その26 最後の戦い
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翌日を迎える。土曜日なので、ほとんどの官公庁はお休みである。もちろん都庁も例外ではなく、都庁舎内部に職員の姿はほとんどなかった。
当然、表の出入り口は閉鎖されている。わたしとキキは職員用の別の出入り口から、都庁第一本庁舎の中に入った。断っておくが、決して無断侵入ではない。同行している監察官の舛岡が、あらかじめ職員に訪問のアポを取っている。お察しのとおり、キキから頼まれてやっている事である。
受付窓口で舛岡が常駐の職員と話をしている。アポイントの確認だ。元公安の監察官となれば、都庁でも存分に顔が利くようである。
「金沢都知事は七階の知事室に籠ったままだそうだ。君の予想通りだな」
舛岡は確認を終えて戻ってきた。
「『ボット』メンバーを通して伝えられた内容を、看過できないと思ったのでしょう。秘密を知っている人間が、反撃に及ぼうとしているわけですから」
「それにしても、そいつらは武器も持っていたんだろう? よく盾突こうと思ったな。メッセンジャーとして使おうにも、簡単な相手じゃなかっただろう」
「もっちゃんならそういう相手も慣れていると思ったので」
「銃を持った半グレ集団と比べたら素人も同然でしたよ。てかもっちゃんと呼ぶな」
色々あってしばらく放置していたが、やっとわたしは呼び名を突っ込んだ。
「まあ、君たちが何を企んでいるか知らんが、金沢怜弥が誘拐された以上、今日中に何かしら決着をつけることにはなるだろう。君たちが警察を敵に回してまで、どんな形で解決に持ち込もうとしているのか、じっくり見定めてもらおうかな」
そう言って舛岡はニヤリと笑った。星奴署での出来事は、もう彼の耳にも入っている。
「もっちゃん……この人は信頼できるけど、わたしキライだよ」
「……だそうですよ」
「これは参ったな」頭を掻く舛岡。「警察官に嫌われるのは慣れているが、年頃の女の子に嫌われるのは気分が悪い。まあとにかく、さっさと大ボスの元へ行くぞ」
先を行く舛岡の後を追うように、わたしとキキは手を繋いで都庁舎の中を進んでいく。……手を繋いで、である。さすがのキキも緊張しているだろうから、そのくらいはしてあげてもいいだろう。友達として。
もう生涯でこの先訪れることもないであろう、知事室の前にやってくる。舛岡がノックしてからドアを開けると、案の定、金沢晋太郎が電話に向かって怒号を浴びせていた。
「何度も言わせるな! 私は手放せない仕事があって、ここを離れられん。とにかく現場の連中にしっかり伝えておけ! 最優先は怜弥の救出だ。どんな手段を使っても構わん。為政者や警察がなめられるような事態は何としても防ぐのだ……っ?」
金沢の視線がこちらに向く。感情的になって周りが見えていなかったようだが、舛岡の来訪に気づいて落ち着きを取り戻した。
「……とにかく、捜索は抜かりなく行なうように」
そう言って金沢は受話器を置いて、舛岡の元に歩み寄ってきた。
「手放せない仕事がございましたか」と、舛岡。
「いやはや、来客に見苦しい所を見られてしまった。まあ、次の都知事選や鮮魚市場の移転に五輪開催地の調整……やることは山ほどあるよ」
「それに日常的な雑務も生じますから、大変でしょうなぁ」
「だからここの職員にも励んでもらわねばならんな。それで? 警視庁警務部人事第一課の監察官が、わざわざ公安委員会を飛び越えて私に直接報告したい事とは、いったい何なのかな」
なるほど、そういう名目でアポを取り付けたのか。ある意味で職権乱用だな。
「現状、監察のほうで最重要調査事項となっている問題がありましてね。都知事にも深く関わる問題であって、放っておけば警察組織の根幹が揺るぎかねません」
「私に関わる問題とは……何なのだ」
「私の口から述べてもいいのですが、ここは、私の連れに説明させましょう」
すっと横に身を引く舛岡。すぐ後ろにわたしとキキは立っていた。舛岡が会話のきっかけを作るまで、金沢から見えない所に隠れていたのだ。
「一週間ぶりですね、金沢都知事」軽く頭を下げるキキ。
「ええと、君たちは……そうだ、翁武村の雪像まつり会場にいた中学生だな。確かトロフィー盗難事件で興味深い見解を示して、警察の捜査を大きく進展させていた」
「ええ、まあ……」
遠慮がちに応えるキキ。彼女に、警察の捜査に協力したという感覚はないだろう。みかんの父親が出資しているイベントに泥を塗られる事態を、避けたかっただけで。
「あの時は本当に面白いものを見せてもらったよ。でも、なんだってわざわざ閉庁日にこんな所へ? それも監察官と一緒なんて……」
横に立っている舛岡に視線を移した金沢を、無表情のまま黙って見返す舛岡。その顔を見ているうちに、金沢の歓迎ムードの笑顔が徐々に消え失せていく。
分かったようだ。金沢が休みの日にもかかわらず知事室に籠っていたのは、自分を追い詰めようとしている中学生が、会いに行くと宣言したからだ。金沢は自宅の場所を公表していない。会いに来るとなれば都庁舎しかない。無視すればどんな手段に出るか分からない上に、『ボット』の脅しも平然と跳ね除ける人が相手なら、金沢はこの場所で迎え撃つしかなくなるというわけだ。
……もちろん、すべてキキの計算通りだ。
「ああ、なるほど……真実を手土産に会いに来たのは、君たちだったか」
それまで見せてこなかったどす黒い表情で、金沢はわたし達を睨みつけてきた。だが、キキはまるで動じなかった。
「そのセリフは『ボット』メンバーに向かって言ったことです。聞いているという事は、やはりあなたが『ボット』の親玉なんですね」
「気づいているなら、ごまかそうとした所で無駄だからな」
「自白ですか」
「ここに来る廊下の途中には金属探知機がついていてね……まあ私と秘書しか存在を知らないが、盗聴器やらレコーダーがあればすぐに分かる。君たちが録音装置や集音装置を持っていない以上、何を言っても証拠にはならない」
「思ったより潔くて助かりました。そうなると思ってあえて持ってきませんでしたが、身体検査を受ける可能性も考えていたもので」
「中学生の女の子に無粋な真似はしないよ」
金沢は自分の机に戻り、高級そうな黒革の椅子に腰かけた。
「それで? 監察を引き連れてここに来てまで、私に何か用かな」
「……わたしがあなたに訊きたい事はひとつです」
キキは真っすぐに金沢を目に捉えて、冷静に言い放った。
「『ボット』を使って悪事の痕跡を潰し、貴い人命を弄んでまで、あなたはいったい何を守りたかったのですか?」
同じ頃、警視庁でも異変が起こっていた。いや、始まっていた。
捜査一課の特殊犯捜査一係、誘拐事件や人質立てこもり事件を主に担当する部署に、匿名の通報が入った。午前十一時ちょうど、公衆電話からであった。通報者の要請に応じ、係長の安角警部が電話に出た。
「電話代わりました、係長の安角です。どのような用件で?」
相手はくぐもった声で答えた。受話器に布でも当てているのだろうか。女の声ではなさそうだが……。
「金沢怜弥を誘拐した人物が誰なのか、教えますよ」
「なに? 金沢って、まさか……」
「おたくの警備部に確認すれば分かります。でも、犯人の名前はこの場でしか教えませんから、よく聞いてくださいね」
「おい、何を……」
「星奴町の燦環区に住んでいる、横村朱美という人ですよ」
それだけ言って、相手は通話を切った。いったい何の話だろうか……金沢怜弥というのはやはり、あの金沢都知事の孫だろうか。顔も知らない人だが、誘拐されていたなんて噂にも聞いていない。
……まずは警備部に確認しよう。部隊の出動はそれからだ。
一方、都庁第一本庁舎の知事室では。
「……これが、四年前に起きた事のすべてです。一連の銃撃事件の主犯は、あなたのした事をすべて知っていて、少年の死や隠蔽に関わったすべての人間に、復讐しようと考えています」
キキはこれまでに推理した内容のうち、横村先生が関わらない部分のみ話した。そう簡単にこちらの手の内を明かすつもりはないようだ。いつもなら簡単にばらすけど、相手が老獪の政治家となれば、さすがに慎重にならざるを得ない。
「……なるほど、よく考え抜かれた話ではあるな」
「隠すのは無意味だとおっしゃったのに、認めないのですか」
「何でも安々と認めるわけがなかろう。警察官の目の前だというのに」
金沢は見下げるように笑った。もっとも、椅子に座って目の高さがほぼ変わらなくなったから、あまりプレッシャーになっていないが。
「俺は席を外した方がよかったかな」舛岡はキキに言った。
「いえ、ここにいてください」キキは金沢に視線を向けながら答える。「相手が何をしてくるか、分かったものじゃないですし」
「……それもそうだな」
舛岡は肩をすくめた。警察官として信頼されている事には、安心できたようだ。
「これらはすべて被害者側の主張ですし、客観的に証明する手段はないでしょう。そもそも『ボット』の存在を証明できない以上は、どれも仮説の域を出ません。わたしも、この推理がどこまで正しいかは分かりません」
「おいおい……」と、金沢。
「ただ、ひとつだけ確信を持って言えることがあります。あなたは『ボット』を使い勝手のいい道具と見ている一方、その存在が与える悪影響も十分に理解している」
「…………」
金沢は何も答えなかった。嫌な所を突かれたと感じただろうか。
「あなたはテレビやマスコミの前で、何度も国策を批判していました。確かに、素人のわたしから見ても、駄目っぽい政策がこれまでたくさん出ていましたし、正直よく今まで現政権が維持できているなぁと感心するくらいです」
「君もずいぶん皮肉を飛ばすねぇ」
「ただ、これまでのあなたの発言を調べてみて気づいたんですけど、カジノ法案や集団的自衛権を容認する閣議決定、テロ等準備罪に、沖縄の米軍基地の問題、政権交代前は事業仕分けや原発事故への対応も手厳しく批判していました。でも、どこを探してもなかったんですよ……特定秘密保護法への反応が」
金沢の表情に、わずかな歪みが生じた。
「あれだけ野党や国民からの反対意見があって、半ば押し通すように可決された法律に、なぜあなたが無反応だったのか……理由は何となく分かりますよ。たぶん国の方に、『ボット』などの事情を知っている人がいるんですよね。警視庁にも、口に出さないだけで知っている人はいるんです、国政側に知っている人がいてもおかしくない」
「…………」
「国政への批判によって注目を集める目的はあったと思いますが、あなた自身、この法律の恩恵を受けている部分はあるでしょう。あなたが裏でしていること……それらが特定秘密文書に指定されていれば、たとえ国の役人に知られても明るみには出ませんから。その状況では無闇に非難できなかったんでしょう。下手に触れれば、その発言をきっかけに国政側から足をすくわれかねません。国政に否定的な雰囲気を作っていて、それでいて国に大きな影響力を持つ存在を、疎ましく思っている人は多いでしょうから」
……後から知ったことだが、この推測は美衣から言われたことをそのまま話しているだけらしい。政治のことなんてろくすっぽ知らないキキに、こんな推理ができるとは到底思えない。当然、金沢の発言を調べたのも美衣だろう。
「フン……妄想を働かせてばかりだな」と、金沢。「そんな話で世間が納得するとは思えないが?」
「妄想を働かせてばかり? それはこちらのセリフですよ」
「なに?」金沢の眉がぴくりと動いた。
「裏で不正工作に及ぶのも、ハッカー集団を率いて都合の悪い情報を消すのも、要は“自分のためだけの国”を実現しようとしているだけでしょう? 政治権力を乱用して、自分に都合のいい物事だけがまかり通る、そんな世界を作ろうとしている。でも……それこそあなたの妄想ですよ!」
ガタッ、という音を立てて、金沢が椅子から立ち上がる。憎悪のこもった目でキキを睨みつけるが、今のキキには通用しない。
「わたし言いましたよね。四年前の事件で隠蔽に関わった人間全員に、犯人は復讐しようとしていると……『ボット』の存在を公にして、あなたの“自分のためだけの国”という妄想を壊そうとする人がいるんです。あなたが掲げる身勝手な理想は、風前の灯火なんですよ」
「身勝手な理想だと? 政治のイロハも知らない子供に何が分かる!」
この口調やこの光景、もう何度も見てきた。この人は、星奴署の木嶋にそっくりだ。自分の勝手を押し通すためなら手段を選ばない、そういう人間だ。
「逆にあなたは、政治の世界に染まりすぎたから、分からないんじゃありませんか」
「なんだと?」
「ご存じですか。犯人が被害者の少年のひとりに、犯行直前に送ったメールにはこう書かれていたそうですよ。『確信犯に罰を与ふ』とね……これ、あなたのことでしょう?」
そうなの? 意味が通じていない気がするけど。
「わたしも辞書を引いて調べるまで知らなかったんですけど、“確信犯”というのは『思想的・宗教的な理由から正しいと確信して行われる犯罪』らしいですね。ぴったりあなたに当てはまるじゃないですか。あなたが正しいと思ってやった事は、他から見ればただの犯罪に過ぎませんからね」
ああ、言葉の意味を誤解していただけか……でもキキの場合、そもそも確信犯という言葉を初めて聞いたから、意味を知るためだけに辞書を引いたのだろうけど。
「……お前、私に対して何をする気だ」
キキの言動が、事前の予想からどんどん外れていくことに、違和感や危機感を抱き始めたらしい。容赦なく急所を抉るような物言いに、さすがの金沢もどう対処すればいいか分からなくなっている。
「『首を洗って待っていろ』と伝えられたはずですよ」キキは口元だけで笑う。「わたし達は警告しに来たんです。あなたは愚かで身勝手な確信犯です。私欲のために他人の命や人生を踏みにじった、その報いを受けるんです」
「報い、だと……?」
「とはいえ、もう手遅れです。すでに始まっていますからね」
そう、すでに始まっていたのだ。キキだからできる復讐が……。
同じ頃、通報で伝えられた容疑者の自宅アパート近くに、特殊犯捜査係と警備部の担当者が揃って駆けつけた。すでに他の住人の避難が終わり、SATの狙撃部隊は指定の配置についている。周辺は警官隊によって封鎖されている。
SATのA班隊長が、スコープ越しに窓の向こうを見た。そして、窓際の椅子に座っている中学生くらいの少年の後ろ姿を確認した。無線機に告げる。
「金沢怜弥らしき少年の所在を確認、対象の部屋の窓際で、椅子に座らされ拘束されている模様」
SAT隊長からの報告を、警備部の指揮官は同じく無線で聞いた。
「よし、次の指令を出すまでその場で待機、異状を見つけ次第ただちに報告するように」
「どうやら通報どおりみたいですが……」と、安角警部。「状況的には、こちらがやや不利ではありませんかね」
「都知事から、人質救出が最優先と釘を刺されているからな。万が一にも少年の身を危険にさらせば、さらに我々の首がひとつ飛ぶことになりかねん」
それは御免蒙りたい、安角は思った。警備部の人間からすれば、都知事が余計な口出しをしなければ、もっと手早く動けたはずだと不満でいっぱいだろう。
安角は、問題となっているアパートの一室、その玄関ドアに目をやった。
ドアノブには、ロック機構と連動する形で爆弾が仕掛けられている。本物かどうかは確かめられていないが、爆薬の筒の表面にはTNTと表記されている。威力の強い爆薬の一種だ。そしてドアの隅にはカメラが設置されていて、そのコードは室内に続いている。恐らくあのカメラで、ドアの近くを監視しているのだろう。
つまり、爆弾を解体しようと近づいても、またカメラを破壊したりハッキングしたりして機能を止めても、犯人はすぐに気づいて爆発させるかもしれないのだ。犯人の手元に起爆装置があるという可能性は、考えてしかるべきだ。また、うまく爆弾の無効化に成功しても、それさえ犯人にはすぐ気づかれて、今度は少年の命が危うくなる。ここまでする奴が、今さら少年の殺害をためらうとは思えなかった。
少年が窓際にいることは分かっているので、窓なら突破口が開けるかもしれない。手順を間違えなければ、だが……。
「なんだとぉ?」警備部の指揮官が無線機に向かって声を上げた。「じゃあ、そっちからも近づけそうにないのか?」
「どうしました?」安角が尋ねる。
「分かった。引き続き状況を逐一伝えるように」指揮官は無線を切ってから答える。「A班からの報告だ。窓から見える範囲で内部の状況を伝えてきた。……窓から突破する作戦は難しくなった」
「なんですって? 何があったんです?」
「拘束されている少年の首に、爆弾らしき機械が装着されていた。しかも、窓のある部屋の奥に大きな鏡が置かれていて、ベランダの様子が丸見えになっている」
安角は我が耳を疑った。ちょっとでも窓に近づけば、少年の頭部がちぎられるという事か。それでは接近する事さえできない。もちろん、玄関のカメラと同じで、銃で鏡を破壊しても結果は同じだろう。
「でも、鏡の位置や向きが、犯人からベランダが見えるようになっていれば、こちらからも鏡越しに犯人の様子を探ることも可能では……」
「無理だ。犯人は隣の部屋にいると思われるが、その部屋はカーテンなども閉め切って真っ暗になっている。明るいベランダは容易に見られるが、暗い部屋の中はほとんど見えない。しかもあの窓は東向き……これから待っても日が差し込む事はない」
「投光器で強烈な光を当てれば、犯人も身動きが取れなくなるのでは?」
「それでも鏡に当てなければ無意味だ。あの部屋の床には黒いシートが敷かれていて、床への反射も期待できない。部屋の奥にある鏡に直接当てるには、鏡に映る位置に投光器を置く必要がある。置いた瞬間に犯人に気づかれ、爆弾のスイッチを入れられるぞ」
「うわあ……詰んでしまってるぞ、おい」
安角は呆然としながら問題の部屋のドアを眺めた。こちらが取れるあらゆる手段を潰しにかかっている。想像以上に手ごわい相手、かなりの頭脳犯だ。
もはや強行突入という手段は潰えたといっていい。どうやら犯人は、直接交渉にしか応じない構えのようだ。わざわざ少年のいる窓のカーテンを全開にして、内部の状況が見える形にしているという事は、その意思をこちらに伝えているつもりなのだ。
「こうなると手段は交渉だけだ。安角くん、そちらに任せることになるぞ」
「元よりそのつもりで来ていますから」
交渉用の電話機と録音装置は用意が済んでいる。SATの突入や銃撃のタイミングを計りあぐねている間は、無闇に接触して犯人を刺激することはできなかった。だが、どちらも難しいとなれば話は違ってくる。
交渉によって突破口を開く、それ以外に方法はあるまい。
安角は通話用のインカムを装着し、先に調べておいた部屋の電話番号にかけた。コール音一回で相手は出た。
「聞こえますかな、横村朱美さん。警視庁捜査一課の安角といいます」
「お待ちしていましたよ」加工されていない、女の声だ。「なかなか電話がかかって来ないので退屈していました。状況を呑み込むのが少し遅いですよ」
いきなり挑発してきたか。油断ならない相手だ。
「まず確認させていただきたい。そちらが今いる部屋に、窓際で椅子に座っている少年がいるようです。その少年の名前は……」
「怜弥です」安角が言う前に答えた。「すでにご存じでしょう?」
「……その少年の首や玄関のドアに、爆弾を仕掛けていますね。それらを見るに、少年に危害を加えようとしていると解釈せざるを得ないのですが」
「解釈は自由です。でも事実は束縛されなければなりません」
哲学的な事を言って煙に巻くつもりか? 惑わされるな、安角は自分に言い聞かせる。
「その少年を解放し、我々に引き渡す意思はありますかな」
「イェス。私の提示する条件をあなたがた警察が忠実に履行すれば、解放します。履行されなければ、二つの爆弾を同時に起爆します」
抑揚も隙もない受け答え……やはり相当に頭のきれる奴と見るべきか。
「確かですな? こちらが条件を呑めば、必ず少年を解放すると」
「私は最後まで嘘などつきませんよ。もっとも、厳密な証明は不可能でしょうが」
「くっ……」抑えろ、抑えろ。「で、条件とは?」
「金沢怜弥の祖父、東京都知事の金沢晋太郎を、このアパートの前に連れてきなさい。金沢晋太郎知事と十分な話ができたとこちらが判断すれば、少年は解放します。以上」
そう言って相手は通話を切った。直後にモジュラーケーブルを抜いたらしく、それから何度かけても電話は繋がらなかった。
「…………フン、子供の脅し程度で屈すると思われるとは、なめられたものだ」
金沢はもう一度椅子に腰かけた。少し冷静さを取り戻したらしい。とはいえ、落ち着き払っているとは言い難い。
「私欲のため? 確信犯? 政治の世界はそんなものばかりだぞ。綺麗ごとやくだらない正義感を振りかざして、どうにかなるものじゃない」
「開き直りですか。そちらこそ、子供レベルの駄々をこねてどうにかなると思っているなら、世の中をなめすぎですよ」
……いまは、キキの暴言を笑えないなぁ。
「残念ながらこれは事実だ。君のいう事はある意味正論だが、政治の世界ではまるで議論に値しない」
「政治を絡めて議論させるつもりはありません。それに、あなたの言ったことは確かに事実でしょうが、間違いもあります。わたしは、正義なんてこれっぽっちも考えていませんから」
「んん……?」
金沢が眉をひそめた。金沢からすれば、キキのしている事が、よくある正義の味方の行動にしか思えないだろう。だから、キキが正義なるものに否定的なのが不思議でならないようだ。
「わたしはただ、大切な友達を傷つけられた、その元凶が許せないだけです」
「私怨か?」
「そのように受け取っても結構ですよ。別にわたしは、自分のやっている事が正しいと信じているわけではなく、当然のことだと思っているだけですから。友達を傷つけた相手を許せないと思うのは、ごく自然で当たり前のことでしょう?」
「これは驚いた……」金沢の表情が再び歪んだ。「確固たる信念に基づいた行動かと思いきや、感情に任せるままに動いているだけか。そりゃあ動じないわけだ」
「それでも一線は越えないよう自制しているので。もし越えそうになっても、ちゃんと止めてくれる人はいますから」
それはわたしのことだろうか。確かにいつも、暴走するキキのストッパーになってはいるが、それとはまた次元が違うのではないか。
「君たちの話を聞く限りだと、怜弥を誘拐した犯人に肩入れしているようだが、それは一線を越えているのではないかね」
「肩入れはしませんよ。犯した罪は償うべきですし、協力もしていません。ただ、止めないだけで」
「犯罪は止めるのが、ごく自然で当たり前のことだろう?」
「ええ、だからあなたのやろうとしている事も止めます」
金沢がどれほど、言葉尻を捉えるような反論を仕掛けても、キキは冷静に三倍にして言い返してくる。でも、水掛け論で終わらないか心配になってくるな……。
「……まったく、言いたい放題だな」
「お互い様です」
「だが、君もひとつ間違っている事がある」
「何でしょう」これでもキキは動じない。
「私から言わせれば、多くのハッカーは活躍の場が与えられない日陰者だ。『ボット』を束ねている人物は、彼らに居場所を与えているんだ。だったらそれは人助け、私欲のためと非難される筋合いはないと思うがね」
「それが人助けになるのは、その居場所が優れている場合の話でしょう。報酬というエサだけを与え、統率者の都合のいいように動かされるだけなんて……どこかのイスラム系過激派組織と同じじゃないですか。やっぱり身勝手な確信犯に過ぎませんね」
「あんな野蛮な暴力集団と同列に置かれるのは心外だな」
「あなたにとっては心外でも、客観的に考えれば同じですよ。わたしの友達の言葉を借りましょうか。有害無益な汚物は、いりません」
あさひが使ったセリフは、とどめの一撃になった。キキのペースに呑まれないよう、金沢は堪えるだけで精一杯に見えた。
しかし……この小競り合いはいつまで続くのかな。そう思ったとき、金沢が立ち上がって窓際に歩み寄った。
「……フン、『ボット』なんぞまだかわいい方さ。信念を持たない烏合の衆は、暴力的思想で結びついたテロ組織にはならない。君は知らないだろうが、日本には『ボット』以上に汚物と呼ぶにふさわしい組織がある」
「え?」
微かにキキの表情が変わった。金沢は何を言っているのだ?
「私も全容は知らない。警察庁が独自に標的名をつけたらしいが、その名前もこちらには流れていない。犯罪行為にも手を染めているらしいが、『ボット』以上に入念な湮滅を行なっているためか、ひとつも表に出ていない。だが……彼らにはひとつの信念があると判明している。彼らは宗教の意義を完全に否定し、論理こそがこの世界を支配するにふさわしいと考えている」
「論理が世界を支配する……?」
それは何というか、『ボット』以上に荒唐無稽な話だ。
「連中が具体的に何をしているかは知らないが、ある意味で君も、連中と考え方が似ているかもしれんな」
「はい?」キキは瞠目した。
「さっきから聞くに、受け答えが理屈っぽいからな。感情まかせを否定しない一方で、自分を否定するような主張は理屈でねじ伏せようとしている向きもある」
「……それは聞き捨てなりませんよ」
反駁に及んだのは他でもない、わたし、坂井もみじだ。
一歩前に出て、金沢に真っすぐ視線を向ける。
「キキは理論武装などしないし、真っ当なことしか言いません。理屈でねじ伏せたと思ったなら、それはあなたの主張が間違っているだけでしょう。キキは……論理で正しさを追求するまでもなく、正しいことが何なのか、肌でちゃんと分かる奴です。決して論理だけの人間じゃありません!」
「もっちゃん……」
「というか」いつもの口調に自然と戻る。「程度がどうであれ、平然と人倫を軽視するような人に言われたくないし、何も知らないのにキキを悪く言う奴はわたしが許さん」
「ちょっと感動が薄れた……嬉しいけど」
力が抜けた様子のキキ。嬉しいならいいじゃないか。
「……やれやれ、似た者同士というわけか」
「感心している余裕なんて、あなたにはありませんよ」と、キキ。
「ほお?」
「言いましたよね。あなたへの報いはもう始まっていると。あなたもすでに気づいているでしょうが、これは組織ではなく一般人の仕業です」
「一般人が権力者に戦いを挑むのか。無謀な……」
「いいえ、謀に満ちていれば無謀とはいえません」キキは口角を上げた。「実際、ここまでぜんぶ犯人の計画通りに、あなたは動きましたからね」
「なんだと?」歪んだ表情で振り向く金沢。
「あなたはまんまと犯人の策略に乗っかって、この件に警察を巻き込み、しかも孫の怜弥くんまで誘拐された。たぶん今ごろ、テレビや新聞の記者も集めているでしょう。この事件は全国的な話題になります。そうなったら収拾がつかなくなりますね」
おいおい、本当に全部の計画を話す気じゃないよな……。わたしはハラハラしながらキキを見ていた。
「とはいえ、犯人の目的はあくまで、怜弥くんとあなたへの復讐です。あなたに対しては、権威を失墜させるために何だってやるでしょう。例えば……怜弥くんの命と引き換えの交換条件とか」
「……怜弥の救出は警察に任せている。私は捜査について関知しない。犯人の要求にも応じるつもりはない」
「無駄ですよ。あなた自身が表面的にも関わらざるを得ない状況は、容易に作れます。たぶんそろそろ」キキは秘書の机の電話を指差した。「警察から電話がかかってきます。あなたを呼び出すという内容の電話がね!」
そう言ってキキは電話のある方を向いた、次の瞬間……!
何も起きなかった。
「あっれー?」首をかしげるキキ。「鳴らないや」
「そんな都合のいいタイミングで鳴るか。ドラマじゃあるまいし」
と、わたしが突っ込んだ直後に、問題の電話に着信が入った。
「あ、鳴った」
「もしもし、知事室の剛田です」
ごつい顔つきの男性秘書が受話器を取った。テレビには出せない顔だなぁ。
「知事、警視庁の警備部長からです」
キキの予想通りに進んでいる。金沢は舌打ちしながら駆け寄り、秘書から受話器を受け取った。
「金沢です。怜弥の件で何か進展が?」
警備部長から何を聞かされているのか、わたし達には聞こえない。だが、金沢の表情がみるみるうちに強張っていく様子から察するに、いい知らせとは思えなかった。
「……分かった、すぐに行こう」
金沢はそう言って受話器を置き、外出の準備を始めた。
「捜査には関知しないつもりではなかったのですか」と、キキ。
「私は忙しいんだ。話はここまでだ」
金沢は取り合おうとしないが、キキは気にしなかった。
「……フィリップ・マーロウはこう言ったそうですね。人を撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だ、と」
すでに功輔が引用していた言葉だ。
「…………」金沢の動きが止まる。
「あなたの場合、撃たれる覚悟も持たないうちに、撃ちすぎたのではないですか?」
「……だったら撃たれる前に撃ち返すまでだ」
そう言って金沢はわたし達の脇を通り抜け、秘書だけ残して知事室を出て行った。
この瞬間……何もかも終わったと、わたしは思った。
「さ、わたし達も帰ろうか」
「おや、結局何もしないで帰るのか」と、舛岡警視。
「わたし達にできる事はもうありませんからね。行こう、もっちゃん」
「うん……いや、もっちゃんと呼ぶなよ」
さっさと先に出て行くキキを、わたしは慌てて追いかける。最後に残った舛岡は秘書に軽く頭を下げてから、同じく知事室を出た。
前を進むキキの背中を見ながら、わたしは改めて思った。
やはり彼女は名探偵じゃない。こんなのは、名探偵のやることじゃない。でも、これがきっと正しかったのだと、わたしは信じるしかないのだ。
キキって、安倍政権に対してずいぶん手厳しいですね……。