その25 真相PART.3
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横村先生は、恐ろしいものでも見ているかのように眉をひそめ、震える口でわたしに言葉を返した。
「……どういうこと?」
本当に少しも予想していなかったのか……慎重に慎重を期して犯行を重ね、関係者には固く口を閉ざすように念を押したのだろう。考えてみれば、都知事サイドは被害者のメンツから四年前の山田聡史の事件を想起するだろうけど、その事件に直接関わっていない人が犯行に加担していれば、さすがの『ボット』でも辿り着けない。だから都知事に先を越される心配はないと踏んでいてもおかしくない。
ならば他の人間も辿り着けるものじゃない……先生はそう考えていた。確かにそうかもしれない。わたしが手掛かりを掴めたのは、本当に偶然が積み重なった結果だ。
「その証言者が誰か明かす前に、聞いてほしい話があります。これは……先生にしか話せない事なんです」
「私にしか……?」
「覚えていますよね。先週の金曜日……お疲れ気味だった先生に、チョコを渡したこと」
「ええ、もちろん。おいしかったわよ」
「ありがとうございます」
「あれってどこのチョコなの? 外国のものみたいだけど」
「分かりません」
「え?」
わたしは先生から視線をすっと外し、ひとりごつように言った。
「あれは貰い物です。とても食べられる物じゃなかったから……いい機会と思って渡しただけなんです」
「処分しようとしたってこと……? でもなんで」
「……ストーカーから貰ったからです」
先生の、息をのむ声が聞こえた。この単語に嫌悪感を示したなら、正常の証だ。
「坂井さん……ストーカーの被害に遭っていたの?」
「深刻なものじゃありませんよ。何度か後をつけられた程度ですし、チョコは本人から手渡しされたものですから」
「それでも状況がよく呑み込めないんだけど……」
「そんなに長い話じゃないですよ」
木の柵に手を突いたまま腕を伸ばし、気持ちを整えてから言った。
「そのストーカーっていうのは、わたしより一歳下の女の子なんですよ」
「ど、同性のストーカー?」
「周りから言わせれば、わたしは女の子にモテる体質みたいですから、その辺は今さらですよ。その女の子も、以前からわたしのファンだったそうです。畏れ多くて話しかけられなかった彼女は、ストーキング行為を繰り返すようになった、というわけです」
「ず、ずいぶん可愛らしい動機ね……」
「まあそれだけなら可愛げがありますけど、相手であるわたしが振り向かなければエスカレートするのも自然なことで……その子はついに盗撮行為に及んだんです」
「え」
先生の頬が引きつった。これはたぶん、変なものを想像したな。
「別にセクシュアルハラスメントみたいなものじゃないですよ? 部屋の壁に貼って眺めるために、全身写真を撮ろうとしただけで」
「それで割り切れる坂井さんも、神経強靭ね……」
「これが男だったら容赦なく叩き潰すところですけど、年下の女の子ですからね。もっとも、わたしに男がストーカー行為を働くとも思えませんけど」
卑下しているつもりはない。だって事実そうだから。
「でも、盗撮を始めたらすぐわたしに気づかれて、結局その流れで全部の事情を打ち明けてしまったんです」
「思ったより早く露顕したわね……」
「そんなに長い話じゃないって言いましたよ。まあ、無下にする事もできなかったんで、とりあえず盗撮写真は保存していたSDカードごと没収して、厳重注意するだけに留めました」
「年下の女の子が相手でも、ずいぶん甘い対処に落ち着いたわね」
「手段はともあれ、彼女がわたしに抱いていた好意まで否定することはできませんから」
それゆえに、盗撮写真が入っていたSDカードをどう処分すべきか、ずいぶん悩んでいた。そんなとき、わたしはキキと一緒の帰り道で、真鍋少年が銃殺される現場に遭遇し、逃走する犯人の写真を撮影した。その瞬間……証拠写真を警察に提供する形で、SDカードを自然に手放せると考えてしまい、その通りに実行した。盗撮写真を消去し、代わりに犯人の写真を移動させた。
……いま思うと、かなり姑息なやり方だったかもしれない。これもまた、わたしの甘さが引き起こした結果なのだ。
「その女の子からチョコを貰ったのも、その時?」
「はい。突き放すのもかわいそうだと思って、受け取ってしまいました。同時に、携帯の番号も交換しました。とはいえ、それはバレンタインと同じで、食べたらあの子の好意を受け入れることになりかねない……わたしにはその決心がつかなかった」
「だから食べられなかった……そういう事だったのね」先生は腑に落ちたように、しきりに頷く。「で、それが証人の話とどうつながるの?」
ここからだ……自分の話を延々と続けておいて、何ひとつ決定打を与えられなければ、完全な独り相撲で終わってしまう。詰めを誤らないよう、慎重に……。
「……その女の子の名前は、川谷唯那っていうんです」
能登田中で唐沢菜穂の口からその名前が出た時は、動揺を抑えるのに必死だった。
「そしてその子には姉が一人います。名前は、雪奈といいます」
「…………!」
先生の表情が歪んだ。わたしのいう“証人”が誰なのか、分かったようだ。
「川谷さんのお姉さんは、仕事の時だけ、サブネームとして中谷の名字を使っています。本名で作品を世に出すのが嫌だと言っていました」
偶然というのはかくも恐ろしい、あの時は心の底から思った。中谷が、わたしが唯那から貰ったものと同じチョコを取り出さなければ、気づくこともなかった。唯那に、仕事で離れ離れになっている仲良しの姉がいることは、菜穂の口から聞いていた。まさか、その姉とあんな形で遭遇するなんて……。
「中谷さんが具体的に、犯人というか事件に関わっているのか、わたしにはよく分かっていません。ただキキが……中谷さんが口にした言葉をずいぶん気にしていて、それを別の友人に相談してから、犯人の計画に見当がつけられたと話していました」
「そう、なの……」
計画がすべて見抜かれていると知って、先生は落ち着きを失いかけている。もう一押しでいけそうだ。
「何か関わりがあるはず……そう考えて、わたしは川谷さんに電話しました。お姉さんの住所を教えて、そこに行ってお姉さんの通話記録を調べてほしいと頼みました。どうやらあの子、まだストーキングを続けていたらしくて、負い目があったのかすぐに了承してくれました」
なんでも、能登田中から出てきて功輔と電話で話していたあの時も、電柱の陰からこちらを見ていたらしい。よほどわたしを強く慕っているようだ。
「もっとも、やろうとしたらすぐ中谷さんにばれたようですけどね。でも、川谷さんの必死の説得もあって、記録を見ることだけはできたそうです。その番号はぜんぶ、わたしに届いた報告メールに書かれています。まあ、それ以上は聞き出せなかったのですが」
星奴署に行く前……わたしの携帯に届いたメールがそれだった。いきなり『ごめんなさい』で始まっていたから、一瞬失敗に終わったかと思ったが、どうやら相手に知られただけで、頼まれた通りに通話記録を見ることはできたと知って安心したものだ。
「…………」
横村先生は、片手で顔を覆っている。表情を見られたくないのかな。
「さっきも言ったように、キキはすべての繋がりを見抜いています。もちろん、キキが警察を巻き込まないと決めている以上、わたしもこの事は警察に言いません。それでも、中谷さんの証言は大きいものになります。まだわたし達への協力は得られていないので、証拠にはなりません。でも中谷さんは、大事なヒントを与えるほどキキに興味を持っています。証人になるのは時間の問題だと思いますよ……」
そうでなくても、唯那からのメールに書かれた番号を照合すれば、横村先生の番号である事はすぐに分かる。でもこれは第三者を介しているため、確実な証拠にはならない。だから結局のところ、中谷の証言だけが頼りなのだ。
しかし、ここまでくれば先生にも否定の余地はない……。
「教えてくれませんか。先生がどのようにして四年前の事件と……山田聡史くんと関わったのか」
わたしは、できる限り強い口調にならないよう気をつけながら言った。
先生は顔から手を離し、項垂れて口元を震わせていた。踏み込ませまいと必死で耐えているのが、ありありと伝わってくる。でも、もう我慢の限界のはずだ。
だって先生は……分かってくれる人が欲しいだろうから。
「…………これは、独り言、だから…………」
重い口を開いた。うん……これ以上は無理をさせないようにしないと。
「いいですよ、独り言でも」
そう言ってわたしは、柵にかかっていた先生の手に、わたしの手を重ねた。大丈夫、ちゃんと温かい。
「坂井さんには前に話したわよね。私の甥のことを……」
横村先生は語り始めた。先生の甥というと、先週職員室に行った時に見た、あの写真の少年だ。六年前に撮ったもので、その時点で八歳だったはずだ。
……ああ、そうか。唐突に腑に落ちた。誰かに似ていると思っていたが、横村先生の甥だったか。冷静に思い返せば、まったく違う人だけど。
「姉夫婦の子供でね……よく私に懐いていたのよ。実の母である姉よりも」
「え?」
「姉は育児放棄状態に陥っていたの。食事こそ作っていたけど、夫婦ともどもまともに子供の相手をしていなかった……あの子にとっては、もしかしたら私の方が親に見えたかもしれない。私にとっても、あの子の存在は癒しに等しかったからね」
叔母と甥という関係ではあったけど、先生にとっては本当の息子のような存在だったのだろう。普段から醸し出している母性に似た雰囲気は、そうして育てられたのかもしれない。……独身女性に母性なんて言ったら、睨まれそうな気がするけど。
「だけど六年前……そうね、あの写真を撮ってから間もない頃だったわ。甥が死んでしまったの」
「えっ!」わたしは驚きを隠せない。「ど、どういう事ですか。まさか、お姉さん夫婦に何かされたとか……」
「いいえ。数組の親子連れと一緒に行ったキャンプ場で、姉夫婦が目を離していた間に、川に落ちて流されたのよ。冷たくなった状態で見つかったのは、翌日だったわ……」
思いもよらない展開が待っていた。わたしはてっきり、写真に写っていた少年は今も健在だと思っていた。そんな事はひとことも言ってなかったのに……。
「あの子の亡骸を前にして、姉は泣いて悔やんだそうよ。こうなると分かっていたら、ちゃんと相手をしてやればよかった、って……」
「遅すぎますね、それは……」
「私もそう思ったけど、言わないでおいてあげたわ。さすがに姉もその旦那も、ショックを受けていたのは分かるし……私も、心に深い傷を負ったわ。こればかりは、本当にどうしようもないけどね」
鬱屈した空気を纏わせながら、横村先生は寂しそうに俯いた。
「当時は塾で講師をしていたんだけどね、しばらく甥を失くしたショックを引きずって、仕事にもなかなか身が入らなかった……もうやめようか、なんて思い始めた頃だったわ。近所の公園を通りかかった時、その甥に似た雰囲気の男の子を見かけたのよ」
「それが、山田聡史くんだったんですね」
聡史の家で彼の写真を見た時、雰囲気が誰かに似ていると思っていた。それが、一週間前に見た写真の少年だとは、すぐには気づかなかった。
「その子は砂場で一人きりで遊んでいた。思わず半ば衝動的に大声で名前を呼んだけど、驚いて振り向いたその子の顔を見たら、まったくの別人でがっかりしたわ」
「名前よりもむしろ、大きな声に反応したのかもしれませんね」
「たぶんね」横村先生はいつものように笑った。「なんか恥ずかしくなって、私、その場にしゃがみ込んじゃった。まあ、それがきっかけだったのよね」
まさかとは思うが、そういう経緯があったから打ち明けたくなかったのでは……。
「その男の子……聡史くんに、私は事情をぜんぶ話してしまったの。でも……あの子は優しい子だったわ。私のために心の隙間を埋めたいと言って、甥が好きだったサッカーを始めて、私の前で練習するようになったのよ」
ああ、そういう事か。それが功輔の抱いた違和感の正体だ。
聡史の父親は、功輔が聡史をサッカーに誘ったと言っていた。だが、事前に聞いた功輔の話では、功輔と出会う前から聡史はサッカーの練習をしていた。父親には内緒にしていたようだが、実際にサッカーを始めるきっかけを作ったのは別の人だった。まさかそれが横村先生だったなんて……。
「初めは戸惑ったけど、次第に私も、聡史くんを息子のように感じ始めたわ。甥が亡くなった事故以来、姉たちとも疎遠になってひとりの時間が増えたから、幾度となく練習を見に行くようになった。そのうち部活にも入って、彼の親に気づかれないようにしながら応援に行ったわ。本当に楽しかった……でも、長くは続かなかったの」
聡史が殺されたのは四年前の今ごろ。つまり、横村先生との交流は二年くらいで、それも突然に終わったことになる。
「…………」
「…………」
お互い、その事には触れなかった。先生にとっては、大切な甥を二度失ったようなものだ。その痛みと悲しみは、想像ひとつで理解できるものじゃない。
「……三か月くらい経って、私はようやく気持ちを立て直したわ。精神的ショックは残っていたけどね……でも、新聞記事の不自然さに気づいたら、いても立ってもいられなかったわ」
悲痛な感覚がぶり返すのを恐れたのか、聡史の死を知った経緯については飛ばした。何となく予想はできるから、むしろ話さない方がわたしとしても助かる。
「数人の友人と遊んでいる最中に亡くなった、というくだりですか」
「坂井さんも調べはついているようね。私の知る限り、聡史くんに友人と呼べるような子はほとんどいなかった。しかも、町工場は他人の敷地……そんな所に入り込んでふざけて遊ぶなんて、私の知っている聡史くんからはまるで想像がつかない」
聡史くんの父親も、だいたい同じ疑問を抱いていた。
「それで、聡史くんの担任の先生を装って、彼の自宅を訪ねたの。母親は事件のショックで精神を病んだらしくて、その時は父親しかいなかったけど、新聞以上に詳しい話を聞くことができたわ」
やはり聡史の家を訪ねていた“女の先生”は、横村先生だったか……。功輔が、当時の聡史の学年に女性教師がいないと言ったとき、わたしはもう、犯人は横村先生しかいないと考えていた。
「証拠はないけれど、聡史くんがいじめに遭っていた可能性が高いと言っていたわ。その年の夏頃を境に、家の中でも急に口数が少なくなったらしいから……」
「いじめていた少年たち、聡史くんが亡くなった現場にいた少年たちのことは、どうやって調べたんですか」
「聡史くんの父親が、知らせを受けて警察署に行ったとき、事情聴取を受けていた少年たちの顔を見ていたのよ。全員、聡史くんが通っていた学校で見た覚えのない子だったそうよ。それで、父親が覚えている限りの特徴を聞き出して、長い時間をかけて素性を調べ上げた……具体的には、特徴に合致しそうな同級生または上級生の男子を選び、写真を父親に見せて特定してもらった」
「……あの、早い段階で聡史くんの父親に正体がばれてませんか」
「薄々気づいていたかもしれないけど、私は担任で通し続けたわ。担任なら、気になって調べようとするのは不自然じゃないし」
行き過ぎだと思われたのではないだろうか……。
「それでも疑問は尽きなかったわ。何がきっかけで、違う学校の生徒からいじめを受けることになったのか、なぜ警察は事実を隠そうとするのか……。一介の塾講師が自力で調べられる事は限られているし、ネットで情報を募ろうとしたの」
「でも、ネット上に載せた記事が、翌日には消えていたんですね」
「そこまで調べがついていたの……すごいわね、あなた達」
「キキは色んな所にパイプを作るのが得意なんですよ。おかげでたくさんの情報が水でも流れるように入ってくるんです」
信頼を構築する速さと、引き寄せる運の強さが、キキの情報収集力を支えているのだ。本人には今ひとつその自覚がないのだけど。
「ふうん……まあ坂井さんの言ったとおりで、同じことは何度も繰り返された。クラッカーの存在は容易に想像できたわ。記事が消されるタイミングの早さとか、情報統制が徹底されているこの状況から、権力者が従えている可能性も考えた。もしかしたら、事実が隠された理由はその権力者の存在にあるのかもしれない」
もろ刃の剣だ……『ボット』によって悪評を消してきた行為が、逆に『ボット』の存在や都知事の関与を疑わせるきっかけになったのだ。これもまた行き過ぎだな。実際、横村先生の考えはすべて的を射ていた。
「私は、同様の被害者がいるかもしれないと思って、パソコンとルータを替えて、情報を消そうとしている連中が気づきにくいような文面で再び情報を募った……そこで知り合ったのが、中谷雪奈さんよ」
「なるほど、そうして中谷さんと関わりをもち、同時に、聡史くんの事件に至った経緯に見当をつけられたというわけですね」
「ええ、中谷さんの彼氏の都庁職員が姿を消した時期と、聡史くんがいじめを受けるようになったとされる時期が、ぴったり重なっていたから。真相に気づいた時、私は復讐を考え始めた。隠蔽を指示した都知事、それを実行して聡史くんの名を汚した警察、元凶となったクラッカー集団、そして実際に聡史くんを死なせた、あのガキ共を……」
先生は両手を握りしめた。大切な存在を奪われた人の恨みは、かくも恐ろしい。横村先生が初めて、他人を罵るような言葉を使った。
「簡単な事じゃないのは分かっていたから、必死に作戦を練ったわ。冷静に自分を取り巻く環境を整理したら、復讐に使えるものがたくさんあることに気づいたの。おかげで計画はどんどん現実味を帯びていった。もっとも、銃弾消失トリックを実行するには、少し射撃をかじっただけでは駄目だったから、そこはプロである北原を頼るしかなかった。事件後にあの町工場で起きたトラブルも調べはついていたから、北原も協力は惜しまないだろうと踏んで、彼が出所するまで待ったのよ」
「そして四年後の今年、計画を実行したわけですね……それ以前から、着々と準備を進めていたでしょうけど」
この事件は思いつきで起こせるものじゃない。凶器となる特殊な銃の作成、殺害場所の選定、他にも各方面で用意しなければならないものが多くある。万端に準備を整えるまでには長い時間を要するはずだ。
「その通りよ。三年以上かかったけど、どうにか北原の出所には間に合ったわ。その間、実際に殺害する少年たちが入学した中学校を特定し、彼らが通っていない学校に入ったのよ。幸い、中学・高校の数学の教員免許は持っていたから、四ツ橋学園の外部採用制度のおかげですんなり入れたわ」
「学校での関わりから辿り着かれないようにするため、ですね?」
「ええ、そこはあのキキちゃんの推測どおりよ。恐いわね、あの子……事実をみんな見抜いてくるから、平静を装うのが大変だった」
落ちついて受け答えをしていたが、内心はかなり必死だったのか……。しかし、恐いと言われたなんて知ったら、キキはまた機嫌を損ねそうだ。
「キキちゃんは繋がりをぜんぶ見抜いていると言ったわよね。だったら、これから私がやろうとしている事も、看破しているのかしら」
「恐らくは……」
「だったら、何も私に気を遣うまでもなく、止めにかかってもいいと思うわよ。なるべく実行は北原に任せていたとはいえ、私自身も二人の命を手にかけている……計画を完遂して警察に捕まることになれば、どちらにしても甘い結果は待ってないもの」
「だから、自分の身を犠牲にしてでも……なんて考えています?」
先生は答えなかった。もうこれは図星と解釈していい。
金沢都知事は犯人をテロリストとして葬り去ろうとしている。もちろん、先生はその状況を利用してすべての事実を暴露するつもりだが、自分の身の安全は保証できない。さっきから先生の様子を見る限り、その危険への対処を考えているとは思えなかった。
「……相手は大物政治家で、巨大なクラッカー集団を従えている。悪事が暴かれる恐れがあれば容赦なく抹殺するような人よ」
「…………」わたしは思わず歯ぎしりをした。
「強大な敵を相手に戦うには、多少の犠牲は致し方ないでしょう」
「無責任ですよ!」
我慢の限界に達し、わたしは声を張り上げた。先生はぎょっとして見返してきた。わたしが本気で怒ったところなんて、たぶん先生は見たことがないだろう。
「キキの言ったとおりだ……」わたしは眉根が寄るのを感じた。「英雄的行動は本当に無責任だ……誰かが大切に思ってくれているのに、それを無視して犠牲も厭わず戦うなんて馬鹿げている。そうまでして戦うことに、意味なんてない……」
「……坂井さん?」
「わたし、最初に尋ねたはずですよ。わたし達の存在は、先生にとって救いにならなかったのかって……」
さっきは白を切ったが、すべての事情を告白した今は、その言葉を真正面から受け止めなければならない。これこそが、わたしが伝えたい事のすべてだ。
「…………」無言で見返す横村先生。
「分かりませんか? 二年D組のみんな、先生のことが大好きだから……先生の心が傷ついたら、何をしてでも癒したいって思ってくれるんですよ。聡史くんひとりの復讐のためだけに、わたし達を悲しませないでくださいよ」
「坂井さん……」
「先生、キキはたぶん、あなたの復讐を止める気などありません。わたしも、先生の復讐は止めません」
横村先生からすれば理解不能だろう。「え?」とでも言いそうな顔で、わたしが発する言葉に耳を傾けていた。
「正直わたしは……高尚な言葉で説得して止められるほど殊勝な人間じゃないし、わたし自身、金沢都知事を許せません。あの男を何としても潰したいと思う気持ちは、残念ながら理解できてしまいます。もしかしたら協力してしまうかもしれない」
「うん……」
「それでも、先生だけは……必ず無事に戻ってきてほしいんです」
わたしは俯きながら、落涙を必死で抑えながら、ありのままの言葉で訴えた。
「何年かかったっていい。先生が戻ってくるまで、みんなで待っていますから……死んでもいいなんて、思わないでください……」
込み上げる想いは、留まるところを知らなかった。弱い姿を見せたって、わたしは気にしない性格だと思っていた。でも、なぜだろう……泣きそうな顔をしていると分かると、顔を上げたくなくなっていた。
不意にぬくもりに包まれる。先生は、わたしを抱擁していた。
「ごめんね、坂井さん……こんな身近に、私を想ってくれる人がいるってこと、すっかり忘れていたわ。そうよね、あなた達を悲しませる事なんて、私にはできない」
「先生ぇ……」
ああ、駄目だ。心のタガはもう限界だ。覚悟していた瞬間だ。
「約束する。先生は、何があっても、あなた達を悲しませないから……」
「……約束ですよ。絶対、笑顔で戻ってきてくださいよ」
「分かってる。必ず、無事に戻ってくる」
横村先生の服を両手で握りしめながら、わたしは先生の胸の中で嗚咽を繰り返した。今生の別れになどならない、分かっているはずなのに、なんでこんなに苦しいんだ。
離れたくない。その思いの強さに気づかされる。
澄み切った夜空の下、わたしはその思いごと先生を抱き返した。
……でも、約束した先生は、これからどうするのだろう?
作者からのひとこと
第一章22話で、能登田中を出るもみじを電柱の陰から覗いていた怪しい人物がいました。実は、このセクションで真相を明かす前に、その正体を突き止めるための手掛かりを仕込んでいました。もみじにストーカーがいたことは、もしかしたら誰かが予想していたかもしれません。問題の“怪しい人物”の正体がそれであることに、どれだけの人が気づいたでしょう。
これは読者に対するトラップであるため、作中では説明されません。どうぞ読者の皆さまで、手掛かりを見つけてみてください。
さて、お話はもう少し続きます。