけないのだろうか。……いや、たぶん商売とか関係ないな。
「あ、いけない。そろそろ運営委員長の所に挨拶しに行かないと」
「そんな大事な用があるのにここで油売るなって」突っ込むわたし。
「いやあ、わたしはどちらかというと、みんなに会場を案内する方が大事かと思って」
みかんの天然発言に慣れているあさひに、それは通用しなかった。
「はいはい、小学生みたいな言い訳をすなでや。大事な挨拶ならさっさと済ませい」
「えー……」
あさひに文字通り背中を押され、運営本部へと向かうみかん。彼女もあさひの不自然な訛りには慣れているようだ。『すなでや』って、どこの方言?
雪像まつりの大会運営本部が設置されているのは、わたし達も一夜を過ごす予定の、ここで唯一の宿泊施設である。三階建ての洋風の建造物。かつてどこかの財閥が使っていた家を改築して、旅館として一応人を泊められるような設備にしたらしいが、どういうわけか看板さえ掲げられていない。よもやこの施設には名前が付けられていないのか。
「うん、確か名前はついてなかったはずだよ」みかんは頷いた。「宿泊するには、この土地を管理している人が運営しているウェブサイトから、前日までに予約しないといけないんだ。翁武村の名前で検索すれば、村役場のサイトの次あたりに出てくるよ」
「じゃあ、当日になって宿泊の申し込みをする事はできないんだね」と、あさひ。
「そもそもこの辺りじゃ、そんな事をする人の方が圧倒的に少ないからね」
それ以前に人が少ないからな。わざわざこんな山奥に来てまで、ろくな設備も整っていないという旅館に飛び込もうなんて、誰が考えるだろう。そんな人がいるとすれば、周辺の森をうろつくハンターくらいだろうが、森を出た所で洋風の館を目撃して、果たしてのこのこと入っていくだろうか。……大きな山猫が舌なめずりして待ち構えているかもしれないのに。まあ、騙されるのは自己中心的でがめつい性格の奴だけだろう。
童話の話はともかくとして、みかんは、運営委員長が待っているという三階のVIP専用ルームへ向かうのだが、その前に彼女はお嬢様へと瞬時に変貌した。
「それではみなさん、わたしは運営委員長に挨拶してきますので、今しばらくここでお待ちください」
「やめろー、わたしらにお嬢様口調を使うなー」
あさひが苦言を呈しても、みかんは気に留めず淑やかに頭を下げ、落ち着き払った足取りで階段を上っていった。服装には合っていても、やはりみかんが細部まで丁寧な口調を使うと、不自然にしか見えない。
建物の中央にあるロビーは二階まで吹き抜けで、天井から下がっている大きなシャンデリアが室内を照らしている。たぶんあれは、財閥所有の頃の名残だろう。改装して宿泊施設にしたとはいえ、かつての絢爛な雰囲気が未だに抜けないらしく、来訪する人間も選ばれているように思える。ロビーに集まっている人、後からやってくる人、どれも社交界でネクタイの映えるお歴々ばかりだ。
この中の何人かは、出資企業の重役と考えていいだろう。よく見ると、企業経営とは一線を画した実力者もいるようだが。
「ねえ、あそこにいるのって、金沢都知事じゃない?」
「え?」あさひはわたしの指差した方を見た。「ああ、ホントだ」
金沢晋太郎。今期で五期連続、東京都政のトップに君臨し続け、国政にも大きな発言権を有していると言われている政治家である。一介の中学生たるわたしに分かるのはそれくらいで、政策理念は元より彼の年齢さえ知らない。背筋はピンと伸びているが、顔の皺や白髪交じりの頭部から見て、相当にお年を召されていると思われる。
もっとも、わたしの知る限り、表に頻繁に出てくる政治家はたいてい、五十過ぎのおじさんなのだが。中には七十を超えてなお元気に吠える人もいるし、現都知事が実は八十過ぎのおじいさんだとしても、たぶん驚かないだろうな。
「なんで都知事まで来てるのかな」首をかしげるキキ。
「そりゃあ、東京都もこのイベントに一枚噛んでいるからじゃないの。お役所の後ろ盾があれば、どんな無茶な企画も実現に踏み切れるだろうし」
「もみじもずいぶん露骨の過ぎた物言いをするな」あさひは呆れながら言った。「運営側はその理屈で通せたとしても、都知事サイドがこの企画に賛同してくれなければ無意味だろう。金沢都知事は、射倖心で物事を進めるやり方に否定的な立場として有名だからね。確実に都政にとってプラスになる企画でなければ、協力をしたりしないさ。確か、国で推し進めていたカジノ法案にも、批判的なコメントをしていなかったかな」
カジノ法案ね……あれは国会内でも相当な騒乱を招いたからなあ。国は日本経済にプラスになるとか言って理解を求めようとするけど、どんな説明をされても悪しき印象は拭えないだろう。まあ、国はそんな批判などお構いなしに、勢い任せで計画を進めていくのだろうけど。それもいつものことだ。特に興味もないし。
「そんなギャンブル嫌いの都知事が、このイベントにどんなプラス面を見出したのかな」
「東京で、冬季限定のイベントは少ないからね。一月や二月になればそれなりの積雪は期待できるけど、それでも雪を使った催しは誰も積極的にやりたがらない。このイベントがそれなりの経済効果をもたらすと分かれば、他のあらゆる大会に使える施設を作る後押しになるし、マイナーなウィンタースポーツ大会の誘致にも利用できるでしょう。日本での冬季オリンピック招致を見据えているなら、このイベントはプラスになるでしょうね」
「都政が全面的にバックアップしていれば、ある程度の集客が見込めて、遠い将来に国際的な大会が行われる場に出来ると思ったわけ?」
「まあ、本当にそこまで意図して、協賛者に名を連ねたかどうかは分からないけど」あさひは肩をすくめた。「ただ、金沢都知事はもうすぐ任期切れになるけど、まだ再選に熱意を見せているから、今のうちに実績の足掛かりを作っておきたいんじゃない」
老獪の政治家ならそのくらいの深慮遠謀はありそうだけど……あさひも、わたし以上に露骨な物言いをするものだな。
「難しい理屈は分からないけど、都知事が何を考えていようが関係ないよ」キキは関心なさそうに言った。「わたしは、みかんのお父さんが出資しているイベントが成功に終われば、それでいいし」
「ははは、政情を解する必要に迫られない中学生は、それが正しいかもね」
まるで自身が普通の中学生になりきれていないと言わんばかりだな……つまりわたしも同類なのか。否定の余地がない事は自覚しているけど。
「お待たせぇ」
運営委員長への挨拶を終えて戻って来たみかんが、また大声で呼んだ。屈託のない笑顔で大手を振っている。だからその恰好で幼稚な振る舞いは慎めよ。
「みんなで泊まる部屋に案内するから、ついて来て」
……ここの客室は四人分を優に収容できるとおっしゃいますか。旧財閥のお屋敷なら、そのくらいの規模の部屋がいくつあっても不自然じゃない。
みかんが予約していた部屋は二階にあるらしい。その場所に着くまでの間に、雪像まつりが行われるこの土地の事を、みかんが教えてくれた。
「最初はいくつかの家が分割して所有していたんだけど、三十年くらい前に東京都が買い取って公有地になったの。都の肝いりで主にゴルフ場を建設するつもりだったみたい」
「ああ……」あさひは腑に落ちたように頷いた。「三十年くらい前なら、バブル景気に浮かれて土地や株式への投機が盛んに行われていた時代だね。個人資産が増えてゴルフなどに興じる人が増えたために、東京都もその勢いに乗っかったわけだ」
「もう予想がついてると思うけど、ゴルフ場完成を待たずしてバブルは崩壊して、計画は白紙になってしまった。それからは、公有地にもかかわらず都が手をつけなかった事で、ここは荒れ放題になってしまったの。二十年くらい前に民間団体に払い下げられて、ようやく土地は整備されたけど、特に何か大きな事には使われなかったみたい」
「これだけ広大なら、整備費も馬鹿にならないでしょ。何かやって資金を集めなきゃいけないって、所有者も危機感を覚えたって所かしら」
「土地だけじゃなく、この建物の維持費もあるよね」と、わたし。
「まあ、この土地が公有地になっていた間は、ゴルフ場に来た人を泊めるための施設として再利用するために、東京都からある程度の資金が投入されたけど、ほとんど手をつけないうちに計画が頓挫したから、資金は都が手放すまでの維持費に転用されたみたい。後で土地ごと譲渡された民間団体からすれば幸いだけど、使われたお金は元を辿れば税金なんだから、あまり素直に喜べる話ではないね」
こんな都心から遠く離れたさびれた村で、色んなドラマがあったものだなあ。
「それって、お父さんから聞いた話?」あさひが尋ねた。
「うん。ちょっと前までは知らなかったよ。知っていたら、小学校の時の遠足も味気ないものになっていたかもね」
「そもそも小学生の頭で理解できたかどうか……」
中学生の頭でも若干難しいかもしれないと思うけど。現にキキは話について行けなくて、ずっとあくびをしているし。
「まあ、遠足にはピッタリの場所かもね」と、わたし。「コンビニも自販機もない寂しい所だけど、自然を楽しむにはもってこいだろうし」
「確か、近くに子供がサッカーの試合をする所がなかったっけ」
「今でもあるよ。大体は近隣の市町村から来る子供が使うけど、たまに都心に近い所からも来ることがあるみたい。たぶん、星奴町の子も来てるんじゃないかな」
それでも数えるほどしかない事は容易に想像できる。功輔も小学校一年生からずっとサッカーをしているが、こんな遠方までやって来て試合をしたという話は、少なくともわたしが覚えている限りでは一つもない。わたしがあまり興味を持たなかっただけかもしれないが、とりあえず何度もあったということはないだろう。
あっ……今の今まで失念したけど、功輔から遊園地へのお誘いがあったんだった。二つ返事で引き受けた以上、付き合うつもりである事に変わりはないが、やはり何かと対応を考えておいた方がいいのだろうか……。
とはいえ、わたしの友人には相談に適した人が全くいない。キキは恐らく嫉妬に駆られてまともな助言をしないだろうし、あさひや美衣は興味を引くことなく「好きにすれば」と言うだけだろうし、みかんは……天然に加えて経験がないだろうから、「他の人に聞いてほしいかな」とか言いそうだ。そもそもこいつらは、異性と対等かつ親密に付き合った事がないのではないか。全員ことごとく、その手の話に疎そうだし。
いいや、誰に相談しなくても。功輔とは割と知った仲だし、そんなに変な事態にはならないと考えていい。むしろそんな事を警戒しては、さすがに功輔が不憫だ。
「はい着いた。ここだよ」
二階の廊下の端に近いドアの前で、みかんは立ち止まって告げた。隣の部屋のドアとはかなり間隔が開いているが、これは相当な広さがあると考えていいだろうか。
「さあ、二人とも」あさひはわたしとキキに向かって言った。「何を見ても驚かず、呆れるだけで済ませる用意はできているか」
「そんなのどうやって用意するの」
天然のキキは、あさひの言いたい事を察してくれなかった。
結論から言うと、みかんがドアを開けて部屋の中を見せた瞬間、わたし達は驚愕せざるを得なかった。同時に呆れもしたけど。
広い。が、それだけじゃない。
この客室のレイアウトは、完璧なシンメトリーになっていた。